第49話 殻中の怪
ステップを踏み終えた直後から消えていく
「あ、わわッ!あぁッ――」
自分の身体が消えていくという視覚的な恐怖に慌てふためき、言葉にならない声をただ発していたが、とうとう口すらも消えて、声を出すことは出来なくなった。大きく見開いた目も消えたのか、一瞬にして暗幕が下りたように視界が闇に包まれた。
「うぅッ」
しかし、闇は瞬時にして晴れ、視界に光が広がっていく。余りの眩しさに眉根を寄せ、瞼を閉じ引き結んだ。目を瞑っていても分かるほどの光の強さ。この空間が地脈なのだろうか。
紫乃は恐る恐る目を開いた。そこに広がっていた光景に唖然とし、開いた目が更に大きく剥かれていく。
瞳に飛び込んできたのは、無数の光の粒。それが豪雨のように降り注いでいる。サングラスの遮光など意味を為さぬほどの光量。光速で流れているのか、こちらが超速度で移動しているのか、それは判然とせず解らない。
「……」
言葉を忘れ、息を吞みながら周囲を見遣った。
見渡す限り散りばめられた星々の如く光点が、どこまでも広がっている。そして、数え切れないほどの光の帯。四方八方に枝のように伸び、どこに繋がっているのか分からない。その帯の上を紫乃と矩明は流れていた。上下左右、どこを見ても光点と光の帯しかない。人工物など存在しない、
紫乃は、矩明を見た。その横顔に表情はないが、どこか厳粛な面持ちだった。紫乃を抱えながら言葉なく、ただ帯が伸びる先を見据えている。紫乃は、矩明を一瞥して視線から外し、再び煌々とした世界に魅入った。
その時、不意に視界が揺らいだ。酩酊にも似た不快感に襲われる。視界を駆け巡る光の粒。天地が分からぬ世界。脳を掻き回されているような未知の感覚に朦朧とし、意識はブラックアウトしたかのように途切れた。
「紫乃」
「――はッ」
掛けられた声に意識を取り戻し、目を見開いた。
陽の暖かさは感じるものの、暗いフィルターを掛けたかのような色褪せた空が頭上に広がっている。下を見ると無数の
「えぇッ!」
真上から俯瞰した光景に驚きの声を上げた。光が支配する世界を抜けた紫乃と矩明は、学校の上空に投げ出されていた。屋上には、赤黒い傀の大群が
「せせせ、先生ッ!落ちてます!落ちいぃ!」
「フフッ、ハハハッ。面白いね、紫乃は」
「笑ってないで……た、た、助けてぇッー!」
柄にもなく声を張り上げて騒ぐ紫乃をよそに、涼しげな顔でにこやかに微笑んでいる矩明。紫乃は、そんな矩明を恨めしく思いながら、屋上を所狭しと埋める傀を、目に涙を浮かべて見つめていた。その下にはコンクリートの屋上スラブがある。見てはいけないと分かっていても目を反らすことが出来ない。傀という呪の大群に飲み込まれるよりも、現実味のある激突死の方が何倍も恐怖を感じていた。恐らく、地面までの距離は一〇メートル程度だろうか。即死出来ればいいが、良くても重傷は免れない。落下速度の衝撃、全身打撲、骨折……想像もつかないほど、それはかなり、痛い。
「い、いひいぃぃッ!――えっ?」
一瞬、紫乃の思考が止まった。突然、腰にあった矩明の腕の感触が無くなったのだ。そして、少し進路を変えて斜め下に落下している。
そんな、まさか……。紫乃は、尋常ではないスピードで上空を振り返った。そこには、先ほどと同じように微笑む手ぶらの矩明の姿。大きく目を見開く紫乃。矩明は紫乃を放り投げていた。
「う、嘘でしょぉーッ!――この、バカァアーッ!」
遠ざかる師に力の限り叫びながら、紫乃は落ちていく。
「ビョウ――ミカン、主人を受け止めてくれ」
矩明の言葉に呼応して、紫乃の背後の空間がノイズが走ったように歪んだ。次の瞬間には、丸々と大きく肥えた猫が出現した。橙縞模様の毛並み。きりっとした目つき。
「ぁあああーッ……ぶふぅッ」
ミカンの柔らかな毛に紫乃の身体は包まれ、落下の衝撃は背にも付いた分厚い脂肪が吸収した。長い毛をかき分けて紫乃が顔を上げると、鋭い表情のミカンと目が合った。ミカンは「にゃあう」と太く鳴くと、首を伸ばして顔を擦り付けてくる。
「あ、あぁ……ミカン~ッ」
紫乃は、ミカンの額に顔を埋めて柔らかな毛を優しく撫で付けた。
ミカンの上で泣きじゃくる紫乃を一瞥して、空中の矩明は真下にひしめく傀に視線を向けた。
眼下の光景を目の当たりにしても、矩明の表情は崩れない。しかし、さながら蜜に群がる蟲を想起させる傀の群れは、本能的な嫌悪感を呼び起こす。
矩明は、素早く印を結び真言を詠唱した。印形は五大明王の一尊、悪霊怨敵浄化の金剛夜叉明王印。
「阿、祝、巨、禺――四海の大神、百鬼凶災を祓え」
