第51話 回生の魂

 濁っている。何だろう、あの色は――。

 白檀紫乃びゃくだんしの識神しきじんである黒猫マロンは、暗室のような不気味な明かりに照らされた廊下の片隅にちょこんと座り、目の前の光景をただ眺めていた。

 巨大な赤ん坊に投げ飛ばされ壁に激突し、瀕死の状態であった主人の友達――主人は『九十九つくも』と呼んでいたか――は、その姿を変えたかと思うと瞬く間に式神を蹂躙した。形勢は逆転し、式神は床を這いつくばって、立つのは九十九のみである。

 倒れた複数の式神は、九十九の足に追い縋るが、その手は無下に蹴り払われた。終わったか――と思ったのも束の間、九十九は突然苦しみ出し雄叫びを上げ始めたのだ。次から次へと忙しい人間だ、と呆れ顔でその様子を見続けた。

 何かから逃れようとでもしているかのように、藻掻きながら絶叫する九十九。その叫び声が狭い廊下を反響していた。

 傍らで尻もちをつく主人は、どうすることも出来ず、目を見開いて呆然としている。主人がそうしてくれていて助かった。近付くのは危険だ。魂が可笑しな、、、、色をしている。

 人間の魂の色ではない。堰き止められ停滞した川の水のような濁り。まだ妖の類の方が澄んでいる。深く、濃く、何かが魂を掻き乱しているようだ。それなりに永く現世ここにいるが、こんな色は見たことがなかった。この魂がこの後どうなるかは解らない。ただ静観しているしかなかった。

 俺の身体を……代わりに……使わせろッ!――。

 不意に声が聞こえて、二つの尖った耳が忙しなく動いた。  

 徹底的に戦うッ!……死んだ方が……――。

 小さな耳はきょろきょろと動いて拡散する音を集約していく。

 がたがた抵抗してねぇでッ!俺の身体の隅で大人しくしてやがれえぇぇ!――。

 はっきりと聞こえたその叫びにマロンは目を見開く。九十九の声。まだ自我がある。魂を掻き乱し、侵食する何かとせめぎ合い闘っている。マロンは何かに突き動かされたかのように静かに立ち上がった。

 それは、ただの気まぐれな好奇心だ。もう少し近くで見たいと、そう思っただけだ。もし、干渉出来れば――あわよくば濁りを取り除ければ、正気に戻せるかもしれない。そうすれば主人は泣いて喜ぶだろう。そうに違いない。

 マロンは、そんな好奇心と主人への淡い期待を抱いて、そっと背後から忍び寄り九十九の懐へと潜り込んだ。

 程無くして、九十九の右腕は壁を切り裂き、酷く悍ましい呻き声の合唱と共に殺到する傀の群れに、九十九とマロンは包まれ飲み込まれた。


    ◇


「ずっと先輩の傍にいたの?マロン」

 横たわる九十九の首元から這い出たマロンは、主人である紫乃の声を無視して地面に座ると、身体を震わせて嘔吐えずきだした。

「えッ、ど、どうしたのマロン!大丈夫ッ?」

 紫乃は、マロンの傍に駆け寄り蹲ると、その背を優しくさすった。表情には動揺の色が広がっている。

 マロンは、何度か苦しそうに嘔吐き唾を滴らせていたが、一際大きく咳き込むと小さな固形物を吐き出した。

「これは……なに」

 紫乃は、さする手を止めて口から吐き出された物を怪訝な顔でまじまじと凝視した。

 地面に落ちたそれは親指ほどの大きさで、一見球状のビー玉のようだが、良く見ると表面には細かな凹凸があり鉱石のようでもあった。透明度が高く、周囲の光を反射してまばゆく輝いている。しかし、その透明度の高い表面に覆われた内側は灰色で、時折白や黒に色を変化させながら、まるでガスのように流動しているようだった。紫乃達の頭上に広がる暗雲を閉じ込めたような、目を奪われるほど怪奇な石だった。

「触れないようにね、紫乃。瘴気しょうきの塊だから」

「瘴気ッ!?」

 矩明かねあきの言葉を聞いた紫乃は、咄嗟に顔を引くと青い顔で振り返り矩明を見上げた。

「傀の大群に包まれた際に身体を汚染したものだろう。マロンが吸い上げてくれていたんだね」

「そ、そんなことが……」

 言いながら紫乃は、足元にいるマロンの方へ顔を落とした。目を向けられたマロンは、石を吐き、すっきりした様子で身体を伸ばしたり後ろ肢で耳を掻いたりと、もう随分とリラックスしてしまっていた。

「マロンのような和魂にぎたま猫鬼びょうきは、人間の厄を祓ってくれることがままある。主人である紫乃の厄も、知らず知らず祓ってくれている筈だよ。本来、妖怪という存在は人間にとって有益な働きをするものなんだけど……まあ、マロンが主人である紫乃の元を勝手に離れ、なぜ九十九君の傍にいたのかは解らないが」

