第4歩 岐路

 風を切って獲物が後頭部に到達する前に、先生は押さえ込んだ手下の腕を明後日の方向へと捻じ曲げる。咆哮が林に谺する中、その手より滑り落ちた鉈で、迫り来る打撃を受け止める。否、受け流した。衝撃に相手がのけ反った隙に、持ち手を叩き切る。砕け散った持ち手とともに、迸る深紅の海を五指が泳ぐ。


「ああ! お、俺の指が!」


 悲哀に満ちた叫びが耳朶に響く。腕を折られてうずくまる手下の呻きと融和して、地の底から滲み出るような禍々しい音色が辺りに反響する。最後の手下は顔面蒼白になり、その場に獲物を落とすと林の奥に消え失せた。


「さあ、あとは君だけだ。どうする?」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 その頃、馬車は颯爽と林を抜けたあと、湿原に足を取られながらも一本道を奔走していた。


「馭者さん、戻らないと! 先生を置いていくんですか!」

「駄目だ坊主、頼まれたんだ! おめえだけでも連れて行けって」


 ノラの抗議も虚しく、馬車は駆けていく。これが先生の意思ならば無下にはできないと思いつつも、助けに行くべきだという意思とがせめぎ合い葛藤する。

 馭者もノラの思いを察してか、それから一言も発することはなかった。ただ、額に深く刻まれた皺がやるせない気持ちを物語っていた。冷静に考えて、ノラが戻ってどうこうなる話ではない。しかし、だからといってなにもしないでいられるほどノラは薄情ではなかった。


「ごめんなさい!」

「おい、よせ!」


 ノラは荷台から飛び出して、勢いよく地面に転がる。馭者は猛然と駆ける馬たちに押し負けて、そのまま走り去ってしまう。普段であれば骨折してもおかしくない行為だったが、青々とした背の高い植物と粘土質の土がノラの体を守ってくれた。おかげで泥だらけになったが、そのようなことを気にせず無我夢中で来た道を引き返す。


 ぐちゃぐちゃと踏み込む度に、耳障りな音をたてる土の上を越えていく。そこから湧き出る鼻を衝く香りは、さっきまでの自然を煩わしく感じさせるほどであった。

 息も絶え絶えになり、脇腹を押さえ込んで前屈みになる。呼吸を落ち着かせ、前を見るとそこにはぼんやりと複数人の影が確認できた。別れ際にも人を見た気がしたが、誰なのだろうかと素朴な疑問が浮かぶ。が、そんな考えは頭の片隅に、ノラは余力を使って駆ける。


「先生、戻ってきましたよ!」

「それは英断とは呼べないね」

「え? どういう、うっ!」


 焦りと疲れで狭まった視野を、辺りに立ち込める生命の香りが強引にこじ開ける。野犬のときとは違う。腕を捻じ曲げられて悶絶する男と、ばらばらに散らばった指らしきものを泣き叫びながら必死に掻き集める男。そして、茫然と立ち尽くす一人の男。

 彼らが何者であるかよりも先に、誰の仕業かに考えが及ぶ。考えるまでもないことだが、その答えを懸命に否定する自分がいた。なぜなのかはノラにもわからなかった。

 錯綜する思考からは、より本質を突いた言葉が導き出される。


「どうしてこんなことを」


 先生は錆びた鉈を手中で弄びながら、ノラに視線を寄越す。


「引き下がってくれればよかったんだけど、力づくでって言うものだからね」

「だからって、こんなひどい目に合わせる必要がどこにあるんですか!」


 ノラの怒号が男たちの嗚咽を掻き消す。初めて見せたノラの心の底からの憤りに、先生は一瞬固まったもののいつもの調子で返答する。


「強いて言うなら、私たちの身を危険に晒したからかな」

「だからって! 話し合えばいいじゃないですか」

「盗賊と話し合って物々交換でもするのかな? 所持品すべてと命? お釣りがくるね」


 先生のおどけた口調にノラは躍起になるが、反論の余地がないことは明らかだった。それでもノラは、心の叫びに従順に素直でいることが正しいと信じていた。そんなノラを尻目に、頭はさりげなく背中の長銃に手を掛けながら話し出す。


「わ、わかった。もう手は出さない。消えるから見逃してくれ、な?」


 頭は張り付けたような笑みを浮かべながら、ゆっくりと後退る。猜疑心を駆り立てられる挙動であったが、ノラは快諾する。


「もう行ってください」


 隣から小さな溜息が聞こえたが、ノラは気にしなかった。自分に正直でいることを信条としているノラにとって、それは善い行いなのだ。なにを恥じることがあるのだろうか。こうして話し合えば、お互い傷つくことなく穏便に事を運べる。これが短い人生の中で編み出した処世術なのだ。そうして善行の余韻に浸るノラの耳に突然、凄まじい轟音が響く。


「……え?」


 突然のことに辺りを見回すノラの視界には跪き、髪をなびかせながら前のめりに倒れ込む先生の姿が映し出される。どちゃあ、と崩れ落ちる音がやけに生々しく聞こえ、浮かれていた心を握り潰さんとする。


「先生!」


 駆け寄って起こそうとするも、うつ伏せになった先生は微動だにせず、無力感をより一層引き立たせるだけだった。ノラの小さな体ではどうしようもなく、外套に沁みてゆく血に身を震わせ、先生の耳元で涙混じりの声を上げることしかできない。追い打ちをかけるようにやってくる下卑た笑い声。硝煙の向こう側には、卑しく薄汚れた歯を見せる頭がいた。


「助かったぜ、悠長なことしてくれてよ。次はてめえだ」

「ひ、ひどい」

「俺はてめえみてえに、おキレイじゃねぇんだよ。わかったら、さっさと死ね」


 取り返しのつかないことをしてしまった。自らの甘さを呪った。

 無責任にも突っかかって先生は殺され、自分はなんのために戻ってきたのだろう。これでは足手まといよりもひどいではないか。自責の念に駆られ、ノラは項垂れる。

 野犬に立ち向かおうと思ったときも、殺すことまで覚悟していたのだろうか。相手が人間だから、自分の身に差し迫る危険を見て見ぬふりしていたのか。走馬灯のように、数々の余念や後悔が縦横無尽に頭の中を駆け巡る。長銃から薬莢が落ち、次弾が装填される。


「じゃあな。あの世で、そのクソ女によろしくな」


 引き金に指が掛けられる瞬間に、ノラは頭に目掛けて体当たりをしていた。恐慌状態に近かった。叫びながら、頭の足に纏わりつく。しかし、力の差は明白。不意を突いたものの、すぐに引き剝がされる。仰向けに倒れ込んだノラの眉間に、銃口が押し当てられる。


「最後の抵抗ってか。手間取らせやがって」

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