第36話 混沌と蛇のスープ (4)

 血液が細い糸状になり、ピンと張る。それを思うままに操って、カインの周辺に半球を作り上げる。あくまで糸を折り重ねて作った半球だ、血液が足りない分は均等に四角形の穴が開いていたりする。


 絶えず血液は動き続けている。カインの右手はどうか知らないが、並の人間が触れようものならその人間も自らの身体を傷つけるだろう。そして流れ出た血液も、取り込まれていく。


 俺の姉、クロスはこの術を自分自身に使った。自らが血液に囲まれることで、他者との関わりを絶とうとしていたらしい。確かその時は、半球で囲った後、糸状の血液をそのまま周囲に爆発させるように飛び散らせた。


 糸とは言うが、とても細い針と一緒だ。近くにいた大人は結構な深手を負っていた。


 今回はそんなことをするつもりはない。あくまでカインの攻撃が彼らに届かないようにするため、カインが冷静になる時間を稼ぐため、それだけができたらいい。


 ひとまず、これでカインがどう動くか見てみよう……。


 糸の隙間から見えたカインの顔は黒い影か何かに浸食されていたはずだが、それが無くなっていた。ただ、興味深そうに自分を取り囲む血液の半球を見て、カインは微かに呟いた。


「クロスの檻だ……」


 この半神、やっぱり距離を取った方が良さそうだ。物理的にも、心理的にも。


 何者かもわからない、時折別人のように感じられる。まるで全く違う人間と係わっているようで……気持ちが悪い。何なんだ、この半神。


 何をやっても理解できないのなら、最初から理解など試みない方が良い。俺はそのまま血の糸を操り、カインを縛る。バランスを崩してそのまま倒れそうになるが、巧みに糸を操って出来るだけ身体に衝撃がいかないように調節し、地面に寝転がせた。


 暴走状態のカインはどうも情緒不安定で、これからどんな行動をするか見当もつかない。今は何故か落ち着いている、クロスのことを呟いてから攻撃することがなくなった。


「お前の……何とクロス姉さんが関係しているんだよ……」


 虚ろな目をしていたカインは次第に目を閉じた。過去を思い出して心が落ち着いたのだろうか。


 そもそも何が原因で、カインは暴走したのだろう。死神の襲撃という一つのイベントでここまで変化するものか、と問われれば首を傾げるしかない。けれど、神の共有体という手前、不可解なことが起きても「半神だから」の一言で済ませられるのも事実。


 そして、クロス・レルトーカーとの関わり。


 クロス姉さんが家を出ていった時期がある。俺だって、あの家を出たかったが結局は「優等生」の皮を被ることしかできなかった。家に居る間は、最初から最後まで優等生でいられたような気がする。


 今自分が立っている地面と、精神的ショックで苦しんでいる仲間と寝転がって意識を失った仲間。そこに過去を重ねると、今の自分が何をやっているのか本当に分からなくなる。


 一瞬、オークション会場で出会ったカインが、物語でよく見る救世主のように見えた。実際は、全く違うものだったけれど、何なら助けてもらわなくても俺一人でどうにかできた。何度も思い出し考える、あの空間。


 仲間も、良いと、思えた。気がした。


 しかし、やはり意思を持つ者には「合う」「合わない」がある。俺に仲間なんてものは合わない。



 一人で、心臓を集めよう。



 既に決めていたことだった。肌に合わないと最初から分かっていた。それなのに、別れを先延ばしにしていた自分もいる。辛いとか、寂しいとか、そんな馬鹿らしい感情は生まれていないけれど、彼らの行く先を見ていたかったのも事実だ。


 無慈悲に別れを告げるほど、俺は残酷な吸血鬼じゃない。仲間には多少の情を分けてやるのが、俺なりの気遣いだ。


 カインを縛る血の糸は一定時間経過すると、俺の元へ還元される。気の狂った二人は、動かない。そして、惨状を何も知らないオーヴェル。


 足音を立てずに、寝ているオーヴェルの元へ歩く。すぐそばまで行くと、俺はしゃがんでそっと両手をオーヴェルの首元に添える。


 そして、力を籠める。


 時がゆっくり進むように感じられた。「う、ぐ……」と微かに呻き声を出しているが、身体は全く抵抗してこない。現状が分かっていないから手出しができないのか、彼自身も心が弱っていて、簡単に「死」を受け入れる態勢に入っているのか。俺の、知ったことではない。


「……ぐ、っつ……! はぁ……」


 オーヴェルの顔が歪み、目が微かに開かれる。


「や、めて……」

「いいよ、やめてあげる」


 オーヴェルは俺のことを睨みつけた後、惨状を知る。周囲を見渡して、血で縛られているカインの元に行くか、地面に崩れ落ちた二人の元へ歩むか、俺に事情を聴くか、色々しなければならないことが頭の中に出てきただろう。


