空虚に身を委ねて

島流しにされた男爵イモ

第1章 慈悲に縋り、溺れる

第1歩 邂逅

 男は街道に頭を転ばせ、女は穢され、子は咽び泣く。

 耳の奥でこだまする怨嗟の声に震えながら、ノラは路傍で襤褸ぼろの塊に隠れていた。突如として片田舎の村を襲った戦火は貧者を炙り出し、そのことごとくを灰燼かいじんへと帰した。襤褸の隙間から目をやれば、朱に染まった街道には生命の残骸が散乱し、燃える家屋がその両脇に軒を連ねている。立ち上る黒煙は夜空に流れ込み、澄み渡っていたそれを鈍色で覆っていた。


 数刻まで人々が波紋のように四方八方へと散っていたが、今はその影もない。闖入ちんにゅう者たちも去り、村には肺を溶かすような臭気と名ばかりの静寂だけが横たわっている。かつての賑わいは露となり、ただ地面を流れるのみ。その行く末には水たまりが一つ。

 淀みの中にてらてらと輝く炎を映す。露がそれに同化した刹那、水たまりの中央に革靴が落ちた。遅れて水面に若い女の顔が映し出される。端正な白い顔に、すっきりとした目鼻筋。肩にかかった金の長髪を風になびかせ、碧眼を前方にやる。その口はきつく結ばれていた。


「いつもの見飽きた光景か」


 女は街道の真ん中で吐き捨てると、襤褸の塊の前に屈む。


「生きているかい?」


 その問いかけに期待は感じられず、独り言に等しかった。無論、戦火の只中にあるこの村に転がっているのは死体ぐらい。誰か生きていると考える方が不思議なぐらいだろう。それでもノラは、その声に希望を抱いた。藁にも縋る思いで、襤褸から顔を出す。年端もいかぬ幼さの残る相好と、泥と砂にまみれた黒髪が冷たい秋風に当てられる。


「た、助け」

「助けなら他を当たってくれ、少年」


 ノラの嘆願は呆気なく一蹴される。


「なにも君をどうにかするために、足を止めたわけじゃない」


 女は立ち上がり、外套に付いた砂埃を払う。


「私は、死に場所を求めてここに立っているんだ」


 突拍子もない返答にノラはひどく困惑する。最初の声から感じた優しさが嘘かのようだ。眼前の女はこの状況を楽しんでいる。言葉だけでなく、態度もそのことを如実に表していた。女は微笑を浮かべ、一振りの小刀をノラの前に落とす。静寂の中に高い音が響く。


「どうしてもというなら、君の生への執着を見せてくれ」


 そう言いながら、今度は背負っていた革袋から獣の臓物を引きずり出す。生臭い臭いが鼻を衝く。ノラは顔をしかめるが、女はお構いなしにそれを街道の奥へ投げ捨てた。


「助けてほしいのは腹が空いているからだろう? さあ、君の熱意をみせてくれ。ちなみに私は他にも食糧を持っているよ」


 臓物を掴んだ手に付いた鮮血を舐め取りながら、女は嬉々とした表情で告げる。この状況でどうかしている。女に対して、村を滅茶苦茶にした連中以上の嫌悪を抱くノラ。反射的に掴み取った小刀の刃には、自分の苦渋に満ちた顔が映し出されていた。


「迷っている時間はあまりないよ。獣が臭いを嗅ぎつけるのは時間の問題だ」


 女の言う通り、体はすでに極限状態。重圧と恐怖によって思いの外、体力を消耗していた。実のところ、立ち上がるのもやっと。そのうえ、時間もない。残された選択肢は臓物に食らいつく、諦めて死を受け入れる、はたまた女を殺して食料を奪う、この三つしかない。尤も、三つ目は到底叶いそうにないが。戦火に次いで現れた地獄。どうすべきか。

 ノラは自らの頬を弱々しく叩き、逡巡する思考を現実に呼び戻す。臓物までは二十歩ほど。震えて立ち上がることを拒否する足を支えながら、ふらふらと起き上がる。たどたどしくも、確実に前へと歩を進める。


「し、死んで……たまるか」


 並木に背を預け、様子を伺う女を尻目にまた一歩前進していく。しかし、体はとうに限界を迎えていた。数歩目かで足は宙を掻き、地面に突っ伏す。それでも、泥交じりの砂を必死に掻き分けて這ってゆく。倒れた拍子に口に入った砂を噛み砕いて。


「もう少し、もう少しだ」

「ガアア!」


 そんな折、突如として前方から咆哮が轟く。ノラは身をすくめたあと、ゆっくりとそちらに視線を向ける。その先には咆哮の主である野犬が四匹、こちらを睨みつけていた。

 その恵まれた体躯では、人間の大人でさえ渡り合うのは容易ではないだろう。野犬たちは、それは自分たちのものだ、と言わんばかりにノラを牽制しながら、飛び散った臓物に鼻を寄せている。そんな中、野犬たちの関心はふいにノラの方を向く。


 どうやら臓物よりも、眼前の死にかけの人間の方が旨そうだと認識したようだ。限界の体をなんとかここまで引きずってきたノラに、もはや抵抗する気力も体力も残されていない。閉じかけた瞼をこじ開けて小刀を握る手に力を込めるが、かすかに震えるだけで力が入らない。ふと脳裏に、かの駄獣たちに引き裂かれて食い荒らされる自分の姿が浮かぶ。

 垂涎する野犬たちが近づいてくるが、体はまったく動かない。遂に野犬の一匹が飛び掛かってき、その口から鋭利な牙が見えた刹那、鈍い音とともに唸り声が途切れた。


「小手調べのつもりだったけど、これは重畳」


 恐る恐る目を開ける。そこに飛び込んできたのは、片手で野犬の鼻と口を押さえ込む女の姿だった。野犬は体ごと持ち上げられ、うしろ足を頻りにばたつかせている。


「こっちも、それなりの返礼をしないと」


 茫然とするノラを背に、女はどこか満足げに野犬を見つめている。


「今回は相手が悪かったね」


 苦悶の表情を浮かべる野犬に淡々と告げると、力任せに喉笛を素手で引き千切る。勢いよく溢れ出る鮮血をするりと躱すと、女は軽々と野犬を放り投げた。やっと解放された野犬は、びくびくと地面の上で踊る噴水と化す。一部始終を傍観していた残りの野犬たちは、踵を返して彼方へと消えていった。ただ一匹を残して。


「グルル、ガアア!」


 地響きのような咆哮を上げ、女を威嚇する野犬が一匹。その体躯は女の手の中で散った同胞の倍はあり、額と右頬には肉の抉れた形跡があった。どうやら歴戦の猛者のようだ。


「同胞の敵討ち、それとも腕試し。どちらでもいいか」


 そう言うと、女はおもむろに両手を広げて野犬に近づいていく。これを好機と判断したのか、野犬は卓越した脚力で一気に間合いを詰めて女の首筋に飛びつく。


「だ、駄目!」


 ノラが気力を振り絞って声を発するが、すでに遅かった。水気をたっぷり含んだ枝を踏み潰したかのような、湿った音が街道に響き渡る。

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