君に捧ぐ

増田朋美

君に捧ぐ

パリ市内も寒くて過ごしにくい季節になった。まあ、どこの国家へ行っても、冬と言うものがある以上、寒くて過ごしにくい季節というのはあるのだろう。音楽の世界でも、冬をテーマにした作品は多いが、冬の寒さを描写したり、冬に作られるお菓子をテーマにした作品もある。そして、必ず描かれるのが、やがてくる春の夢を忘れないようにというメッセージである。

その日、杉ちゃんが、トラーが作ってくれたパスタを水穂さんに食べさせようと奮戦力投していたところ、モーム家のインターホンが鳴って、チボーくんがやってきた。一体何だと思ったら、いつもどおり、水穂さんの事が心配になって来訪したというが、用事はそれだけでもなさそうだった。

「あのね、これがポストの中にはいっていたんだよ。いつまでも入れっぱなしで、忘れていたら困るでしょ。」

チボーくんは、一枚のハガキをトラーに渡した。

「何だ、どこから来たはがき?」

杉ちゃんが、そのアルファベットだらけのはがきを見て、興味深そうに言った。杉ちゃんという人は、それが読めなくても興味を持って、何が描かれているのか、知りたがる人なのだ。

「いや、市役所からなんだけどね。今度行われるお祭りで、音楽会が開かれるそうで、その出場者募集のはがきなんだ。一応だれでも出られるんだけどさ。ここには出られそうな人は、だれも居ないよね。」

チボーくんがそう言うが、トラーがなんだか勿体無さそうなかおで、水穂さんを見ているのに気がついた。

「いやあ、無理だと思うよ。だって水穂さんは動けないでしょ。そんな人を音楽会に出されるなんて。」

そういうチボーくんにトラーは、

「そうかしら。」

と、なにかひらめいたような言い方で、そんな事を言い始めた。彼女がなにかひらめくと、なにかハプニングが起きることは、チボーくんも知っていたが、そこを止めてしまうと、彼女は激怒することも知っていたから、とりあえず止めないでいわせて見ることにした。

「あたしは、水穂に出てほしいなと思うなあ。具体的に生きる目的ができれば、ご飯だって、食べてくれるようになるんじゃないかしらね。あたし、ベーカー先生が言っていたのを聞いてしまったのよ。もう少しいきようという気持ちがあれば、病状も少し落ち着いてくるんじゃないかって。ベーカー先生は、本人がなんとかするしか無いって言ってたけど、本人がなんとかできないのであれば、周りの人が作ってやるべきじゃないかしら、きっかけを。」

トラーは、選挙演説する人みたいに、そんな事を言った。

「すごいわねえ、トラーちゃん。人のことをそうやって考えられるんだから。それはね、無駄に終わってしまうことが多いかもしれないけど、いつか報われる日も来るわよ。いいわねえ。そういう生き方。好きだなあ。」

洗濯物を畳んでいたシズさんが、にこやかに笑っていった。

「何が好きだなあだって?」

不意に、仕事から帰ってきたマークさんが、シズさんの発言を聞いてそういった。いつの間にかマークさんが帰宅する時刻になっていた。

「ああ、何でも、音楽会の演奏者を募集するはがきが来たんだって。それで、とらちゃんが、水穂さんを出演させてみたらどうか、と言い出したわけ。まあ確かに、水穂さんが動けないのは、精神的なものもかなりあると思うから、出演してもいいかなって僕も思うんだけど、せんぽくんは、反対みたいでね。」

杉ちゃんがすぐにそういった。杉ちゃんという人は、何でもありのままに口にしてしまうくせがある。しかも、嘘偽りはなく、本当の事を喋ってしまう。

「トラーが、水穂さんの事を考えるようになったのか。それだけでもすごい進歩だなあ。今までは、自分のことばかり口にして、自分はだめだだめだばかり言っていたのに、どうして他人のことで悩むことができるようになったんだろう。」

マークさんは感心したように言った。

「そんなことで感心しちゃだめですよ、お兄さん。それよりも、水穂さんの体の事を考えてあげて下さい。あんな体力の無い体で演奏なんかさせたら、可哀想ですよ。僕は、もう少し体力をつけてからのほうがいいと思います。」

すぐに反対意見をいうチボーくんであったが、

「いやあ、どうせさあ、日本ではどんなにうまい演奏をしても、同和地区のやつが弾いた演奏としか見られないよ。それなら、せっかくこっちにいるんだし、水穂さんの演奏を評価してもらえるんじゃないの?」

