第5話 彼女は嘘を歌う
俺は逃げるでも追いかけるでもなく、その男へと一直線に歩いていく華子の背中をただただ目で追っていた。男と彼女の距離が縮まっていく。
ドンッと音は聞こえなかったが、突き飛ばされた様に効果音が付け加えられた。
俺は逃げようだとか、捕まえてやろうだとかは少しも思わず呆然と立ち止まっていた。
頭が真っ白になっていたが、心臓の鼓動はとても速かった。
男は俺の横をスピードを緩めずに走り去っていった。なぜか冷静に男の表情を見れていた。恐怖や焦りを感じさせる表情に見えた。
突き飛ばされた華子に手を差しのべている人が視界に入り、俺は思い出したかのように華子のもとに駆け寄った。
「ごめん、大丈夫か」
情けない気持ちと、心配している気持ちが合わさりとてもか細い声になっていた。
華子に手を差しのべてくれた年配の女性が、ちらりと俺を見た。
「怖かったろうねぇ 彼氏さんかい? 刺されなくて良かったねぇ」
俺は黙って軽く一礼をすると、華子もぺこりと頭を下げた。
「さっ!焼肉食べいこっ」
華子は言う。
「えっ、あっ、そうだな」
正直そんな気分ではないと思っていたが、華子の無事を確認し自分への危害が無かったことで日常の中に現れた狂気は、道端の石ころのような存在感になっていた。
むしろ、その出来事を今日一日のちょっとしたスパイスにしていた。
何事もなく焼肉店に入り、今日一日を振り返りながらあれが面白かったこれがすごかった、あれはなんだったんだろうと話を弾ませる。
俺は最初のデートへの不安感から解放されたせいか、苦手なはずの酒をジョッキ一杯飲み干していた。
いつもより、軽快に言葉が出てくる気がした。
「今日は良い一日だったな 息抜きにもなったし楽しかったよ ところで、そのー、歌はどうする?」
俺は忘れてはいなかったが、そのときはもう歌のことはおまけのようなものになっていた。
「そうだねー、あたしも楽しかったよ、歌も決めたよ」
華子はそういうと、肉を掴むトングを右手に持ち、マイクに見立てるように自分の口に近づけた。
「発表します」
もったいぶる華子の口調の為か、俺の頭の中でドラムロールが鳴っている気がした。
「歌います!」
「マジか!ありがとう!」
「だけどー」
「だけど?」
「作詞はイッチーにお願いする!」
「マジか?作詞?」
「そう!曲はあたしが作るから作詞お願い!それならいいかな!」
俺は作詞なんてものは書いたこともないし、本もろくに読んだこともない。何を根拠に俺に頼むのかわからなかった。
「作詞って言われても…」
「なんでもいいんだよ、イッチーが見たり思ったりしてることで」
なんでもいいが一番難しいんだが。それに女のなんでもいいは男のなんでもいいと価値観が丸っきり違うと何かで見たような。
「華子が書いたんじゃダメなのか?」
「あたしの詞ー?ダメっていうかー」
腕を組みテーブルに肘を付け、うなだれる。数秒の間が空くと顔をあげた。
「全然リアルじゃないの」
「リアルじゃない?詞っていうのはそういうのがいいのか?」
「何がいいとかはないと思うんだけど、あたしがそう思うの」
「あたし、もともと小さい頃から創作するのが好きで教科書に載ってる物語の続きとかを想像して書いたりしてたの」
「で、音楽を始めて曲を作り始めてから作詞もするようになってさ」
「まわりは素敵だねとか、感動するねとか言ってくれてさ」
「でも、全然違うの。ひとつもあたしの想ってることは伝わらなくて。まぁそれはあたしにセンスが無いからだと思うんだけど。」
「それで、なんとなく解ってきたことがあってさ。あたしは天才だって。」
「嘘だと思うかも知れないけど、あたしが歌う嘘の歌にみんな感動するの。時には涙とか流しちゃったりしてさ。あたしは歌うのは好きだけど、自分の歌が嫌いなんだ 贅沢すぎると思うけど、あたしは自分の為に歌いたいんだよね」
俺はここまで黙って聞いていたが、さすがに自意識過剰なのではと思い始めた。確かにライブでの華子は凄かったが。まぁアーティストというもはこれぐらいの気持ちがあったほうがいいのかもと思った。
「イッチーは歌好き?よく聴く曲とかある?」
「いや、正直今まで特に音楽には興味が無くて」
「そっかー、じゃあちょっと聴いて」
華子は静かに目を閉じると、メロディーを口ずさむ。周りの雑音が埋めいているはずなのに、彼女の美しく澄んだ声がクリアに聴こえる。頭に直接流れ込んでくるといったほうがいいのか。
その歌声は、心地よく心臓を高鳴らせる。これはラブソングだ。暖かな気持ちになると、自然と涙が流れた。
「えっ?ちょっ、俺…」
俺は自分の身に起きた初めての現象に戸惑いつつ、声を漏らしながら涙をぬぐった。
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