第50話 陰陽五行の理
紫乃の
「え?嘘……」
糸の切れた操り人形のようにぶらんと垂れた首。強く拘束され折れ曲がった手足。貫かれた胸部。矩明はピクリとも動かず、紫乃の呼び声にも反応しない。もう既に事切れているように見えた。
紫乃は、目を見開いて茫然と矩明を眺めるしかなかった。思考は停止し、ただ同じ言葉が脳内をぐるぐると回っている。あり得ないと。
紫乃を背に乗せたまま、ミカンはすぐに動ける体勢でじっとして動かない。毛を逆立てることもなく、主人に対して
時間が何倍にも引き延ばされたように感じる。冷や汗が頬を伝い、落ちた滴が橙色の毛を濡らす。どうすれば――交戦か退却か。その判断が、最早紫乃には出来なかった。
紫乃は、実際に矩明が術者や怨霊、妖怪と対峙した所を見たことがなかった。しかし、
抗う気力など、もう残っていない。これまでの出来事で疲弊した精神に追い打ちをかけるような師の無惨な姿。殻に籠る妖怪の醜い腕が、簡単に師の命を奪ってしまった。
壊死したかのようにくすんだ紫色の『ぬらりひょん』の掌。鉤爪のように折り曲げた指から滴る矩明の血……血?
紫乃は、ミカンの頭をよじ登って身を乗り出し『ぬらりひょん』の掌を凝視した。ぽたぽたと五本の指の間から滴り落ちる液体は――透明。
「血じゃ……ない?」
紫乃が呟くと同時に、上空に閃光が輝く。丁度『ぬらりひょん』が籠る
「符念解――
矩明の発令呪言に反応し、『ぬらりひょん』に拘束されていた矩明の身体が膨張し、勢い良く爆ぜた。
「そうか――式符を身代わりにして……」
爆ぜた矩明の身体を見て、紫乃は理解した。『ぬらりひょん』に拘束されていたものは矩明ではない。腕に拘束される前に式符で自身の身代わりとなる
今、矩明の身体であったものは無数の紙片となって空中で舞っている。桜吹雪にも似た舞い踊る紙片を、紫乃は呆気にとられたように眺めていた。
紙片は不規則に空中を漂っているように見えながら、確実に『ぬらりひょん』の伸びた腕、そして傀の殻に引き寄せられていた。細かい紙片がぺたぺたとそれらに付着すると、まず『ぬらりひょん』の腕から変化が起こった。
伸びきった『ぬらりひょん』の腕は、矩明の偽体を貫いた時に付いた水で濡れている。その腕に紙片が付着した瞬間、小さな芽が伸びた。
「
腕を覆うように芽吹くと驚くべき速度で成長し、針のように枝が伸びる。『ぬらりひょん』の腕の内側に根を張り巡らせているのか、バキバキ、グシャリと音を立てながら浸食し成長していく。その成長はほんの一瞬の出来事だった。なにせ、矩明はまだ空中にいる。瞬く間に『ぬらりひょん』の腕は針鼠のような状態となり、重さに耐えきれず地面に落ちた。
芽の侵食は止まらない。伸びた腕を伝って殻に籠る『ぬらりひょん』へと肉薄していく。枯渇した身体から限界まで養分を吸い取った芽は、枝のように細い幹となり青々とした葉を付けた。まるで一つの生命体かのような動きで、寄生した木は『ぬらりひょん』を飲み込もうとしていた。
火の付いた導火線のように腕を辿り、殻の隙間に芽の侵食が殺到する
そして、傀の殻へと落下しつつある矩明の前方に、五枚の式符が展開された。
「五行相生、
そう矩明が呟くと、五枚の式符の間を淡い光の筋が縫うように流れた。描き出されたのは五芒星。直後、五枚の式符が燃え上り、細かな火種となって傀の殻へと降り注ぐ。
パチパチと音を立てながら広範囲に撒かれた小さな火種は、
「ヴァーユ・プラーナ」
インド神話の風の神『ヴァーユ』。仏教に於いては風天と呼ばれる風神の名を口にした矩明の背後で、空気が揺らぎ風が渦巻く。
「あれが……風……?」
