第38話 淀みに右目を浸す (1)

「とまぁ、こんな感じでちょっとしたトラウマになってもうてな」

「それは誰だってトラウマになると思うよ……うん」


 聞いただけでも、サクヤの心に深く刺さったトラウマはそう簡単に克服できるものではないことがわかった。というより、暗示が、怖くて、怖くて、それを話しているときのサクヤも本当に辛そうだった。


「この事件のせいでだいぶ精神やられてさ、……まぁ精神やられたお陰で雪那と出会えたって言っても過言じゃ無いねんけどな」


「思ったんだけど……ユキナとサクヤはどんな関係?」

「親友であり、互いにとっての恩人であり、たった一人の味方……やな、うん」


 あれだけ必死に助けたいと訴えるものだから、てっきり恋人同士なのかと思っていたけれど、どうやら違うみたいだ。


「雪那は可愛いし、俺らの住んでた世界じゃ、ちょっと珍しいタイプの女の子やってん。産まれた時は黒髪やったけど、途中で何故か白髪になってな。色んな病院駆け回ったらしいけど、原因がわからんかったみたいやで」


 相槌を打つ。サクヤが僕のことを信頼して、ユキナのことを教えてくれているのだ。出会ったばかりの頃はユキナの外見的特徴しか教えてくれなかったけれど、それでもサクヤがユキナを大事にする気持ちは伝わってきていた。


 今となってはどうだろうか。赤黒く淀んだ瞳は、澄んで黒く輝いている。そこから涙がこぼれ落ちても、おかしくないほどにサクヤは過去に浸っていた。

 喜怒哀楽快不快、その流れる記憶。その全てを理解して汲み取って、感じてあげることはできない。ただ無意識にどうにかそれを理解してあげたい、共感してあげたいと思う自分がいる。


「……今となっては雪那も奪われて、生きてるかどうかもわからへん。一応カインは建国祭までは大丈夫やって言ってるけど、正直それを聞いても心配で心配で仕方がないねん……。大体、カインの祖国の国名すら教えてもらえてへんし、実際どうなんやろ」


 よくよく思い返せば、国名は聞いていない。ただ、祖国という情報と方角だけを示されている。国家予算に携われるほど地位が高かったカイン。彼女の祖国で、彼女は一体何に巻き込まれたんだ?


「カインの祖国の名前は《骸狂帝国レフローディ》」

「うわっ⁉ びっくりしたぁ……」


 いつの間にかロミィが目覚めていた。反射で僕も声を出して驚いてしまった。ロミィはただ起き上がることはせず、何も映さない限りなく黒に近い藍色の瞳をわずかに開いて、呆然としていた。


「ちょ、待てや。カインの苗字もレフローディやったよな? 国名が苗字って——」

「カイン・レフローディは皇族なの。しかも、それなりに地位の高い第二皇女という立場まで与えられている。多少はカインの出生、わかった?」

「……」


 アレが皇女だというのにも衝撃だったが、それだけ恵まれている立場をどうして捨てたのかが気になってしまう。お金もたくさん使えて、皆からチヤホヤされて、国民の注目を浴びる立場なんて……憧れは持たないが、誰しもが夢見るものだろう。


「私から教えられるカインの情報はそれだけ。これ以上は、カインが嫌がる、はず」

「いやまぁ……カインのこともまぁ心配やねんけど……それよりロミィは? 大丈夫なんか?」

「これのどこが大丈夫だと思うの」

「ああ大丈夫じゃないと」


 案外ロミィとサクヤは相性が良いのかもしれない。コミュニケーションが円滑に進み、尚且つサクヤはロミィの棘のある言葉を受け止めつつも流すものは流すという、僕にとっては難しいことをやってのける。


 今の僕に得意なことの一つや二つ、残ってはいない。記憶を失う前はどうだろう、その特異なことで誰かを救えたりしたのだろうか。


「何か開き直ったとも言えるし、それでもまだ「死にたい」とは思っているの。だから、殺してくれない? サクヤ。ああ……別にオーヴェルでもいいけど」

「僕は嫌かな……」

「何で殺さなあかんねん。……って言うかさ、だいたい何で急におかしくなってん」


 ずっと寝転がっていたロミィだったが、むくりと起き上がって、僕らの方を一切見ずに問いに答えた。


「最初から「死にたい」という感情はあったけど、それに気づいたのがついさっき。それだけ」


 サクヤが動き出して、ロミィの前に座る。そして無理やりロミィと目を合わせて、こう言った。


「本当に?」


 低い声で、真剣な眼差しで、怒りを織り交ぜながら彼は問う。


「本当に」


 ロミィもロミィだ。表情を全く変えずそう答えるんだ。

 空気が暗くなったのを確認したようなタイミングで、サクヤはロミィの真ん前から離れる。そして少し離れた、友人としてふさわしい場所に座る。


 ふとサクヤがこちらを見る。それと同時に思い出したことをそのまま言葉にした。


「あ、言い忘れていたんだけど……、アクレイは一人で心臓を探すって」

「そう」

「マジかー。まぁしゃあないか……。何か元から一匹狼みたいなオーラ纏ってたし」


 ロミィは声から言葉からして完全に無関心だった。元からそんな性格をしていたような気はするけれど、今回の一件でさらに興味を失くしているように見える。

 そういえば、サクヤのトラウマにも「興味」が出てきたような。これは偶然か?


