第5歩 選択

 泥まみれになり、涙で頬を濡らして嘔吐くノラ。死は深淵より手招きしている。今度は誰も助けてくれない。自らが選んだ結末なのだ。息をしようにも、恐怖と後悔で脈打つ心臓の鼓動がそれを拒否する。足早に刻まれる律動は、結末を秒読みしているようであった。

 死を覚悟して目を瞑ると、ぽつぽつと雨音が聞こえてくる。それが冷たく心に差し込み、とどめを刺す。数瞬が永遠のようで。次の瞬間、壁に叩きつけられるような衝撃音が鳴り響き、意識は虚空に投げ出された。なにも聞こえない。


 状況を把握するために、ノラの意思に反して瞼がゆっくりと開かれる。すると銃口は左耳の真横で白い煙を吐き、地面には小さな穴が開いていた。視線を動かせば、長銃には頭の節くれだった無骨な手の他に細くしなやかな手が携えられており、それが死を退けていた。


「どうなってんだ、おい!」


 頭は目を剥いて吠える。口元からは怒りよりも恐怖が色濃く表れており、言葉を発したあともぱくぱくと口を開閉していた。当然の反応だ。死人が側に立っているのだから。

 たしかに心臓を貫かれたはず。先生の外套は血で赤黒く変色している。紛れもない事実だ。だというのに平然と立っている。ノラも頭と同様、愕然とするばかりだった。


「一芝居打ってみたけど、どうだったかな」


 そう言うと、先生は頭の手中にある長銃を取り上げ、銃床でその鼻を殴打する。堅い材木で作られたそれは、頭の鼻を容赦なく押し潰す。うずくまる頭。それに一瞥もくれず、先生は倒れるノラに手を差し伸べる。ノラはその手を取ろうとしたが、無情にも振り払われる。


「そこが君の甘いところだよ。軽率に人を信じてしまう」


 いいかい、と先生は再び地面に倒れ込んだノラを見下ろす。


「君は他人の言葉を信じて、窮地に追いやられた。私が並なら、二人揃って死んでいたね」

「ご、ごめんなさい」

「謝罪を求めているわけじゃない。ただ、君の純粋さを否定するつもりじゃないけど、世界は君ほど優しくはないんだよ」


 淡々と言い聞かせるような先生の口調はどこか冷たく、ノラは無数の棘が四方八方からじわじわと身を貫こうとしているような錯覚に陥った。


「で、でも、こんなに傷つけなくても」

「そうだね。でもわからせるには、これが一番効率的なんだよ。それに命までは取ってない。私はね、生きることは常に対価を払うということだと思っているんだ」


 先生は外套から洋袴へと垂れる血を雑に拭う。


「生物はいずれ死ぬ。それは払うものがなくなるから。生きている間にたくさんのものを他者から奪って、神とやらに差し出す。その代わりに一時の生を得る。その繰り返し。果てに残るのは自分の命だけ。それでも生を得ようと、命までも差し出す。だから死ぬんだよ」

「そんなの」

「たしかに、君のような境遇の人たちもいる。でも、その場合は求められる対価が大き過ぎるから命を失うのだろうね」


 先生の哲学は今のノラには到底、理解できないものだった。それでも、一つだけわかったことがある。それは今の自分は対価を払う以前に、なんの準備もできていないということ。

 視線を移せば、そこには鼻を押さえて座り込み、今にも泣きだしそうな表情を浮かべる頭の姿があった。名も知らぬこの男も、今まで対価を払ってきたのだろうか。他人の物や命を奪うことが、生きる対価だったのだろうか。物思いに耽るノラに話が続けられる。


「実際、君は対価を払った」


 思い当たる節はなかったが、ふと我に返るとあることに気づく。左耳が聞こえない。おそらく、至近距離での発砲音で鼓膜が破れたのだろう。そこまで理解してなお動揺しない自分自身に驚きつつも、先生を見上げる。その左手には長銃が握られており、おもむろにそれはノラの前に差し出される。


「まだ、君が払うべき対価は残されている」


 強引にノラに長銃を握らせると、先生はうしろから腕を掴んで照準を座り込む頭に合わせる。向こうはすぐに気づいたようで、ぼたぼたと血を垂らしながら泣き叫ぶ。


「ま、待て! 殺さないでくれ!」

「一体なにを!」

「あの男は私たちの命を以て、生き永らえようとした。ならば私たちが生きるのなら、その逆もまた然りということさ」


 凄まじい力で両腕を支えられ、抗うことができない。唯一できることは引き金を引くことのみ。だが、引けるわけがない。先生の哲学を知ったからといって、自らの信条をそう簡単に捨てることはできない。膠着状態が続く中、ノラはゆっくりと口を開く。


「あなたの言ったことの半分も理解できていないけど、こんなことは間違ってます。生きることに対価はありません」

「……そう」


 先生は答えを聞くと顔色を変えずに、ノラの腕から手を放して長銃を取り上げる。


「悪かったね。どうしても君の答えが聞きたくて」


 そう言って長銃の遊底を引き、弾が入っていないことを説明した。ノラはそれを聞いて胸を撫で下ろしたが、仮に引き金を引いていたらと考えた。先生は失望しただろうか。褒めてくれただろうか。答えはわからない。わからない方がいいのかもしれない。

 本当は褒めてもらいたかったという思いを胸に秘めつつ、遠くからの音にノラは立ち上がる。目を細めれば、地平線の先から二頭の馬が息ぴったりに地面を蹴って駆けてくるのが見えた。馭者が戻ってきたのだ。


「お客さん、坊主! 無事ですかい」

「遅かったね」

「折り返すのに苦労しまして。坊主も守ってやれず、どう詫びればいいか」

「この子なら止めても無駄だろうさ」


 先生の軽口に馭者は安堵したような表情を浮かべたが、それはすぐに凍りつく。


「それよりも、その傷は」


 外套に滲む血痕は胸元を中心に、弁明の余地のないほどに広がっていた。ノラは、はっとして先生の顔を見上げる。その表情に焦りの色はみられなかったが、先の凄惨な場に佇んでいたときと同じ冷徹な雰囲気を醸し出していた。馭者は恐る恐るといった具合に呟く。


「あんた、もしかして〝不死者〟なのかい」

「こっちでも有名なのかな」

「本物を見たのは初めてでさ。でも、騎士たちにでも目を付けられたら殺されますよ」

「望むところさ」


 馭者は馬車の後部に備え付けられた木箱から薄い外套を取り出すが、先生はそれを丁重に断る。見てくれの違和感は凄まじかったが、本人はさほど気にしていないようだった。


「辺りの村々には戦火が広がっている。なにも不審ではないよ」


 馬車に乗り込む先生。ノラは顔に付いた泥を軽く拭って、そのあとに続いた。雨は止み、再び太陽が顔を見せていた。それからしばらく馬車に揺られていると、複数の馬車が潜れるほど大きな木門が視界に飛び込んできた。そこには〝シュルタ〟の文字が刻まれていた。

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