第6話【この夢、疲れるわ(1)Cansado de los sueños】

 とにかく、トラスマタ通りまで行ってみよう。

 そう決心した私は、暮れなずむセビージャの街を歩き出した。夢の中なら、そのうち目が覚めるだろう。これが夢じゃないって、どうしてわかる?現実世界と夢の中では、時間の進み具合だって違うはず。もう4時間も経っていると考えて驚いたけれど、現実世界では15分ぐらいしか経っていないのかもしれない。

 

 それに、現実世界にはPenpenがいる!ぐーぐー寝ている人間を見て、鼻を噛んだり、耳を舐めたり。やりたい放題で、私を起こすに違いない。

 その前に、トイレの砂を掻く音で目覚めるかもしれないし、そうだそうだ、大丈夫!

 Penpenという一筋の光を思い出し(なぜ、今まで思いつかなかったのか?)、俄然、元気が出てきた。

 

 いつものことを考えれば、絶対、Penpenに起こされるという確信のおかげで、安堵感が身体中に広がった。と、同時にすごい疲労感に気がついた。前に進もうとしても、足が鉛のように重くて、なかなか進めない。

 『おお、これこれ。夢の中って、走っているのに走れないとかあるよね〜』と、ますます、夢の中という確信が高まってくる。

 なぜ、夢じゃないと思ったんだろ?

 今となっては、さっきの恐怖とか焦りとかの感情が不思議でならない。焦らずとも私は、ちゃんと目が覚める。

 起きたらPenpenが不機嫌な顔で見ているはず。お世話係が寝ていたから、なでなでして欲しいのに撫でてもらえなかったとか、カリカリが食べたいとか。きっと、要求の嵐に翻弄されるのだ。そうしているうちに、この夢の記憶も薄らいで、そのうち忘れてしまうんだなと思ったら、少し残念にさえ思えてくる。

 

 夢の中というのが決まった今、さて、どうしようか?

 前子さんの家に行かなくてもいいんじゃない?

 それに、わざわざ訪ねていって、どう話せばいいのか。まさか「いやぁ、実は、これは私の夢の中なんですよ。そろそろ夜になるので、目が覚めるまでお邪魔させてください」なんて、言えるはずもない。


 重い足を引きずりながら、ずるずる歩いていると、賑わっているBarが目に入る。みんなビールやワインを飲みながら、ご近所さんとのおしゃべりに夢中になっている。


「いいなぁ。私もビール飲みたいなぁ」


 Barに入ろうにも日本円しか持っていないから、何も飲めないじゃないか。あっ!でも夢の中なんだった。なら、大丈夫なんじゃない?


  私は、意を決して目の前のBarに入った。カウンターの中にいたお兄さんが、ニッコリ笑いながら『Hola!』と声をかけてくれる。私も、笑顔で答えて

 「Una cerveza, por favorウナ セルベッサ ポル ファヴォール.(ビールください)」

「Sí, 1.65euro, por favor.」

 ああ、ここはキャッシュオンデリバリー方式なのね。

 私は、(内心ドキドキしていたけれど)知らんぷりして100円硬貨2枚を出した。


 お兄さんは、ビールをグラスに注ぎながら、私が出した硬貨をじっと見ている。

 うまくいけば、お釣りをもらえてしまったりなんかして、と思っていると

「ああ、セニョーラ、これはスペインのお金じゃないよ。どこのお金?」

「日本・・・」

 私は小さい声で答える。

「へぇ、日本のお金かぁ。珍しいね」

 お兄さんは、100円玉を手に取り、珍しそうに見ていたけれど、

euroユーロで払ってくれる?ハポネサ」


 もじもじしていると、お兄さんが、もう一度、今度はゆっくりと

「「euroユーロで払ってね」


 ダメか。夢の中でも通用しないようだ。仕方がない、ごめんなさいして、お店を出ようと曖昧な笑顔を浮かべた私に


「クレジットカードは?」


 おお、カードか。それなら、持っている!