 二人とも、そこまでアクレイについて深追いすることは無かった。親しみを持つ前には慣れてしまったというのも理由の内だろうが、恐らくこの二人は個人の事情だと割り切って知ろうとはしないのだろう。

 僕もこの世界と人間の上下について多少は知りたいと思うが、本人が嫌がるのであれば首を突っ込む必要は無いと思っている。けれど、それと同時に自分のことを知るために他人を知りたいとも思っている。神様だって、ちょっとした矛盾を抱えるのだ。


「カイン、まだ起きてないのね」


 ロミィが静かに呟いた。そっと立ち上がって、カインの側に行くとそのまま横に腰掛ける。そしてカインの髪を静かに指で撫でた。




 ——心に柱となるモノを見つけた人間は美しく見える。




 ふとそんなことを言っていた誰かを思い出しかけた。そのまま思い出せたら楽なのに、思い出せないのがもどかしい。


 思い出せやしないけれど、実際に今のロミィは前と比べて美しく見える。

 今までは臭い物に蓋をするように汚れた箱に触ってこなかった。けれど今、煤や埃で汚れてしまった硝子の箱を磨いて、その中にある宝石を見つけたとしたら、その理由もわかるかもしれない。……なんて例え、通じるだろうか。


 ロミィをそう例えるのなら、カインはどうだろうか。


 何となく、気になってしまった。同じ女性という枠に嵌めただけに過ぎないかもしれない、ただ今は思考に耽りたかった。それが無駄なことだったとしても、多少は思考の世界に没頭できる。まるで本を読むように、そこだけに浸ってられる。


 まだその本質を掴んでいないから、カインはいくら考えても真っ暗闇に立ち込める煙でしかない。そこに物質が無いように、カインそのものは僕たちの前にいない。それは意図的にも隠されているように思える。

 無理に触れようとすると、煙ごと消えてしまいそうなくらい薄い何か。本人は上手く隠しているつもりでも案外誰かが気付いていたりする。実のところ僕はこのことを考えるまで、隠している可能性がある、という些細な問題にも気づけていなかった。


 あまりにも鈍感すぎて、何かを失ったような気がするのはきっと記憶を失うより前に何かがあったからだろう。何を考えても、思い出しても、悩んでも、苦しんでも、結局は記憶喪失という壁に阻まれるのだ。


 これを何度悩み、苦しみ、藻掻いたことだろう。前を向こうと決めても、今を大切に生きてこうとしても、もう考えないと決意を固めても、どうしてもここに戻ってきてしまう。


「悩んでいるの?」

「僕?」


 反射で聞き返してしまったが、見ている方向が明らか僕であることに気付いて少し恥ずかしくなる。


「オーヴェル以外に、誰がいるの」

「まぁ、そうだね」

「それで、悩みとか、あるの?」


 感情的にもならず、ある一定のテンポで言葉を並べているだけにしか聞こえない。それでもロミィにとっては大きな成長なのでは無いだろうか。


 そう思った矢先、あることを思い出した。


 僕が森の中で迷って、悪い人に見つかって怪我をして意識を失った時。泣いているロミィ、あの時が一番感情的だった印象がある。まだ出会って日が浅いけど、それでも何か彼女は変わり続けているような気がする。


「ずっと、記憶喪失っていう事実を、引きずっているなって思ってさ」

「そんなの、どうでもいいじゃない」


 間を置かずにすぐに返事が返ってきて驚いてしまう。この手の答えのない問いは、多少悩むのが道理な気がするが、これは……。


「オーヴェルには今しかない、今と未来しかない。むしろ、それだけを見ていればいいと思う。あくまで、私個人の意見だけど」

「あはは、まぁ……そうだよね。それが普通なんだろうけど」

「本気でどうにかしたいって思うのなら、カインに頼めば。記憶喪失っていう事実自体を消し去ってくれるわよ」

「それは……嫌だなぁ」


 それを失ってしまうと、本当に戻れなくなりそうで怖い。


「ある聖書には「人間は常にを背負い、を抱え、己を生き物だ」って書いてあったのを覚えている。あなたは人間じゃないけれど、基本構造は同じなのだから当てはまるはず。何が言いたいか、わかった?」


 つまり僕にとっての「記憶喪失」は罪であり、何らかの過ちで得たものであり、今の僕は悩むことで自分自身を呪い続けているということだろう。


「それ、どの聖書?」

「……カインが持っていた、聖書」

「そう」


 これ以上は深く掘り下げたくない、本能がそう言った。

 まだ知りたくない。ただ単純にそれだけ。


「知らなくていいの、こんなこと」


 僕の心を見透かしたようにそんなことを言う。

 これだから、もう、僕の仲間たちは。

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