空虚に身を委ねて
島流しにされた男爵イモ
第1章 慈悲に縋り、溺れる
第1歩 邂逅
男は街道に頭を転ばせ、女は穢され、子は咽び泣く。
耳の奥で
数刻まで人々が波紋のように四方八方へと散っていたが、今はその影もない。
淀みの中にてらてらと輝く炎を映す。露がそれに同化した刹那、水たまりの中央に革靴が落ちた。遅れて水面に若い女の顔が映し出される。端正な白い顔に、すっきりとした目鼻筋。肩にかかった金の長髪を風になびかせ、碧眼を前方にやる。その口はきつく結ばれていた。
「いつもの見飽きた光景か」
女は街道の真ん中で吐き捨てると、襤褸の塊の前に屈む。
「生きているかい?」
その問いかけに期待は感じられず、独り言に等しかった。無論、戦火の只中にあるこの村に転がっているのは死体ぐらい。誰か生きていると考える方が不思議なぐらいだろう。それでもノラは、その声に希望を抱いた。藁にも縋る思いで、襤褸から顔を出す。年端もいかぬ幼さの残る相好と、泥と砂にまみれた黒髪が冷たい秋風に当てられる。
「た、助け」
「助けなら他を当たってくれ、少年」
ノラの嘆願は呆気なく一蹴される。
「なにも君をどうにかするために、足を止めたわけじゃない」
女は立ち上がり、外套に付いた砂埃を払う。
「私は、死に場所を求めてここに立っているんだ」
突拍子もない返答にノラはひどく困惑する。最初の声から感じた優しさが嘘かのようだ。眼前の女はこの状況を楽しんでいる。言葉だけでなく、態度もそのことを如実に表していた。女は微笑を浮かべ、一振りの小刀をノラの前に落とす。静寂の中に高い音が響く。
「どうしてもというなら、君の生への執着を見せてくれ」
そう言いながら、今度は背負っていた革袋から獣の臓物を引きずり出す。生臭い臭いが鼻を衝く。ノラは顔をしかめるが、女はお構いなしにそれを街道の奥へ投げ捨てた。
「助けてほしいのは腹が空いているからだろう? さあ、君の熱意をみせてくれ。ちなみに私は他にも食糧を持っているよ」
臓物を掴んだ手に付いた鮮血を舐め取りながら、女は嬉々とした表情で告げる。この状況でどうかしている。女に対して、村を滅茶苦茶にした連中以上の嫌悪を抱くノラ。反射的に掴み取った小刀の刃には、自分の苦渋に満ちた顔が映し出されていた。
「迷っている時間はあまりないよ。獣が臭いを嗅ぎつけるのは時間の問題だ」
女の言う通り、体はすでに極限状態。重圧と恐怖によって思いの外、体力を消耗していた。実のところ、立ち上がるのもやっと。そのうえ、時間もない。残された選択肢は臓物に食らいつく、諦めて死を受け入れる、はたまた女を殺して食料を奪う、この三つしかない。尤も、三つ目は到底叶いそうにないが。戦火に次いで現れた地獄。どうすべきか。
ノラは自らの頬を弱々しく叩き、逡巡する思考を現実に呼び戻す。臓物までは二十歩ほど。震えて立ち上がることを拒否する足を支えながら、ふらふらと起き上がる。たどたどしくも、確実に前へと歩を進める。
「し、死んで……たまるか」
並木に背を預け、様子を伺う女を尻目にまた一歩前進していく。しかし、体はとうに限界を迎えていた。数歩目かで足は宙を掻き、地面に突っ伏す。それでも、泥交じりの砂を必死に掻き分けて這ってゆく。倒れた拍子に口に入った砂を噛み砕いて。
「もう少し、もう少しだ」
「ガアア!」
そんな折、突如として前方から咆哮が轟く。ノラは身をすくめたあと、ゆっくりとそちらに視線を向ける。その先には咆哮の主である野犬が四匹、こちらを睨みつけていた。
その恵まれた体躯では、人間の大人でさえ渡り合うのは容易ではないだろう。野犬たちは、それは自分たちのものだ、と言わんばかりにノラを牽制しながら、飛び散った臓物に鼻を寄せている。そんな中、野犬たちの関心はふいにノラの方を向く。
どうやら臓物よりも、眼前の死にかけの人間の方が旨そうだと認識したようだ。限界の体をなんとかここまで引きずってきたノラに、もはや抵抗する気力も体力も残されていない。閉じかけた瞼をこじ開けて小刀を握る手に力を込めるが、かすかに震えるだけで力が入らない。ふと脳裏に、かの駄獣たちに引き裂かれて食い荒らされる自分の姿が浮かぶ。
垂涎する野犬たちが近づいてくるが、体はまったく動かない。遂に野犬の一匹が飛び掛かってき、その口から鋭利な牙が見えた刹那、鈍い音とともに唸り声が途切れた。
「小手調べのつもりだったけど、これは重畳」
恐る恐る目を開ける。そこに飛び込んできたのは、片手で野犬の鼻と口を押さえ込む女の姿だった。野犬は体ごと持ち上げられ、うしろ足を頻りにばたつかせている。
「こっちも、それなりの返礼をしないと」
茫然とするノラを背に、女はどこか満足げに野犬を見つめている。
「今回は相手が悪かったね」
苦悶の表情を浮かべる野犬に淡々と告げると、力任せに喉笛を素手で引き千切る。勢いよく溢れ出る鮮血をするりと躱すと、女は軽々と野犬を放り投げた。やっと解放された野犬は、びくびくと地面の上で踊る噴水と化す。一部始終を傍観していた残りの野犬たちは、踵を返して彼方へと消えていった。ただ一匹を残して。
「グルル、ガアア!」
地響きのような咆哮を上げ、女を威嚇する野犬が一匹。その体躯は女の手の中で散った同胞の倍はあり、額と右頬には肉の抉れた形跡があった。どうやら歴戦の猛者のようだ。
「同胞の敵討ち、それとも腕試し。どちらでもいいか」
そう言うと、女はおもむろに両手を広げて野犬に近づいていく。これを好機と判断したのか、野犬は卓越した脚力で一気に間合いを詰めて女の首筋に飛びつく。
「だ、駄目!」
ノラが気力を振り絞って声を発するが、すでに遅かった。水気をたっぷり含んだ枝を踏み潰したかのような、湿った音が街道に響き渡る。
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