 普段、マロンは実体化せずとも常に紫乃の傍にいる。紫乃には、マロンの他にミカンとあと数匹の識神がいるが、それら識神は通常幽世かくりよにいて、使役者の呼び掛けに応じて現世に姿を現わす。しかし、マロンは違い、ほとんどを現世で過ごしていた。人よりもよっぽど多くの時間を共に過ごしているはずなのに、主人である筈なのに、マロンがもたらしてくれている加護に気付けなかった。紫乃は複雑な思いを抱えて、マロンをそっと抱きかかえた。

「そっか……護ってくれてたんだね。ありがとう、マロン」

 紫乃がマロンに顔を寄せると、マロンは心地よさげに喉を鳴らし、紫乃の頬をそっと舐めた。首から下げた鈴が揺れ、耳障りの良い音が耳を打つ。

「紫乃――ほら」

「え?」

 矩明の方へ視線を向けた。矩明は顔を上げ、空を見上げている。同じように顔を上げると、そこには先ほどまで立ち込めていた灰色の雲がすっかり消え、澄んだ青空が広がっていた。太陽も顔を覗かせ、忘れかけていた陽光の暖かさに思わず相好を崩す。

「力尽きたか。幽世から現世へ引き戻された。今、此処は現実だ」

 話しながら紫乃の前を横切る矩明を目で追う。その先には、沈黙したまま静止した『ぬらりひょん』がいる。

 胡坐を掻き座るぬらりひょんは、少し目を離した間に完全に生気を失っていた。元から痩せ細り摩耗した老人の身体は、今や干乾びて枯れ果てている。象皮のようであった肌の罅割れはさらに細かく増え、まるで乾いた土で作った精巧な人形のようだ。抉られたような眼窩がんかには深い影が落ち、そこにある筈の瞳を覆い隠していた。矩明の言葉の通り力尽き、もう動くことは無いだろう。紫乃は顔を落とし、ぬらりひょんから目線を外した。

「先生……その、死んだ……んですか?」

「あぁ。死んだ――だが生きている」

 矩明はそう言うと、ぬらりひょんの額にそっと触れた。

 すると、途端にぬらりひょんの額に空洞が空き、身体が崩れ出した。矩明が触れた部分から、徐々に音も無く崩れてゆく。ぬらりひょんの身体は砂のような、或いは灰のような、細かな粉末となって地面へ積もって、跡形もなく消えた。紫乃は、どこかもの悲しさを感じながらその光景を眺めていた。

「妖怪に死という概念は無い。霊とは違い、元が人ではないから……では何か、と言われると難しいんだが――実体があって触れることも出来るが、生物の枠組みから大きく外れた、抽象的な存在だ。敢えて言えば――魂が摩滅まめつし、存在が維持できなくなったこの瞬間が、彼らにとっての死ということになるんだろう」

 積もりゆく、ぬらりひょんであったものを見る矩明に表情は無く、ただ紫乃に言い聞かせるように淡々と口を開く。

「だが、消えて無くなった訳じゃない。身体を失っただけ。その魂は回生し、再び現世と幽世を巡る。環のように繰り返しているんだよ。何度も、何度もね。だから、また何処かで遇うこともあるかも知れない」

 矩明は、喋りながら人差し指で円を描く。その指を目で追いながら、紫乃は黙って矩明の話を聞いていた。

 円環の如くループする魂。そのループには終わりは無いと云う。成仏することも無く、生まれ変わり――転生することも無い。ただ己を繰り返す。それが紫乃には恐ろしく、虚しく思えた。記憶を保持しているかどうかは解らない。もし、引き継いでるとしたら、人には耐えられないだろう。しかし所詮、人間である紫乃の尺度に依る考えに過ぎず、実際の所は知り様もない。

 不意に、マロンが喉を鳴らしながら頭を擦り寄せてきた。焦げ茶色の瞳と目が合う。この子達も同じなのだろうか。そんなことを思いながら、小さな頭を包むように優しく撫でた。

「さて、ぬらりひょんが消えたと同時に結界が解けたようだ。そろそろ彼を連れて帰ろうか、紫乃。ミカンも退屈そうにしていることだし」

「え?――アハハッ。そうですね。すごくつまらなそうな顔」

 矩明の視線の先を追って振り返ると、後ろで忘れられたミカンが不機嫌そうに仏頂面を浮かべている。その不細工だが、どこか愛らしさを感じさせる表情に思わず吹き出す。

「あッ……でもまだ昼なんですよね。まだ授業が……」

 かいに覆われた校舎の中の時間は止まっていた。ただでさえ薄暗い空間に長くいたせいか、時間の感覚が完全に狂ってしまった。しかし、校舎に異変が起きる前はまだ昼下がりで、今も太陽はほぼ真上に位置している。つまり、これから午後の授業が控えているのだ。