 私はお財布からカードを出すと、お兄さんに手渡した。


 やれやれ、これでビールが飲めるぞ〜と喜んだのも束の間、お兄さんが首を傾げながら、残念そうにこう言った。


「セニョーラ、ごめんね、このカードは、使えないみたいだ」

「え?どうして?」

「VisaかMasterしか使えないんだ、ごめんね」


 そうだった。JCBって使えるところが少なかったんだ。落胆する私に、ビールを差し出しながらお兄さんが言った。


「僕からのプレゼント。ゆっくり飲んでいって」

「え?いいんですか?」

「他のお客さんには出せないし、捨てるしかないからさ。それなら、ハポネサに飲んでもらえた方が、僕もこのビールも嬉しいから」

「ありがとうございます。¡Muchas gracias!」


**********

 

 ビールを飲んでいた前子さんが、koukoを見かけたところに時間を戻そう。


 フェデリコ・サンチェス通りの真ん中で立ち止まっているkoukoに声をかけようと、Barを出た前子さんが歩き出すと、koukoもゆっくりと歩きだした。

 

 声をかけるには、少し離れている。

 もう少し近づいてから声をかけようと、前子さんは足を早めながらkoukoの方に向かうが、koukoの足も、少しずつスピードアップしているらしく、なかなか追いつけない。結果、koukoを尾行するようになっている前子さんは、完全に声を掛けるタイミングを失ってしまった。


 それでも、何となく気になって前子さんはkoukoの様子を観察しながら、後を追いていく。


「さっきは不安そうだったけれど、今はとても疲れているみたいね。足を引きずっているわ。大丈夫かしら」


 しばらく歩いているとkoukoが1軒のBarに入って行った。


「あら、Barに入ったわ。そうだ、声をかけて驚かせちゃおう」


 前子さんが、koukoが入ったBarの入り口にたどり着いた時、すでにkoukoは注文を済ませていたようだ。カマレロと何か話しているようだ。

 でも、そのうち様子がおかしいのに気がついた。

 カマレロが、硬貨を見て首を振っている。

 耳を済ませて2人の会話に注意を払っていると、日本のお金という単語が聞こえてきた。


「日本のお金ですって!?」

 

 思わず声に出してしまったが、周りのおしゃべりの声にかき消され、koukoには届かなかったようだ。

 

 「koukoさん、日本円で払おうとしたの?」

 

 もしかしたら、ユーロ硬貨と日本の硬貨を間違えたとか?でも、どうやら違うらしい。やりとりを見ていると、koukoはユーロを持っていないようだ。

 と、そこにカマレロがカードでも支払えると言っている。


「ああ、よかったわ」


 でも、どうやらkoukoのカードは使えなかったらしい。カードを返すカマレロの顔が、本当に残念そうだ。


「何をオーダーしたのかしら。1杯、奢ってあげましょう」

 そう、前子さんは呟くと、カウンターにいるkoukoに声をかけようと近づいた。

すると、カマレロが「プレゼントするよ」と言っているのが聞こえた。

 それに答えるkoukoの声も、嬉しそうに弾んでいる。


「あら、よかったわ。でも、どうしましょう。このまま、彼女を置いていっても大丈夫かしら。見たところ、特にお買い物をした様子でもないのに、ユーロを持っていないなんて。ホテルに帰れば、あるのかしら?もう、暗くなってるし、ちゃんと、ホテルに泊まっているのよね?ああ、さっき、ちゃんと聞いておけばよかったわ。一応、連絡先は渡したけれど、もしかして、携帯持ってないかもしれないわよね。やっぱり、置いていけないわ」


 Barの入り口付近で、ずっと立っている前子さんに気がついたカマレロが声をかけてきた。

「マダム、注文ですか?」

「あら、ごめんなさい。知り合いを見かけたような気がして、入ってきたのだけれど。居ないみたい」

「じゃぁ、せっかくだから1杯、飲んで行きませんか?」

「ああ、さっき、そこのBarでビールを飲んできてしまったの。また、今度、寄らせていただくわね」


 前子さんがBarを出ると、すっかり辺りがは暗くなっている。

「やっぱり、ホテルまで送りましょう。何かあってから後悔するのは嫌だから」


 Barから少し離れた場所で、koukoを待つことにした。

「見逃さないようにしなくちゃね」

そういうと、前子さんは、冷たい風が入らないようにコートの前を、グッと引き寄せた。

 


 


 









 


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