第3話ご主人様
俺は今、綺麗な水を体にかけながら丁寧に体を洗っている。
ここは俺を買った女性、ご主人様の家の湯浴み場だ。入った家の大きさと一般家庭にはない立派な湯浴み場があることからご主人様は裕福層だということがすぐに分かった。それもかなりの。
ただ、分かったのはそのことだけで、ご主人様の名前も、俺を買った理由も、なんでここで体を洗うように指示されたのかも、これから何をするのかも、何もかも分からない。
だけれども、体を洗ったことで頭がスッキリとして、体に活力が湧いてきた。脳内を渦巻いていたネガティブな考えの連鎖も止まっていた。
そんな風に落ち着きを取り戻していると、少し離れた踊り場の出入口から声が聞こえた。
「どう? 湯浴みは終わった? 体を拭いたら出てきなさい」
ご主人様の声だ。俺は返事をして、体を拭いてから着替えて湯浴み場を出た。
恐らくこれからが本題であろう。なぜ俺がこの人に買われたのか、何をして欲しいのか、何をさせられるのか。水を飲ませてもらい水分は十分に取ったはずなのに、喉が渇いてくる。
それもそうであろう。基本的に奴隷というものには普通の人扱いなんてされないし、過酷な環境が待っているのが相場だ。きっと逃げ出したくなるような未来が待っているのだろう。
もちろんそんな未来が待っていようと俺は逃げ出すことはできない。正確に言えば、俺個人がここから逃げ出すことはできる。だが、もしそんなことをした場合、俺の家族が俺の損失分以上を払う事になる。具体的に言えば妹のサラが奴隷になり、最悪な環境に身を置くことになるだろう。
妹はそんなに頑丈な方では無いし、たとえ頑丈であっても奴隷という身分で過酷な環境下に耐えられるとは到底思えない。だから俺は、ここで何があっても耐え続けなければいけない。
『兄さん』
サラが笑顔で俺を呼ぶ声が脳裏によぎる。
ああ、サラのためになら俺はいくらでも頑張れる。まずはさっきまで妹の事を悪く思っていた自分を罰したい。
ご主人様に案内された部屋は客間のようで高級そうな家具や絵画があった。そこでご主人様はソファに座って俺の頭からつま先までゆっくりと何かを確認するように見てきた。
この家まで一緒に来ていたはずなのにご主人様の顔や姿を見たのは今が初めてみたいな錯覚を
感じた。見た目は二十代中盤から後半で、鼻が高い美人顔だ。髪の毛は黒とムラサキの中間のような色合いで綺麗で優雅に舞うな蝶のような印象を受けた。
そのように思ったのと同時に、奴隷というものがどんなものかは分からないが、基本的にはご主人様が指示していないことはしてはいけないのだろうと思った。俺はご主人様のそばで直立不動でご主人様の言葉を待った。
「ねぇ、名前は?」
「レン、です」
「そう、良い名前ね。私はスカーレットよ。スカーレット・リファッシュ」
そのままご主人様は続けた。
「では、レン、貴方の今までの経験をすべて話しなさい」
「……俺の経験、ですか?」
「ええ、私は、今日、初めて、貴方と出会ったでしょ。だから貴方がどんな人物か分からないわ。だからどんな人物か知る必要があるの。だって嫌でしょ、何も知らない人物を自分のそばに置くのは」
ご主人様の言っていることは確かだ。信頼関係もなく接点もない俺がどんな人物か知ることでご主人様の不安点が少しは解消されるだろう。てっきりどこかで強制労働や危険な仕事で使い潰されると思っていたが、もしかすると比較的安全な、ご主人様のそばで働かせてもらえるかもしれない。
緊張しながら俺は話し出した。経験をすべてと言われたがどのような経験を指しているか分からないし、いつの頃からか分からない。
「『経験をすべて』とはいつの頃からのどんな経験を話せばいいですか?」
ご主人様に質問自体をしていいか分からなかったが、ご主人が望まない回答をしても良くないと思い素直に聞いた。
「貴方が生まれてから現在まで見たり聞いたり感じたり得たりしたものすべてよ。貴方が覚えている限りの事すべて」
結局、俺は俺が生まれてからのご主人様に買われるまでの自分語りをした。説明が上手くなく抽象的な話も多かったがご主人様は途中で話を切らずに聞いてくれた。
話の最後、自分で売られる事を決意した話をする時、なぜか胸が苦しくなり、なぜか涙が目から溢れてきた。
別に自分で決めたことはずなのに、なぜ涙が出るか分からない。ただ、その涙は止まることなく流れ続けていた。
「分かったわ。そこまででいいわ」
ご主人様は顔をこちらから背けていた。俺は服の袖で目元をこすり涙を拭いた。
「もう少しで食事にするわ。貴方の部屋を割り当てたからそこで待機していなさい。後で連絡をよこすわ」
「分かりました」
「キキ、レンを部屋に連れていって」
ご主人様は部屋の壁際で待機している人物に声をかけた。
俺は一度頭を下げて、キキと呼ばれた人物と部屋を出て、割り当てられた部屋に向かうことになった。
無言のままキキと呼ばれた使用人の服を着ている少女と屋敷の中を歩く。その少女は長い銀髪を後ろでひとまとめにしていて、非常に色白で可愛らしい顔だちをしていた。その顔立ちから年齢は俺よりも低そうで妹よりは年上そうだ。
ただ、その表情から何も読み取ることはできず、人形みたいに無機質のように見える。俺はキキから意識を外してさっきまでのことを事を考えていると、歩く速度を変えずこちらに顔も向けずにキキは話しかけてきた。
「君はなんでここに来たの?」
俺も知りたい疑問である。
「理由は分からない、です。俺は奴隷として売られていた所を拾ってもらっ、いました」
「そう。あと、使用人同士では敬語はいらないから」
「……分かった」
それからまた無言の移動に戻った。どうやら基本的にこの屋敷では必要以外の行動をしないように指導されているのかもしれない。このような細かく言葉で示されない部分も自主的に学ばなければならなそうだ。
それからもう少し歩くと、建物の奥まった遠い部屋の扉の前ににたどり着いた。
「ここが君の部屋よ」
その扉には何も書いていなかったが、屋敷上の部屋の位置的に物置か使用人が使う部屋だと感じた。
「これから君の同僚を紹介するわ」
キキは素っ気なくそう言うと、ドアを二回ノックしドアノブを回した。
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