と、杉ちゃんが言った。

「あたしもそう思うなあ。もし水穂の体が心配だったら、チボーがバイオリンで一緒に出てあげればいいでしょう。チボーだって一応国立高等音楽院まで行ったんだから、水穂とは対等にやれるわよ。例えば、ベートーベンのクロイツェル・ソナタとか、そういうものをやればいいじゃない。」

杉ちゃんに続いて、トラーもそういうのであった。閉口したチボーくんは、

「い、いやあ、そうかも知れないけど、クロイツェル・ソナタは、偉大な音楽すぎて、簡単にとりあげられる曲じゃないよ。若造のくせに簡単に弾くななんていわれた事もあったんだから。」

と言ったのであるが、

「じゃあ、他の作曲家の曲をやればいいじゃないか。あるいは、歌をバイオリンとピアノでアレンジしてもいいじゃない?フニクリフニクラとか。」

杉ちゃんは明るく言った。

「そうですね。あれはちょっと明るすぎますよ。それに、あの曲を水穂さんがやれる体力がありますかね。」

チボーくんは悩ましく言った。

「じゃあ、他の歌にしよう。イタリア歌曲の簡単なやつでもいいや。とにかくね、水穂さんがもう一度演奏してくれたら、それはすごいことになると思うんだ。水穂さん本人が何よりも楽になると思う。日本では馬鹿にされて当たり前という身分だったのが、ヨーロッパに来れば、そうじゃないんだってわかってもらえば、彼の人生観も変わると思うんだよね。今回は出てもらおうよ。僕もとらちゃんも、それくらい水穂さんの事が好きなんだと思ってよ。」

杉ちゃんが、それを打ち消すように言う。それに加えてマークさんも、

「そうだねえ。お祭りも、最近は出てくれる人が少なすぎて、つまらないものになっていると、市役所の人に聞いたことがあるよ。それなら、水穂さんに出てもらっても良いと思うな。何かあったら、ベーカー先生かだれかに聞いてもらえばいい。」

と、言うのだった。

「お兄さん、もうちょっと水穂さんの事を考えてやってください。水穂さんは静養するために来ているんです。それなのにお祭りに出て、人前で演奏するなんてちょっと、ひどいのではありませんか?」

チボーくんは、ちょっと語勢を強くしていった。杉ちゃんが、

「いや、それを聞けば日本の人たちも喜ぶよ。」

と言い返すと、それまでウトウト眠っていた水穂さんが、目を覚ました。そして、

「いつあるんですか?」

と聞いた。

「一応、この葉書によると、二週間後だそうです。」

チボーくんが言うと、

「わかりました。出演してもいいですよ。でも、大曲は演奏できないと思うので、せめてリストの献呈とか、その程度にさせてください。」

水穂さんは、弱々しく言った。

「献呈ですか。大丈夫かな。数分で終わると言っても、あれは難曲でもありますよ。本当にできますかね?」

チボーくんが心配そうに言うと、

「ほんなら、バイオリンとピアノの二人で出ることにしよう。水穂さんがピアノ弾いて、チボーくんはバイオリンを弾く。譜面は、献呈の原曲はシューマンの君に捧ぐだから、それをつかえばいいんだ。良かったねえ。水穂さんが、また人前で演奏してくれて嬉しいよ。」

杉ちゃん一人、喜んでいた。

「私、申込先にメールしておくわ。水穂とチボーのアンサンブル、期待してますから。お祭りを盛り上げましょうね。」

トラーまでそういう事を言っている。こうなってしまったら、出るしか無いのかなとチボーくんは、思ってしまった。

「まあなにかあったら、そのときになにかすればいいんだし。第一、事実は事実としてあるだけで、善も悪も上も下もないのさ。ただそれをどう見るかの違いしか無いよ。」

杉ちゃんがにこやかな顔をしてそう言っているのを、チボーくんは本当に杉ちゃんは明るいんだな、という顔で見ているのだった。みんながそんな話をしているのを、シズさんは、洗濯物をたたみながらそれを聞いていた。

「それじゃあ、お祭り当日に向けて頑張りましょうね。」

トラーの一言で話は決まった。

翌日、チボーくんと水穂さんは早速練習を始めた。場所は、チボーくんが調べた音楽スタジオであった。家から、歩いて5分程度のところにある、小さなスタジオであるが、ちゃんとグランドピアノもある。そんなところがいつの間にかオープンしていたなんて、チボーくんも調べるまで知らなかった。

