第21話 境界

 真夏のアスファルトのように私の体温が上昇するのがわかる。勢いに任せて彼との距離を詰めてみたけど、想像以上に恥ずかしい。


 頑張れ私!

 持ちこたえろ心臓!

 意識をしっかり雪音ゆきね


 桃太郎ももたろうの世話を一緒にしている時に軽く体が触れ合う事は何度かあった。そしてバスの中でも。

 けれどこんな長時間……それも私から行動を起こした事が今までにあっただろうか?

 否っ!


 結論……目玉焼きが焼けちゃうわ。


「きょきょきょ……今日は暑いね!」


 きょの連打。


「う、うう、うん! 暑いね!」


 うの連打。


 んふふっ。私と一緒じゃん。


 その事実が私の心の深いところに染み渡り少し冷静になれた。


「ごめんね急に」


 何がとはあえて言わなかった。だって言ったら恥ずかしくなるもん。


「嬉しかったから、大丈夫だよ」


 結論が先に出る彼の言葉に私の顔がニヤケを増す。手の温もりが増していくのがわかる。


 観光客で賑わっているはずなのに私と彼の周りだけとても静かに感じる。花びらが落ちる風きり音まで聞こえてきそうな静寂の中、彼が風の音を口にする。


桃宮ももみやさん。もう少し歩いた先にここで1番有名な場所があるんだけどさ」

「うん」


「そこに行かない?」

「もちろんいいよ。鬼神おにがみくんに任せる」


 今は何も考えられない。手を握るだけで心臓が飛び出てしまいそうなのに他の事を考える余裕がない。手を引かれて半歩後ろをゆっくり歩く。


 うん、この位置が私には丁度いいかも。


 彼の横顔が1番見やすい位置。

 彼からは私の今の顔が見えない位置。

 ふとした瞬間に目が合う位置。


 気にしてくれてるのかな、そうだったらいいな。


 私の歩幅に合わせてくれる彼。身長は私の方が少し高いけれど、歩くスピードは彼の方がいつも早い。今日は私のペースに合わせてくれる。

 何気ない優しさと少しの気遣い。それだけで私の心には花が咲く。



 ――――――



「…………きれい」


 藤園に入ってからきれいばっかり言ってる気がする。その言葉しか出ないほど、この光景に圧倒されている。


「ここが、僕が見せたかった場所なんだ」


 違うよ鬼神くん。


「私と見たかった景色でしょ?」

「――っ!」


 んふふっ。彼の耳でも目玉焼きが焼けちゃうね。


 今の私の心の花を表すならきっと目の前に広がる光景に違いない。



『藤の花のトンネル』



 幻想的な紫の世界が広がっていた。もしかしたらこのトンネルを抜ければ、あの夢の中に辿り着けるかもしれない。


 そう思えるほどの圧倒的な花の世界。


 心が震える。


「これを私に?」

「桃宮さんと一緒に見たかった」



 何故かこの時の彼の言葉に私は少し寂しさを覚えた。この素晴らしい光景を2人で見ているのに、私と彼にはトンネルのあちら側とこちら側のような隔たりを感じる。


 もう一歩だけ勇気を出してみよう。


 心の声が自制しろと言っている。

 しかしもう1人の私がそれを許さない。

 まるで天使と悪魔が戦っているようだ。

 そして勝ったのは……小悪魔。



「ねぇ、鬼神くん」

「ん?」


 頑張れ私!

 持ちこたえろ心臓!

 意識をしっかり雪音!


「その、あの……」


 私は綺麗な景色と圧倒的な風景に心が大きくなっていた。だからこそ今この瞬間に言葉にする事ができたのだと思う。


「ゆ……」

「湯?」


 一歩前へ。

 このトンネルの境界線に立って彼の瞳を真っ直ぐ見る。


「ゆ、ゆき……」

「雪?」



 頑張れ私!

 持ちこたえろ心臓!

 意識をしっかり雪音!



「雪音って呼んでくれない……かな?」


 よくやった雪音!

 誰か褒めて褒めて!



 言ったそばからモジモジして下を向いてしまった。


 ありがとう小悪魔さん。今日だけは感謝するよ。


 アレ? 鬼神くんから返事がない。


 どうしたのかと不安になり顔をあげて彼を見てみると……口を開けたまま固まっていた。


「おおお、鬼神く〜ん!」



 ――――――

 ――――

 ――



 なんとか彼を現実世界に引っ張って、私達は藤の花一房文の距離をとりベンチに腰掛ける。


 流石に今の状態で密着はできないよ。


 空には大きな雲が流れている。

 私の心も雲のようにふわふわしていた。


 しかしいつまでも黙ったままでは先に進めないので口を開こうと彼の方を振り向く。


「「――っ!」」


 振り向いた瞬間が同じだったので彼との距離が一気に縮まる。


「あ、あの……えっと」


 藤の花を見ていた時とは違う意味で言葉が出ない。それでも何か話そともう一度彼を見ると。


「僕からも1つお願いがあるんだ」


 私とは対照的に声に芯が通っていた。


「うん」


 普段とは違う頼もしい彼、私は背筋がピンとなって彼からの言葉を待つ。



「僕も名前で呼んで欲しい」



 名前を呼んでいいのは呼ばれる覚悟のあるヤツだけ。


 その提案が意外すぎて不意に力が抜けてしまった。崩れそうになる私の肩を彼の両手が支える。


 肩に触れる力がほんの少し強くなり震えている。目の前には彼の綺麗な瞳。


 そして続く言葉。



「それでいいかな……雪音」



 雪の降る夜に産まれたから……雪音。



「うん……千姫せんき




 いつのまにか一房の藤の花は私の中に溶けていた。


 そして今……私は恋に落ちたのだ。



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