「倒れている間に何があったか、全部教えてやるからちゃんと聞けよ?」


 どうせ全員、しばらくは目を覚まさない。精神的にも肉体的にも、現実を見ることができない。だから俺はゆっくり、何があったか全てを話していった。俺の私情は交えずに、淡々と起きたことを話していく。


「じゃあ……サクヤとロミィに何が起きたか、よくわからないんだね……」

「カインも、謎だけど」


 俺はオーヴェルが現実を受け入れるのを待っていた。


「それで、どうしよう」

「俺は一人で心臓を探す。俺に仲間は似合わない」


 オーヴェルは少しだけ驚いて、すぐに顔を伏せた。俺は立ち上がり、荷物を纏める。


「もう行くの?」

「ああ、可能性を残したくないから」


 俺が残ると、後悔を生む。引き留められたかもしれない、という後悔。俺の考えすぎかもしれないけれど、少なくともカインは……なーんて、俺らしくない。はぁ。調子が狂う。


 数週間一緒に過ごしただけの奴との別れに感動の涙なんて、ある訳が無い。それにオーヴェルと親しい関係になった記憶も無い。去る者は追わず来る者は拒まず、まさにそんなスタンスのように感じられた。


 ……何もしないのは、流石に気の毒か。あの《骸狂帝国レフローディ》に行くのだ、手を全く貸さずに死なれても後味が悪い。


 俺が発言をしようとした矢先、オーヴェルが話しかけてきた。


「ねぇアクレイ」

「ん?」


 俺はオーヴェルの方に目をやる。


「……っ」


 驚いた。オーヴェルのネイビーの瞳が、黄金の瞳に変化していたのだ。魔法を使用するときに目の色が変わる奴ならよくいるけれど、これとそれとは違うように感じられた。



「捕まらないようにね」

 ——うるさい大人たちに捕まらないようにね!



 オーヴェルはわずかに微笑んで、そう言った。彼の声と、クロスの声が重なって聞こえたような気がした。気がしたんじゃない、聞こえた。


 広いお屋敷の、屋根裏部屋で遊んだ日々。クロスが家出をするまで、何度も何度も言われた言葉。トーカー一族とか、クェッティ一族とか、複雑で面倒なことを何も知らなかった俺に、いつも言っていた言葉。


「オーヴェルお前は……」


 誰もわからない問いをぶつけようとした。


 いつの間にかオーヴェルの目は既に元のネイビーに戻っていた。よくよく見たら青緑にも見える。光の入りようによっては緑も見えるようだ。


「いや、いいや。またどっかで、な」

「え? う、うん」


 俺の方が何かをあげようと思ったのに、何故か与えられてしまった。

 俺は行く先に目を向け、振り返ることなく翼を広げて飛ぶ。


 そして静かに心に決めた。《骸狂帝国レフローディ》の建国祭に行こう、と。それまでに俺は心臓の一つでも回収しないといけない、と。


 太陽の光が俺に降り注ぐ。痛くも痒くもないはずなのに、心は静かに痛みを訴えていた。これで良かったのだと、自分に言い聞かせるだけの時間がしばらく続いた。




 ◆







 ◆








 アクレイが飛び去ってから一時間ほどで、カインの血の糸が消えていった。少し心配になって、彼女の顔を覗き見る。顔の右側に薄く黒い模様のようなものがあり、それは徐々に消えていっているようだった。


 ついでに右腕も確認する。手の形が変化していたらしいが、今は普通の人間と大差ない。ただ、やはり薄く黒い模様が残っているように思えた。まだ完全に治っていないのか……?


 何もない精神世界でカインと話していた時は、何も変わっていなかった。だからこそ、死神の作った精神世界は精度が高く、現実世界と完全に分離していたのだ。


 むくり、とサクヤが身体を起こして動き出した。そのことに驚いて、自らの身体がビクリと震える。


「サクヤ……大丈夫?」

「大丈夫じゃない」


 良かった、まだ受け答えができる。アクレイの話では、まともに会話できるかさえわからない、と聞いていたから一時はどうなることかと思った。


「……とりあえず、水でも飲む?」

「ああ……頼むわ」


 荷物から水筒とコップを取り出して、注ぐ。六割ほど満たされたところで、「それぐらいでええよ」と言われたので、注ぐのをやめて手渡した。


 サクヤはゆっくりと口元まで運んで、一口飲んだ。そしてこちらを見て、言った。




「……なぁヴェル、俺の話、聞いてくれへん? さっきうっかり思い出しちゃってさ、吐き出さねぇとやってらんねぇってか……心がどす黒くて気持ち悪いんよ」




 彼が打ち明けることにどんな重みがあるのか、僕は知らない。だからこそ、知らなきゃいけないと思った。


 この光景と思考にデジャヴを感じた、どこかで同じことをしたのだろうか。答えは見つかることなく沈んでく。



「うん、いいよ」




「あはは……ありがとな。えぇと、どっから話せばいいんやろ……。まぁ最初から話すか」

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