水穂さんは、スタジオにあるグランドピアノで、献呈を演奏した。それはとても見事な演奏で、パリ国立高等音楽院を出たチボーくんも、敵わないなと思ってしまうほどであった。それくらい、水穂さんが、演奏に真摯に取り組んでいたということだろう。でも同時に、これほどすごい演奏をすれば、体を壊しても仕方ないと思わせるようなところもあった。大体の人はそんな事、気がつくはずないと思うけど。

その次に、チボーくんは、バイオリンを出して、献呈の原曲であるシューマンの君に捧ぐを演奏したのであるが、自分の明るすぎる音色のバイオリンと、水穂さんのやや哀愁を帯びたピアノは合わないなと思った。それはもしかしたら、日本人とフランス人の国家的な違いなのかもしれないが。最も、聞いているだけの杉ちゃんやトラーは全く気にせず二人の演奏を楽しんで聞いているようであったけれど。

考えすぎかな、とチボーくんは思った。そんな事考えないで、お祭りで聞いてくれる人が、喜んでくれれば良いやと思い直した。

それから数日たった。いつもどおり練習にいこうと、チボーくんは水穂さんを訪ねた。いつもどおり、インターフォンを押して、スタジオに行きましょうよ、と声をかけたが返事はない。玄関ドアを開けてみると、聞こえてきたのは、水穂さんが激しく咳き込む声と、トラーが、

「水穂しっかりして!目を閉じちゃだめ!」

と言っている声だった。チボーくんは急いで部屋に飛び込んだ。マークさんは仕事にいってしまったようで姿がなかった。部屋の入口では、シズさんが電話をかけようとして、固定電話を動かそうとしているのであったが、年をとっていて、目が悪いのか、番号がよくわからない様子だった。チボーくんは受話器をひったくって、すぐにベーカー先生に電話した。

ベーカー先生はすぐに来てくれた。ベーカー先生からもらった薬を飲むと、水穂さんはやっと楽になってくれて、ウトウト眠りだしてくれたのであるが、ベーカー先生は強烈な怒り文句を残して帰っていった。

「おい、ベーカー先生はなんて?」

杉ちゃんが聞くと、

「いやあね、無理をし過ぎだってさ。こんなに無理をさせてどうするんだというくらい悪いらしいよ。水穂さん。」

チボーくんは、通訳した。

「あーあ、お祭りに出てもらいたかったなあ。あたしはただ、目的があれば、もう少し水穂も良くなってくれるかなと思って、申し込んだのよ。」

トラーは悲しそうに言った。

「あれ、取り消しできないのよね。取り消すんだったら市役所にお金を払わなきゃならなくなるわ。」

「ああ、違約金を払うのね。それもまた大金せびられちゃうな。」

杉ちゃんだけがいつもと変わらなかった。

「まあ、とりあえず支払うか、代演を頼むかどっちかだな。」

「杉ちゃん本当に明るいですね。どうしてそんなに明るいんですか?水穂さんが悪くなったことへの責任とか、謝罪とか、そういうことは考えないんですか?」

チボーくんは思わず言った。

「そんな事して何になるのさ。余分な事考えてたら、頭がパンクしちまうよ。それよりも、やったことに対して、どうするかを考えることだろ?」

杉ちゃんにいわれて、チボーくんは、そうですが、としか言うことはできなかった。

と、其時だった。

女性の歌声が部屋中に響き渡った。ベルカントとはまた違う、真っ直ぐな歌声だけど、たしかに君に捧ぐを歌っているのである。近くに居たトラーは、泣いているので歌っては居ない。歌っていたのは、先程、水穂さんが咳き込んだときに吐いた吐瀉物で汚れた枕カバーを洗おうと、洗濯機を回しているシズさんだった。

「シズさん、歌上手いな。歌手になれそうだな。」

杉ちゃんがうまいほど、シズさんはうまかった。

「それなら、シズさんが代演したらどう?きっと大受けすると思うよ。」

とはいっても、チボーくんは、それが単に歌がうまいと言うことだけではなく、ロマに特有の強弱激しく、いわばオーバーアクションをする習慣に基づいてそう聞こえるんだと言いたかったが、

「そうよ、それがいいわ!シズさんとチボーと二人で出てよ。大金を払うよりも、こっちのほうがいいわよ。」

と、トラーがそういったため、その発言はできなかった。それでも、シズさんのような人が歌なんか歌ったら、多分みんなから馬鹿にされるだけで何も受けないと言いたかったチボーくんだったが、

