第3歩 命名

 夜を越えた地上に、眩い朝日が差し込む。


「おはよう」

「あ、おはようございます」

「よく眠れたかい?」


 この女——名無し——はいつ眠るのだろうかとノラは考えたが、辺り一面の陰った風景を太陽が照らしてゆくのが目に入ると、そんなことはどうでもよくなった。


「わあ、きれい」


 思わず声が出る。変わらぬ日常の中で当たり前だったものは、今のノラにとって情緒を強く揺さぶるものへと昇華していた。数日の出来事に感性を研ぎ澄まされたと言えば語弊があるが、それでも洗練されるには十分な出来事だったことに違いはない。ふと振り返ると、名無しと馭者は二人揃って御者台でなにやら話し込んでいた。


「お客さん、結局どこに向かうんで?」

「この道を通って、ここへ」


 名無しは馭者の持つ地図に指を走らせる。うしろから目を凝らせば、その指し示す先には〝ラーレンドルク領シュルタ〟との文字が見えた。


「あそこはまでは飛び火してなさそうだが、時間の問題でさ」

「転々とするから大丈夫さ」


 それを聞いた馭者は、ところで、と宙を見上げる。


「あの子には、内乱のことを伝えているんですかい?」

「いいや。目の当たりにしただけでも、十分堪えるだろう。それに私が判断すべきことじゃないが、今は別のことを考える方が楽だろうさ」


 馭者は前を見ながら深く頷く。ノラにとって過去は今や、どす黒く塗り潰されたものだが未来はまっさらなものだ。それが黒塗りになるか、鮮やかに彩られるかはわからない。無論、誰かに染め上げられる可能性もある。だが、誰しも己がうちに幻想郷を夢見ている。鼻で笑いはしても、皆それを見ている。


 手のうちを覗かれるような不快感を恐れて、否定しているに過ぎないのだ。二人の話を耳に入れつつも、ノラは景色に見とれているふりを続けた。木立の合間を馬車が駆け抜ける折、風に乗って自然の香りが鼻腔を通り抜ける。殺伐とした環境とほど遠いものだが、かえってその純粋さが狂気を孕んでいるようにも感じ取れた。そんなノラに声が届く。


「少し、馬を休ませても構わないですかい? こいつらも夜通し走って疲れたみたいで」


 名無しの返事を確かめてから馭者は馬車を道の端に寄せ、馬たちを木陰の下でくつろがせた。そうして片手に鉄の桶を二つ持って、近くを流れる川に水を汲みに行った。

 二人も木の下で休むことにする。ノラは座り込んで静寂に耳を傾ける。遠くの鳥の囀りや、風に揺れる木々の音がありありと伝わってくる。静寂というのは場のことではなく、自らの心のことだったのかと頭の片隅に独り言が浮かぶ。しばらくして、馭者が戻ってきた。

 桶一杯の水を馬たちに与える。馬が水を飲む干す様子を見守る馭者は、まるで親のようであった。ノラの視線に気づいたのか、馭者は照れくさそうに微笑む。


「こいつらとは、かれこれ二十年の付き合いでさ。日銭を稼ぐためだから最初はなんの愛着もなかったが、こうも長い年月をともにすると不思議と変わるもんですな」

「ずっと、この仕事をしているんですか?」

「ああ、坊主より少し上ぐらいでこの仕事を始めてそれ以来ね、ずっと。若いときは帝都に行くことを夢見たけど、もう無理そうだ」


 そう言うと、次は車輪の手入れを始めた。ノラは名無しの方を振り返る。


「あの、あれからあなたのことをどう呼ぶか、考えたんです」

「へえ、それで?」


「〝先生〟と呼ばせてください。村にいたときも、そういう人がいたんです。あなたとどこか似ているなって。ひどい目にもあったけど、助けてくれたこと感謝してるんです」

「随分と律儀なことだね。先生か、いいよ。いい先生になれるかは別だけど」

「やった、嬉しいです」


 無邪気な笑顔を初めて見せたノラの傍らで、先生も微笑む。今までのいたずらな笑顔と違って、穏やかなものだった。ノラは心から安堵した。


「準備できやした。行きましょう」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 馭者の合図とともに、ノラは荷台に飛び乗る。そんなノラのあとを歩いているとき、先生は背後から冷たい空気を感じ取る。ただの風だ、と誰も気に留めぬであろうそれは微小な殺気を含んでいた。先生はそれに気づいた素振りを見せずに、馭者にゆっくりと歩み寄って耳打ちする。馭者は瞬きをして反射的に口を動かそうとするが、それを指で制止した。


「先生、どうかしたんですか?」

「少し野暮用を思い出してね。すぐに追いつくよ」

「え?」


 突然、馬は甲高い声を上げて馬車を引く。ノラの動揺する顔が一瞬見えたが、今の先生にとっては些末事だった。土煙を上げて走り去ってゆく馬車を遠目に振り返ると、そこには四人の盗賊らしき風体の男たちが立っていた。


「てめえ、気づいてやがったか」

「ああ、君たち臭うからね」


 先生は両目を端にやり、顔の前で大きく腕を振る。


「はあ? 舐めてんのか!」

「舐めたくはないけど、本当のことだよ。あんな殺気を向けられたら嫌でも気づく」


 のらりくらりとした返答に、盗賊たちの怒りは頂点に達する。


「生きて帰れると思うなよ。身ぐるみを剝ぐだけじゃ済まさねえ。お前を半殺しにしたら、あの馬車のガキとジジイをバラバラにして、最後にお前を犯してやる」


「喋るほど小物臭くなるから、黙っておいた方がいいよ」

「減らず口を! てめえら!」


 かしらと思しき男の声に呼応して、手下の三人が先生を取り囲む。頭があの程度なのだから、彼らはそれ以下だろうと見下げつつも、冷静に状況を分析する。手下たちの装備はそれぞれ、急拵えしたような鉈と棍棒。頭はそれに簡素な長銃を背中に携えている。多く見積もっても二、三発しか入っていないだろう。もしかしたら見掛け倒しかもしれない。その証拠に頭は長銃を構えようともしない。しばらく互いに様子を窺う。

 風に漂って葉が、ぱさっと地に落ちる。その刹那、張り詰めた空気を手下の雄叫びが掻き乱した。先生は勢いよく振り下ろされた鉈を躱し、そのまま腕を固めてうつ伏せに押し倒す。


「退くなら、腕一本で済ませてあげるよ」

「こ、この女なんて力だ!」

「てめえら、びびってんじゃねぇ! 女一人だろうが!」


 頭は狼狽する手下たちを鼓舞するが、もはや彼らの耳には届いていないようだった。生物は己よりも強者を前にしたとき云々という言葉があるが、そのようなものは机上の空論でしかない。実際にそんな状況に直面したとき、思考を巡らす猶予などない。現に先生は固めた腕を今にも、へし折らんとするばかりである。


「う、うわあ!」

「残念だ」


 錯乱した手下が、先生目掛けて獲物を振りかぶった。

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