矩明の背後に薄い緑色の渦が見えた。その幻想的な光に吸い込まれるように、紫乃の眼は釘付けになって視線を外すことが出来ない。この時、紫乃の眼は風そのものを見ていた。
風はうねりながら更に勢いを増し、突風となって矩明の身体を押し出した。猛烈な風の力を受けた矩明は、火球と化した傀の殻へと一直線に降下し、燃え盛る炎を物ともせず突っ込んだ。
「っく……!」
衝突の衝撃は周囲にも波及し、猛烈な風が巻きあがり紫乃は顔を伏せた。非常に大型の猫であるミカンも、風に吹き飛ばされないよう足に力を入れ、野太い呻き声を上げて風が治まるのをじっと待っていた。
微かに発光する風が通り過ぎ、再び屋上は凪いで静まり返る。紫乃は、ミカンの大きな耳の間から顔を突き出し、目線を泳がせて屋上の全景を見渡した。かなりの暴風が吹き荒れたが、周囲は特に異常は無く先ほどと同じ景色が広がっている。
傀の殻は、あの暴風を受けても完全には火は消えず燻っているようで、殻の周囲を黒煙が漂っていた。
「だ、大丈夫?ミカン」
紫乃が身を乗り出してミカンの大きな双眸を覗き見ながら声を掛けると、ミカンは何ともない、というふうに気の抜けた鳴き声で応えた。ミカンの頭を二度三度撫で、その背から降りると、紫乃は恐る恐る黒煙を纏う殻へと近付いていく。
殻の上部には矩明が開けた穴がぽっかりと空いているが、その内部からの音沙汰はない。不気味なほどの静けさに自然と息を潜めてしまう。五メートルほど近づいた所で紫乃は立ち止まった。
矩明は?『ぬらりひょん』は?一体殻の中で何が起こっているのか。そう思いながら立ち尽くしていると、ふわりと穏やかな風が頬を撫でた。
「五行相剋、
「先生ッ」
不意に矩明の声が聞こえて、紫乃は応えるように叫んだ。直後、火に炙られ炭のように黒々とした殻の表面に亀裂が走った。たった一筋の亀裂から、枝分かれするように
「水の相生によって生み出された木は、根を張って養分を吸い上げ成長し、土を
崩れ去った殻の後には、こちらに背を向けて立つ矩明の姿があった。紫乃は、その背を食い入るように見つめ、その言葉を聞き漏らさぬよう耳を
「小さな火種は木を媒介として燃え上り、灼熱の炎となって金属を剋す」
矩明は振り返った。長い前髪が揺れ、隙間から淡い銀色の光を放つ瞳が見えている。穏やかな表情の矩明は微かに笑みを湛え、真っ直ぐに紫乃を見据えた。
「陰陽五行の理――万物を構成する元素の相生と相剋の関係、覚えておくと良い」
「……はい」
紫乃は、ただ小さく呟くことしか出来なかった。理を説く矩明に圧倒され、同時に陰陽師というものの本質、その断片に触れたような気がしたが全容に至ることは出来ず、思考の海に溺れてしまいそうな感覚に陥っていた。
「さて……」
矩明は、再び前に向き直ると足元を見下ろした。
「あっ……先生、捕らえたんですか?――これが……」
矩明の傍に駆け寄った紫乃が言葉を途切らせ、押し黙った。
矩明の足元で
「大人しくしてくれているよ。どうやら愉しんでくれたようだ」
「愉しんでって……妖怪がですか?」
「彼らにも喜怒哀楽はあるよ。一つの感情に引っ張られがちだけどね。
「……とてもそんな風には見えませんが」
紫乃は、矩明の背後から覗き見ながら、じっと座っている『ぬらりひょん』の様子を窺いながらそう言った。『ぬらりひょん』の表情に変化は見られない。険しい面持ちで、ただ真っ直ぐに一点を睨みつけている。こちらに襲い掛かってこないのが不思議なくらいだった。
「ハハッ。まだ外に慣れていないんだろう。シャイなんだよ」
紫乃の警戒をよそに、やはり矩明は涼しい顔で笑っている。一仕事終えた後の脱力感が滲み出ていた。