「こっちは、水穂さんが、同和地区の出身でも馬鹿にされることは無いんだからな。」

と、杉ちゃんにいわれて、それもいえなかった。とにかく本番までもう日がないので、チボーくんはカバンの中から、君に捧ぐの楽譜をシズさんに渡した。楽譜は読めるのか心配だったが、シズさんは、君に捧ぐのメロディを覚えてしまっているようで、スラスラと歌いだしてしまうのであった。確かに、声量は、おばあさんとはわからないほどあるのだが、それは多分きっと、普通の人ではなくて、ロマであったからできるのだと思う。さらにチボーくんは、水穂さんのピアノをスマートフォンにこっそり録音してあったから、ピアノ伴奏をそれで流すことで決着がついた。

「良かったな。こういうふうに僕達ができることは、あったことに対して、何ができるかを考えることだけだ。それに感情を入れる必要もないし、善だとか、悪だとか、そういう事を、入れる必要もないの。それさえやってれば、それでいいんだ。ははは。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。チボーくんもトラーも、そうするしか無いと思った。シズさんは、年長者らしく、何もいわなかった。

そして、本番当日。

その日はよく晴れた。公演の広場に設けられたステージで、シズさんは、胸や尻を強調させたロマらしい格好をして、チボーくんと一緒にステージにたった。スタッフが、お願いしていた音源を流すと、シズさんは、いい声で歌い始めた。チボーくんにも、聞こえてきた。公演でお祭りに参加している観客たちの中には、おい、ロマのばあさんが、君に捧ぐを歌っている、変なやつだな、と言っているのが。確かに、聞こえてくる。ひょっとすると、水穂さんも、こういう事を日本でそう言われてきたのかな、とチボーくんはこっそり思った。それが毎回毎回であれば、水穂さんも大変だっただろうなと、思った。そして今自分にできることは、シズさんの歌を一生懸命盛り上げてやることではないか、と思った。きっと杉ちゃん流に考えれば、事実に対してどうすればいいかを考えればいい、であるが、それはちょっとむずかしいから、シズさんの歌を盛り上げよう。そういうわけでチボーくんは、譜面に書いていない、リストのアルペジオをバイオリンで弾いた。そうしてあげるのが、自分にできることだと思った。

この歌は、たしかにピアノで弾くとものすごい盛り上がるのであるが、もともとは、歌曲集の一部であるので、さほど盛り上がりは必要ではなかった。数分でシズさんの歌は終わってしまった。やっぱり、観客はチボーくんが予想したとおり、拍手も殆どなかった。それで当たり前なのよ、とシズさんは小さく呟いた。チボーくんは、それでもシズさんよくやってくれた、と、拍手を送りたかった。

二人が、ステージを降りても何も起きなかった。あれだけうまく歌えたら、シズさんに拍手をくれてもいいのになと、チボーくんは思ったのであるが、だれも声はかけなかった。それにちょっと、チボーくんは憤ったが、シズさんが小さい声で、

「いいのよ。それで当たり前なんだから。」

と、言った。

「でも、悔しいですよ。シズさん。」

と、チボーくんは思わず本音を漏らすのだが、シズさんは、

「いいのよ。」

しかいわなかった。そしてすぐに、

「帰りましょう。洗濯物とお掃除が残っているわ。」

と言ったので、他の人の演奏を聞くこともなく、二人は、モーム家に帰った。あのときベーカー先生が、誰か一人は、水穂さんのそばに居て、容態を観察するようにと言っていたため、杉ちゃんはモーム家に残っていた。トラーは、自分のしたことが失敗に終わったので、また落ち込んで部屋から出てこなかった。

二人が玄関のドアを開けると、

「おかえり!うまく歌えたかい?いま、カレーライス作ってるんだ。一緒に食べようぜ。」

でかい声で杉ちゃんがそう言っているのが見えた。その脇には、まだ泣き虫のトラーが、杉ちゃんの指導を受けながら、カレーの鍋をかき回していた。

「ええ。」

チボーくんは、ちょっとため息を付いて答えた。

「まあ、色々あったけど、終わりよければすべてよしと言うことにしておきます。シズさんの歌はうまくいったんじゃないかな。」

「そうか、それは良かったな。」

杉ちゃんはにこやかに笑った。

「でもなんだか、常にからかわれたり、バカにされたりしなければならない人も居るんだなってことを知らされましたよ。」

チボーくんはそう言うと、

「まあ、そういうもんだよな。世の中ってさ、かっこよく陽の光にどうのと言うやつは、ほとんど居ないよ。まあ、そういうやつが支えてるって思えばそれでいいのかな。」

と、杉ちゃんがカラカラと笑った。

「そうですね。」

チボーくんは小さい声で呟いた。一方のシズさんは、さあお洗濯しなくちゃと言って、いつもどおりの作業を始めてしまった。





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