詠唱の直後、一拍の間を置いて柔らかな風が矩明の下から吹いたかと思うと、その風に当てられた傀が膨張しパン、と音を立てて破裂した。手前から奥へと風は吹き、その風に触れた傀は、同じように弾け消滅していく。そうして、粗方屋上の傀が消滅すると、静かに風も消えた。傀が消えた後には、ムラのある灰色のコンクリートが露出していた。
矩明は、軽やかに着地し、ツンとした表情のミカンの背にちょこんと乗る紫乃に向き直った。
「いつ見てもミカンは柔らかそうだなぁ。僕もその背中で寝てみたいもんだよ」
「もおおぉッ!先生、何なんですか!いきなり投げるなんてあり得ないですッ!本当に死ぬかと思いましたよッ!」
ミカンの背から飛び降りて、紫乃は矩明に駆け寄った。
「いや、手が使えないと思って……」
「ひ・と・こ・え!掛けてくれたらいいじゃないですか!いつも急なんです、先生はッ」
「ご、ごめん……気を付けるよ」
詰め寄る紫乃の形相に若干引きながら、矩明は語気弱く謝罪した。
「まあ、一先ず落ち着いて。先に九十九君だ」
「先生。まだあそこに傀が……何ですかね、あれは。寄り集まって……殻みたいに」
二人が視線を向ける先、屋上出入口の扉の前に傀が集まり、球状を形作っていた。矩明の術を耐え凌いだ僅かな傀の群れは微動だにせず、まるで
「紫乃、良く見てごらん」
「え?……ッ!中に……人が」
目を凝らして見てみると、赤黒い球体の表面に僅かに亀裂が走っていた。その亀裂がボロボロと剥がれ、広がっていく。開いた亀裂の奥、球体の中に何者かがいる。
「お、おじいさん……?」
そこにいたのは、高齢の老人だった。しかし、ただの老人とは思えない。余りにも歳を取り過ぎているように見えた。
着ている袈裟は、所々破れ酷く傷み、遠目から見ても汚れが目立つ。大きく
「纏めて修祓してしまおうと思ったんだが……うん。中々の邪気だ」
「人……ではないですよね?」
「あぁ。妖怪だよ。聞いたことあると思う――ぬらりひょん」
「ぬらりひょん!?大勢の妖怪を引き連れてって言う……あの?」
身体を強張らせる紫乃に、矩明は薄く笑って応えた。
「妖怪の総大将とかってね。実際は違う。ただ民家に上がり込んで、その家族の一員かのように振舞って、時々小さな悪戯をする――物をどこかに隠したりとかね。そこら中に良くいる、本来はありふれた存在なんだ」
「……でも、とてもそんな風には……
傀の殻の内側からこちらを覗き見る妖怪は、矩明の言う『ぬらりひょん』からかけ離れているように見える。漂わせている空気、屍人のような姿、怒気と殺意の滲む面差し――人にとって無害な、和魂とは程遠い存在であると思う他なかった。
「和魂と
紫乃に話しながら、矩明は閉じ籠るぬらりひょんから視線を外さず、じっと見据えている。その眼から表情を窺うことは出来ない。ただ、灰色の眼が先ほどより強く、妖しい光を放っていた。
「ただ……その要因が問題でね。些か、怨念が強すぎるな。一体、何を抱え込んでいるのか――ミカンッ」
突然、矩明が識神の名を叫んだ。彼には珍しく、その声には多少の緊張の色が含まれていた。
「えッ――ひゃあ!」
矩明の声に戸惑っていると、後方に強く引っ張られ、紫乃は短く叫ぶ。咄嗟に振り返ると、視界に飛び込んできたのは縦長の大きな瞳孔。ミカンが紫乃の襟首を咥え込んでいた。ミカンは、そのまま紫乃を持ち上げると、首を真上に勢い良く振り上げた。
「うひいぃぃーッ……」
真上に投げ出された紫乃は、空中で一回転してミカンの背中に座り込むように着地した。着地したと同時にミカンは跳躍、紫乃は振り落とされまいと必死に毛を掴む。最早、半泣きになりながらその揺れに耐えていた。
「ミカン!もっと優しく!私、人形じゃないの!分かるッ!?」
動きを止めたのを確認して、背をよじ登りミカンの狭い額をピシピシと
「もう……あっ、先生ッ」
紫乃は、はっとしてミカンから視線を外し、矩明を探した。
位置を確認すると、紫乃とミカンは先ほどの位置よりもかなり後方にいた。ぬらりひょんが籠る傀の殻の対角、端のフェンスまで後退している。矩明は、紫乃を遠ざけるようにミカンに命令したのだろう。その矩明は、先ほどと同じ位置で紫乃に背を向けて立っている。しかし、その背を見た瞬間に顔が青ざめていく。
「先生ッ!」
矩明の姿に、紫乃は反射的に叫んでいた。
矩明の身体を縛るように、複数の手が絡みついている。余程強く縛られているのか、腕が
その光景に瞳が揺らぎ、視界が揺れた。紫乃は、全身の血液が急激に冷めていく感覚を覚えていた。
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