第2歩 漸進
暗転した視界。耳は砂を擦り潰すような音だけを拾い続ける。ノラは重い瞼の隙間から、やっとのことで外界を捉える。どこか頼りなさげな小刻みな揺れとともに、闇夜を駆ける一台の馬車。朦朧とした意識はそんな揺り籠に乗っていた。
「ヒヒイン!」
馬は甲高く
「おっと! 大丈夫ですかい、お客さん?」
馭者は手綱を両手で握りしめながら、客席を振り向く。客席といっても貧相な荷台を牽引しているだけなのだが。荷台で毛布に丸まっていたノラは、端に腰かけている女を一瞥する。
「ああ、大丈夫」
女はそう言うと、馭者にひらひらと手を振った。視線は暗雲の立ち込める空に向けて。
「やあ、起きたか少年」
「ここは一体?」
愚問だと言わんばかりに、女は荷台の縁を指先で小突く。
「見ればわかるだろう、馬車だよ」
「そうじゃなくて! あのあとどうなったの」
「あのあと? まだ夢の中にいるのかい?」
ノラの頭の中で、話をはぐらかす女への苛立ちと先ほどの出来事の不明瞭さが交錯して、
「からかって悪かったね。あのあとは君が倒れたから、運んだんだよ。あんな所で意識を失えば、本当に獣の餌になっていたからね。それからは半日ほど歩いて、馬車を拾ったのさ。こんな辺鄙な場所で商売をしている人は限られているから、探すのに苦労したよ」
「……ありがとう」
「礼には及ばないよ。私が勝手にしたことだから」
一連の経緯を聞いたあと、ノラの中にある疑問が残った。
女と対峙した野犬のことだ。そのことには一切触れられていない。夜風に当てられて少しずつ明瞭になってきた頭の中で、その疑念はより確固たるものになる。
一つ、飢え死ぬ寸前だった体は今も脈動し、息づいている。
二つ、自分を手玉に取って、ほくそ笑んでいる眼前の女。
あのとき、かの駄獣の攻撃を許したはずだ。だというのに、それらしい傷は見当たらない。かすり傷すらない。理由は訊けば答えてくれるかもしれないが、その勇気はなかった。真相を知れば、取り返しがつかなくなる。そんな気がしてならなかったのだ。
「そういえば君、名前は」
「え、えっと」
唐突な質問に虚を衝かれて、ノラは声を裏返す。
「ノラです」
緊張から、訊かれるでもなく言葉が漏れ出る。
「村では名前なんて記号でしかなかったから、適当なんです」
「そう、面白い名前だね」
「それってどういう」
「いずれわかるよ。それにしても君、本当はかなり内向的な性格なんだね。『死んでたまるか』なんて、言いそうには思えないよ」
女は空を見上げながら笑みをこぼす。それを見てなぜか気恥ずかしくなったノラは、思い切って話を切り出すことにした。
「あなたの名前は」
「私は〝名無し〟」
「ナナシ?」
「名前がないってことだよ。君の言う通り、名前なんてただの記号で意味なんてものはない。だから捨てたんだよ」
意外な返答にノラは呆気にとられたと同時に、女の言葉にどこか違和感があることを感じ取った。だが、それを問い質しはしなかった。また、はぐらかされるだろうから。
しばらく二人の間に静寂が訪れる。戦火に見舞われた故郷はもう遥か彼方なのだろうかと闇を見やるが、かえって深淵に引きずり込まれるような錯覚に陥るだけだった。そんな心に纏わりつく影に飲まれまい、とノラは再び静寂を破る。
「名前がないんだったら、なんと呼べばいいんですか」
「好きに呼べばいいさ。あと少しでお別れだから」
女は困惑するノラをよそに、金の髪をゆったりと
「町に着けば、別の道を歩むことになる。私は死に場所を探し、君は生きる術を探す」
ノラの心の影は、さらに奥まで浸蝕した。女と過ごした時間は楽しいものではなかった。どちらかといえば、苦痛を感じることの方が多かったぐらいだ。それでも、このときが少しでも長く続けばいいと思っている自分がいた。孤独が恐ろしいわけではないが、今を逃せば一生後悔することになる。そう黒みがかった心がノラに訴えかけてくる。
「ま、待ってください。せめて町を案内してください。僕は村から一度も出たことがなくて」
耐えきれず吐き出された言葉は短絡的であり、浅はかな考えを露呈させる結果となった。我に返って赤面するほどである。案の定、女は毒の利いた答えを返してきた。
「放浪者に町を案内させるなんて、面白いことを考えるね」
「お願いします! 僕は外の人たちみたいに色んなことを知っていて、偉いわけじゃないけど、自分に正直でいたいんです」
ノラは真剣な眼差しを女に向ける。
「そこまで言うなら、君の熱意をみせてくれ」
「まさか、また」
どこかで聞いた言い回し。背筋を冷たいものが走る。ノラがなにを想像したのかわかったのか、女は相好を崩す。
「冗談だよ、今の言葉で十分さ。もう少し一緒にいてあげよう。それに」
差し込んだ風によって女の声が遮られる。
「え、なにか言いましたか?」
「夜明けまで時間があるから寝ておくといいよ、ってね」
「そ、そうですか。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
気のせいか、意識が沈む前に女の声がした。
「偉い人というのは『色んなことを知っている人間』じゃなくて、君のように道を自ら切り開く勇気をもつ人間のことを言うんだよ」
馬車は明日に向かってただ、ひたすら駆けていく。誰もにとって必然の未来とも思わせるそれは、偶然の未来なのかもしれない。たとえそうであっても、未来は受容するしかない。目が覚める頃には、空を泳ぐ暗雲は散り散りになっていた。
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