第2話 死神

「こんばんは」


 誰だろうか。俺のアパートの前には名も知れぬ少年が立っていた。こうして見知らぬ人に話しかけられるなど何年ぶりだろうか。仕事先の工場では毎日毎日同じような仲間と同じような仕事をして。仕事が終われば同じようなものを食べ、同じように家で寝て、同じように起きて同じように仕事へ向かう。代わり映えのない日常。


 変化が欲しいとは思わない。この生活もある程度快適だ。一方で刺激が欲しい。面倒なことが我が身に降りかからない範囲であればだが。この少年は面倒事だろうか。はたまた何でもないただの学生だろうか。


「お待ちしてました」


 いったいなぜ。胸が高鳴る。身に覚えはないが俺が何か悪いことでもしただろうか。あるいは彼の方が何か問題を起こしたか。それとも何か良い知らせか。何にせよいつも通りのことではないのは確かだ。


「どちらさまですか」


 警戒心を表した質問に少年は身じろぎひとつしない。彼には明確な目的があると感じた。歳は十六くらいだろうか。もっと若くも見える。しかし彼の童顔な顔つきに反して貫禄すら感じるその落ち着きぶりに気圧されそうになる。


「お母さまから言伝ことづてを預かってきました」


 彼は何を言っているんだろうか。俺に母はいない。いや、いなくなった。俺が小学生の時に家を出て行ってそれきりだ。顔も覚えていやしない。


 父と二人になってから生活が厳しくなったのが目に見えて分かった。酒に酔い荒れ狂う父の暴力を耐えて耐えて耐えて耐えて、高校にも通わずに家を出て働いた。53歳になったいま、資格もなく、稼ぎもなく、家族もいない。そんな俺に今更になって母から何があるって言うんだ。


「人違いじゃないですか」


 少年への言葉に憤りのようなものが混ざった。そんなものを彼に向けたとて何かを得られるわけもない。大人げがないと自らを卑下し、後悔した。こんな事だから俺はいつまでたっても甲斐性無しなんじゃないか。


「綾瀬チヨさまからです」


 信じられなかった。それは間違いなく母の名である。旧姓の綾瀬は古くから不動産業を営んでいて、連休があるたび別荘へと連れて行ってもらったものだ。


 だが腑に落ちない。母と俺は数十年接点がない。母と音信不通になってから俺も家を離れ、父にも所在を教えていない。それをどうして探し当てられたのか。


「こちらを」


 それは赤い組み紐が括りつけられた指の先ほどの鈴だった。少年から手渡されたそれを眺めるが見覚えもない。いったいこれが何だというのだろう。少年に視線をやると耳元で揺するようなジェスチャーをして見せた。鳴らせ、ということだろうか。それを右の耳に近づけた。


 チリン


 鈴の音と共に声が聞こえてきた。弱弱しく聞き取りにくいが、それは昔聞いた母の声だった。いや、ただ俺が母の声だと思い込んでいるのかもしれない。だがそれでもいい。少年時代の思い出が駆け巡ってくる。


 学校から帰り、玄関の扉から飛び込むといつも母がいた。手を洗いなさいといつも注意をする母。洗い物をしながら学校での話を聞いて笑う母。深夜に暴れる父と言い争う母。様々な母を見てきたのにどうして忘れていたんだろう。俺が一番好きな声だった。


「ありがとう。ありがとう、きみ……」


 いつの間にやら涙を流していた。母の言葉を最後まで聞いた俺は少年にお礼を言った。何か礼でもしようと家に上がるように誘ったが、少年はそれを断りもう帰ると告げた。聞きたいこと山ほどあるが答えを得るには時間が足りなかった。


「一つだけ教えてくれ!」


 歩き出した彼を呼び止める。こちらを振り向いた少年と夕日が重なり、逆光で彼の表情は見えない。


「君は何者なんだ」


 彼の口元は黒く塗りつぶされたようで動きが読み取れず、彼の声は夕方の雑踏に巻き込まれうまく聞き取れなかった。だから間違いかもしれないが、彼はこう答えたような気がした。


「ボクは死神です」


 俺が死んだのは、その翌日のことだった。

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