その温みが愛しい

甘木 銭

第1話

 改札の中に消えていく彼女に、僕はいつまでも手を振っていた。


 にぎやかに遊んだ後の別れ際は、いつも今生の別れみたいな寂しい気持ちになる。

 だから、背中が見えなくなるまでずっと手を振り続ける。


 彼女が振り返ることは無い。

 きっと振り返ると引き返してしまうから。

 だから振り返りたい気持ちを必死に抑えているのだろう。


 そう思うことでやり過ごしている。


「ただいま」

 見慣れた玄関のドアを開ける。


 一人暮らしのアパートの一室からは、なんの返事も帰ってこない。

 すっかり日が暮れていて部屋の中は暗かったが、スイッチの場所は体が覚えているので、なんの苦労もなく手を伸ばして電気をつけた。


 照らされる室内。


 僕がいるのとは丁度反対側の壁に、積み重ねられた赤い空容器。


 赤いきつねの器で出来た小さな塔が僕を出迎えた。


 一人暮らしを始めてからというもの、僕の食事は大部分を彼に頼っている。

 料理などほとんどしたことが無い僕にとっては、短時間で楽に美味いものを食えることが大事なのだ。


 しかも安い。

 近所の激安スーパーで、緑のたぬきより十五円も安く売っている。


 タイムセールではなく、いつ見ても十五円安いのだ。


 理由は分からない。

 この世の闇を見た気分。


 食べ終わった赤いきつねの容器を重ね、塔を作るのはもう1年以上続けている習慣である。

 特に意味は無いが、一ヶ月分容器を積み上げ、月末に出来上がった「作品」を写真に収めるのだ。


 一年分撮りためたところで、画像編集ソフトを使って写真を横一列に並べてみた。


 容器の数が違えば、当然塔の高さが変わる。

 横一列に並んだ空容器の党は、棒グラフのように月ごとの僕のうどん消費量を表していた。


 面白がって母親にそのグラフを送ってみたら、カップうどんばかり食うなと怒られた。

 次の日、久しぶりに麺づくりを食べましたと報告したらもっと怒られた。


 なんでかなー、とすっとぼけながら、僕は空容器で形成された赤い建造物をじっと見つめる。


 今日は十六日。

 この時点で今月の消費量は九杯。

 寒くなってきたからか、食事が赤いきつねになる率が少し高い。


 僕の体の半分は赤いきつねで出来ていると言っても過言ではない。

 もうそろそろキツネになってしまうかも。


 いや、既に僕はキツネになっていて、人間に化けているのかもしれないぞ。

 こんこん。


 いや、アホか。


 理論的な思考を改札の向こうに置き忘れたまま、ぼんやりとしながら、ストックの赤いきつねに手を伸ばす。

 晩飯は食べてきたが、どうしても何か口に入れたい気分になったのだ。


 現在時刻は午後十時。

 軽めの背徳感が麵を美味くする。


 お湯をポッドから注いで、しっかりと蓋を閉める。

 食べたい時すぐに食べられるようにお湯は常に用意してあるが、お湯を注いでからの時間というものはどうにもならない。


 とはいえ、パッケージに書いてある「熱湯5分」を律儀に守っている訳でもないけど。


 その時の気分で待ち時間は三分にも五分にも十分にもなる。

 当然麺は硬過ぎたり柔らか過ぎたり、ときには箸でつかめないこともあるのだが。


 まあこれも一期一会だよね。


 蓋を閉めて一息ついた僕は、タイマーもかけずにぼんやりと胡坐をかく。

 手持ち無沙汰にアホ面でボケッとしていると、ついついしょーもないことが頭に浮かんできた。


 さっき見送ったばかりの彼女の背中が、脳裏にぼんやりと映りだす。

 彼女とは付き合って三か月ほどになる。


 大学で知り合って、なんだか気が合って。

 でも付き合い始めたらなんとなく、肩肘を張ってしまう。

 ついカッコつけてしまうというか。


 考えが深まると、沸騰した湯に泡が立つように、不安やらなんやらみたいなものがプクプクと浮かび上がってくる。


 大した大学に通っている訳でもない。

 遊びすぎて、成績がいいでもない。

 自堕落な自分が会社で働いている姿というものが全く想像できない。


 ゆくゆくは彼女と結婚することもあるのだろうか。

 その時自分は、まともな大人になれているのか。


 まともってなんだ。

 五分のタイマーをきちんとセットすることか。

 そんな気もする。


 さて、今何分経ったころだろうか。

 はたと正気に戻り、一度閉じた蓋を開ける。


 ううむ、どうやら時間を置きすぎてしまったらしい。

 ぐずぐずしている間に面がぐずぐずになっている。


 なーんつって。

 ぬははは。


 などとしょうもないことを考えるが、別に面白くもなんともない。

 麺も言うほどぐずぐずになっていないし。


 器からゆらりと湯気が立ち、ふわりと出汁の香りが鼻に届く。

 ああ、いつもの。


 張り切って高めの晩飯を食っては来たが、改めてうどんを腹に入れたくなるのは、安心したいからなのか。

 この一時だけは、不安も湯気で曇る。


 目の前のうどんと同じように、記憶の蓋も開き不快な記憶がモヤモヤと。


 あ、高校の時の元カノだー。

 こっち向いて笑ってるー。

 結局浮気されて別れたんだっけ。


 彼女も別れ際がすんなりしたタイプだったなぁ。

 懲りないから同じことを繰り返すんだろうな。


 化かされてばっかりだ。

 僕はキツネにはなれないな。


 揚げを頬張り、麺をすすり、器に残ったスープまで、残さず飲み干すと、ううん、さすがに少し腹が重い。


 しかし一食分が意外とすんなり入ってしまった。


 高い飯は美味いけれど腹には溜まらない。

 貧乏暮らしの学生にはたまったもんじゃねえよ。

 やかましいわ。


 僕はこんなどうしようもないことばかり考えているからダメなんだろうな。

 何がダメかは分からないけど。


 ぼんやりとした不満と不安と虚しさを抱えながら。

 僕は体内に収まった熱を、腹の上からさする。


 今はただ、この温みだけが愛しい。






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