第11話 檜山進一郎の受難 その2
「に?」
檜山はきょとんとした顔で真島を見返した。真島の言ったことが理解できていないという顔である。
逃げる――?
逃げるということは轢き逃げだ。轢き逃げは立派な犯罪だ。今の時点ならばまだ事故ですむ。間違ってしまった、申しわけない――と心から謝れば道が開けるかもしれない。
だが轢き逃げとなればそうはいかない。そこには事故を隠そうという明確な意思があるからだ。
捕まれば事故とは比べものにならない罰が与えられる。
そんなことできません――
そう言ったつもりだった。しかし、実際口をついて出たのは
「逃げましょう!」
の一言だった。
「おい!」
不意に聞こえた男の声に檜山は飛びあがった。
信じられないことに声は倒れていた老人から発せられていた。怒りの混じった声はさらに続く。
「人が黙って聞いておれば、お前たちなんてこと言っとるんだ! 人を轢いといて逃げる気か!」
うわあ、と悲鳴をあげた檜山は真島のうしろに隠れるように逃げ込んだ。
「なんだよォ、生きてるじゃねえか。脅かすなよ」
さして驚いている風でもなく真島が言う。老人はうつぶせに倒れたまま答えた。
「大丈夫ですか。しっかりしてください、という言葉は出てこんのか?」
真島のうしろで小さくなっている檜山が震える声で復唱した。
「大丈夫ですか、しっかりしてください」
「遅い!」
「けっこう元気そうだなァ」
真島がつぶやいた言葉に、間髪を入れず声が返ってくる。
「元気なはずなかろうが!」
轢かれてこれだけ言い返せれば十分元気ではないか。もっとも倒れたままで動けないところをみると、やはり何らかのダメージは受けているにはちがいないが。
様子をみようと真島がしゃがもうとしたとき、ポケットの中の
情報には、ニュースソースに載る公式のものと、公式には流れない非公式の情報がある。非公式の情報は真島たちのような
真島は届いたメールを一読すると、端末をタップしながら車の方へと歩いていく。
後には檜山と元気な重傷者だけが残された。
おそるおそる声をかけてみる。
「あの、おじいさん……」
「川中島じゃ」
「川中島さん。とりあえず病院行きましょう」
病院、という単語に反応したのか、それまでばったり倒れたまま動かなかった川中島が両手をついた。立ちあがろうとしているのだが、しかし、轢かれた体は思うようにいうことをきかないらしい。苦しげな表情が浮かんでいる。どうやら腰を痛めたようだ。
「こ、この程度のことでわざわざ病院に行く必要はない。二、三日寝てれば治るわ」
それから、すまんが肩を貸してくれまいか、と言って檜山を見た。
「何言ってるんですか! 車に轢かれたんですよ。大丈夫なはずないじゃないですか!」
轢いたのは檜山である。とても轢いた張本人とは思えないようなことを言いながら、檜山はあわてて手を差し出した。が、状況が状況だけに二人ともそんなことには気がつかない。
檜山の肩を借りてようやく立ちあがった川中島は
「もう大丈夫じゃ」
と気丈なことを言ったが、直後にあたたたたと片膝をついた。
「ほらァ、無理しちゃダメですよ。さあ、早く病院行きますよ」
諭すように檜山が言ったときだった。
風が――。
生温かい風が一陣、ぶつかるように通り過ぎていった。
そして声がした。
「その必要はない」
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