「……ま、まぁ良いです。でも先生、先輩は――姿が見当たりません」
紫乃がそう言うと、矩明は出し抜けに片膝をつき、『ぬらりひょん』の顔を覗き込んだ。
「ここにいるよ。なぁ?」
矩明は『ぬらりひょん』と目を合わせながら囁いた。
『――あぁ……這う……』
「しゃ、喋った……?」
紫乃は『ぬらりひょん』を食い入るように見つめた。表情を変えぬまま、罅割れた唇を動かし『ぬらりひょん』は口を開く。先ほど対峙した『七人ミサキ』は呻き声を上げるばかりだったが、『ぬらりひょん』の発した声は紛れもなく言葉だった。
「ん?」
『這う……這っておる……儂の中で……』
「何が?」
『這っておる……這っておる……あぁ……』
「君の中に何がいる?」
『おる……おるんじゃ……這って……這って……』
「……」
矩明が問い掛けるも、『ぬらりひょん』は同じことを呟くばかりだった。か細い老人のその声には不快感が滲み、表情とは裏腹にどこか怯えているように聞こえる。『ぬらりひょん』の訴えが解らず、紫乃は怪訝な顔で矩明を見遣った。
「先生、あの」
「あぁ。埒が明かない。これ以上は無駄か」
矩明は、線を引いたような『ぬらりひょん』の細い眼を覗き込みながら、溜息を吐くように言った。
「失礼、返してもらうよ――九十九君を」
矩明は、『ぬらりひょん』を気遣うようにそう言うと、大きく開けた袈裟の内側、肋骨が浮き出て影が落ちる胸元に手を差し入れた。
「せ、先生ッ?」
動揺する紫乃の声には答えず、矩明は『ぬらりひょん』の胸元で探るように手を動かしていたが、その動きが不意に止まった。そして、差し入れた手をゆっくりと引き抜いていく。
「えぇッ!?」
矩明が腕を引くと、『ぬらりひょん』の胸元から人の頭部が現れた。と言うよりも『ぬらりひょん』の身体の中から引っ張り出されたようだった。
まず、人間が胸元から引っ張り出されること自体有り得ないが、有り得たとしても『ぬらりひょん』の瘦せ細った小さな身体に人間が収まるわけがない。今までであれば、そう否定していただろう。しかし、
しかし、その驚愕はすぐに過ぎ去り、引き抜かれた者の顔を見て安堵感が胸に押し寄せた。
「九十九――先輩……!」
『ぬらりひょん』の中から姿を現わしたのは九十九だった。矩明は九十九の制服の襟首を掴み、その身体を引っ張り出すと、ゆっくりと横に寝かせた。紫乃は、すぐ傍まで駆け寄り膝を突くと九十九の身体を揺すり声を掛けた。
「先輩、先輩ッ!大丈夫ですか?先輩ッ」
九十九に意識は無く、紫乃の声にも反応しない。目を瞑り穏やかな表情を浮かべている。制服の右腕部分は破れ、伸びるのは二重螺旋の文様が刺青のように刻まれた生身の右腕。覆っていた金属はすっかり無くなっていた。身体に目立った外傷は見当たらないが、いくら声を掛けても目を覚ます様子はなかった。
「あ、あッ!先生ッ、先輩は……」
「少し落ち着こう、紫乃。大丈夫だ。身体に傷も無い。ただ眠っているだけさ――そうだろう?マロン」
「えッ……?」
紫乃は、困惑しながら矩明の目線の先、九十九へと顔を向ける。すると、九十九の腹の辺りが盛り上がり、もぞもぞと動き出した。そして、首の方へと移動したかと思うと、ワイシャツのボタン二つほど開いた襟の隙間から黒猫が顔を覗かせた。
「マロンッ!えッ、いつの間に!?」
紫乃が驚きの声を上げ顔を近付けると、マロンはしてやったり、とでも言いたげな表情でニャ、と短く鳴いた。
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