第12話 檜山進一郎の受難 その3
道路の先――なぜかそこだけ濃い闇が集まっている辺りから、声は聞こえた。
抑揚のない冷たい声だった。
「え?」
顔を上げた檜山の前で闇がゆっくりと抜け出してくる。闇は人の形をとってその姿を現した。
漆黒のマントに身を包んだ長身の男だった。檜山や真島よりは年上のようだが、かといってそれほど年を取っているようにも見えない。うしろに撫でつけている漆黒の髪とは対照的な白い肌。そして何より檜山を黙らせたのは切れ長の、うっすらと赤く光る眼だった。
一体、いつからいたのだろう? 人のいる気配はまるで感じなかったけど。
そしてこの男はいま何と言ったんだ? その必要はない、と言ったのか? 何が必要ないんだろう。病院か?
「
隣で川中島がつぶやくのが聞こえた。
「知り合い、ですか?」
川中島は黒衣の男から目を離さず、うむ、とうなずいた。
途端に檜山の肩から力が抜けた。
近寄りがたい雰囲気に圧倒されて声も掛けづらかったのだけど、川中島の知り合いというならなら話は早い。
檜山はにっこり笑って、四ツ戒堂と呼ばれた黒衣の男に話しかけた。
「あのォ、じゃあちょっと手伝ってもらえませんか。これから川中島さん、病院まで連れて行くようなんで」
一瞬、沈黙があったあと、抑揚のない声が返ってくる。
「聞こえなかったのかね。病院に行く必要はない」
「どうしてですか」
「その男はここで死ぬからだ」
「死なれちゃこまるんですよ。死亡事故になっちゃうじゃないですか」
轢かれたわりには元気そうな川中島である。
ひょっとしたら思ったよりは軽傷かもしれない。だったら一刻も早く病院へ運んで診てもらったほうがいいに決まっているではないか。
ようやく轢き逃げの誘惑から逃れたというのに、こんなところで死なれて死亡事故になっては元も子もない。
「……手伝ってくれないならいいです。頼みません」
檜山は苛立ちを隠しもせず四ツ戒堂から視線をそらせた。そんな檜山に川中島が声をかける。
「――若いの」
「檜山です」
「檜山くん――」
改めて名を呼んだ川中島は意外なことを言った。
「君はここから逃げるのじゃ」
「ぼくに轢き逃げ犯になれっていうんですか!」
「あ奴、四ツ戒堂はわしを殺しに来たのじゃ」
見当違いなことに興奮していた檜山にはなんのことかわからなかった。
何かの冗談だろうか。
しかし、川中島の目は真剣そのものだ。とても冗談を言っている目とは思えない。逡巡する檜山の思考を遮ったのは四ツ戒堂だった。
「川中島、心配はいらぬ。その小僧もつけてやる。冥土の土産としてはちと色気がないが、ひとりよりはマシだろう」
「そうはさせん!」
雄叫びをあげた川中島が猛然と突進する。
さっきまで立っているのがやっとだった男の動きではない。繰り出す技は四ツ戒堂を圧倒し、主導権は完全に川中島が握っている。
少なくとも檜山にはそう見えたのだが。
もし檜山が、ほんの何十分か前にこの場で行われた川中島と黒服との一戦を見ていたら、今の川中島の動きがどれだけ落ちているかわかっただろう。半身付随といってもいい。いかに氣の極意を掴んでいる川中島といえども、背後からいきなり轢かれたのでは衝撃を受け流すことなど不可能である。
ダメージは実に顕著に表れていた。
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