「かなり疲れてるように見えるけど?そんな状態で席に着いても、すぐ寝てしまうだろうな。今日は早退してしまえば良い」

「先生……不良ですね」

「君の身体を思って言っているんだよ、僕は。彼のことも気になるだろう」

 矩明を半眼で睨むも、いつも通りの涼しい顔で言い返されてしまった。

 九十九は目を覚まさない。矩明は問題ないと云っていたが、本当に異常は無いのだろうか。確かに矩明の言う通り、授業よりも九十九の状態に気が回ってしまっている。紫乃自身の身体の疲労も自覚するほど大きかった。今日は仕方がない、そう自分に言い聞かせることにした。

「解りました。午後は休みます」

「良し。ほら、紫乃。掴まって」

 矩明は、九十九を肩で抱えながら紫乃に言った。

「え……帰りは……」

「もちろん地脈を通る。騒ぎになるに決まってるし」

「えぇ……」

 紫乃は青い顔をして項垂れた。

「さぁ、帰ろう。暦天堂に」


    ◇


「おいおいおい。全滅だよ。どうなってんのこれ」

 男が舌打ちをしながら、不意に口を開いた。誰に向けられたものかは解らない。声色は不満気であり非難染みているが、何処か他人事のようにも聞こえた。 

 閑散とした雑居ビルの一室。オフィスとして使われていただろうその部屋には、椅子を一つ残して他には何も無かった。照明も点けられていない。外から差す陽の光が、辛うじて部屋の中程までを照らしている。そこは使われなくなって久しい空きテナントだった。

 そのがらんとした室内に三人の男女がいた。一人は、日が差す窓際に立ち外を眺めている男。もう一人は、少し離れた男の背後、日差しの途切れた薄闇の中、部屋にただ一つ残された椅子に足を組んで座る女。そして三人目は、出入口の扉すぐ横の壁にもたれ掛かり、腕を組みながら俯く者。

「白川に指示を出したのはあんたでしょ?式神に荒魂まで持ち出してこのザマは何よ」

 窓際の男に声を返したのは、椅子に座る女だった。低音の、纏わりつくような艶のある声だが、その口ぶりはぞんざいで、気怠さを隠そうともしていない。

 胸元にフリルがあしらわれた白のブラウス。黒のタイトスカートにハイヒール。全体的にシックな装いだが、ブラウスの胸元は大きく開いて谷間を覗かせ、抉ったようなタイトスカートのスリットから程良く肉の付いた脚がすらりと伸びている。椅子に座っているだけだというのに、その佇まいはどこかなまめかしく、女からは煽情的な空気が放たれていた。

「ハハッ、派手に行こうと思っただけだよ。てか、ガキ一匹捕まえるだけだぜ?しくじるとは思わないだろ。やっぱちょっと素質ある程度の奴じゃ駄目だな」

 窓際の男は、振り返って女と顔を合わせた。

 男は、華奢な体付きで胸は板のように薄く、四肢は棒のように細い。さらに肌は異常ほど白かった。病的とも言える身体だが、身に着けるのは目が眩むほどの色を多用したエキゾチックな柄シャツに細身の革のパンツと蛇柄の革靴。さらに、ツイストパーマをかけた髪はくどいほどの濃い金色に染め上げられている。妖しさと不気味さが同居した、まるで白蛇のような印象の男だった。

「でもまあ、収穫もあったじゃん?あのガキは本物だったし、『陰陽師』も見れたし」

「面倒な相手ってのが解っただけよ」

 吐き捨てるような女のつれない声を聞いた男は首を竦めた。

「ここから殺してしまえば良かったものを」

 男は、声の方を見遣った。椅子に座る女の向こう側、出入口に近い壁に寄り掛かる者が、二人に鋭い視線を向けている。

 殺気を放つその者の姿は、他の二人とはまるで違っていた。朱色の直垂ひたたれに左腕の籠手。腰につけた脇楯わきだて臑当すねあてつらぬき。背から伸びる煤けた銃身――戦装束を身に纏うその者は、現代人ではなく、過去を生きていた者だった。

 顔には怒り顔の面頬、烈勢面を被り、目元以外は覆われて容貌を窺い知ることは出来ない。しかし、その者の口から発せられたのは女の声だった。

「はぁ?あんたのそのガラクタで?勘弁してくれよ。そもそも、今さっきまで結界が張られてたんだ。中の様子も見えてねぇだろ」

「ふん。存在が消えたわけでもあるまい。くだらんまやかしだ」

 鉄砲を背負った女は、にべもなくそう言うと部屋を後にした。

「チッ、おいッ。ちょっと待てや――クソッ」

 出て行った女に怒鳴りながら、男も後を追って部屋を出た。

 一人取り残された女は、背もたれに頭を預け、暫しぼんやりと表情無く中空を眺めて、ぼそりと呟いた。

「本当、面倒ね……」

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