第38話 再燃の拳

「もう話している時間は無さそうです。私が……私が式の相手をします」

 紫乃は、はっきりとそう言い放った。その声は力強くもあり、どこか思いつめたようにも聞こえた。しかし、その言葉の中に有無を言わさず、という決心めいたものが含まれているのを感じ取って、九十九も表情を硬くした。

「……やれるのか?」

 九十九は、声を低くして言った。

 紫乃の言う通り、確かに時間が無い。黒猫マロンの鳴き声による牽制も、そう長くは持たないだろう。教室の戸に施した呪術も簡易的なものと紫乃は言っていた。敵の式神は六体いるのだ。それらが、戸を一斉に壊しに掛かったら一溜まりもないのではないか。どう足掻いても避けられない。いくら先延ばしにしようが、戦うことは必至である。そうなると……必然的に紫乃の呪術に頼らざるを得ない。

 九十九の問いを聞いた紫乃は、懐から一枚の呪符を取り出し、それを机の上に置いた。

「これは?」

鬼字きじかご』の呪符です。籠――読んで字の如く呪詛の檻を形成します。一枚でも機能しますが、芒星陣ぼうせいじんを敷き、複数枚配置することで、より大きく強固な檻を生み出すことが出来ます」

「檻って……そんなことも出来んのか」

 机に置かれた呪符を、眉をひそめて見つめた。驚きと共にどこか空恐ろしさを感じていた。これでは、いよいよフィクションの魔法と違わない。

 もやの異形を吹き飛ばした呪符、教室の戸に障壁を展開した呪符の次は檻の呪符だ。紫乃が扱う鬼字の呪符とは、紙に書き込まれる字次第でかなり応用が利く代物らしい。

「……ははは……扱えるようになるまで大変でした……」

 紫乃は、乾いた笑い声を上げ、引き攣った表情を浮かべた。

「これで……使役者と式神をまとめて捕らえます」

 机の上の呪符に人差し指を突き立てて、はっきりとした声音で言い放った。

「……この教室に檻――トラップを仕掛けるわけだな」

 九十九は教室全体を見渡しながら言った。

「はい。どの道、この幻界の中で逃げ続けることは出来ませんから……」

「捕まえた後はどうする?」

「あの男の人――使役者にこの幻界を創り出している術者の元への行き方を聞き出します」

「……そうか。あのロン毛野郎なら二階と三階から抜け出す方法を知ってるか」

「はい。でなければ、幻界が解けたら騒ぎになりますからね」

 この空間では、階段をどれだけ昇ろうが三階、どれだけ下りようが二階しか辿り着けない。しかし、九十九を捕らえようとしていたあの男なら、この摩訶不思議な空間を脱出する術を知っているはずだ。

「とにかく術者をどうにかしない限り、この幻界からは抜け出せません。それから……使役者を無力化。それでも式神が還らないようであれば……修祓しゅうふつを試みます」

「しゅ、しゅうふつ……?」

 九十九は、聞き慣れない言葉を繰り返した。

「不浄なるものを祓い清め、霊体であれば幽世へ還します」

「な、なるほど……」

 確かにそれが最善手かもしれない、と九十九は思った。

 校舎から抜け出す為には、この校舎に呪術を掛けている者を探し出さなければならない。その為には、あの長髪の男から術者の居場所と、そこへの行き方を吐かせる必要がある。紫乃の陰陽師としての力があればそれが可能に思えた。

 しかし、そうするしかないという思いとは裏腹に、一抹の不安を感じた。

「でも……あんな式神は見たことない、って言ってたよな?大丈夫なのか?」

 本当に上手くいくのだろうか、という不安がどうしても拭えない。

「……私程度じゃ、信用無いかもしれないですけど――」

「そうじゃない」

 紫乃は、弱々しく細い声で自嘲的に話すが、九十九は言い終わらない内に遮って否定した。

「じゃあ……心配してくれるんですか」

「……そうだな。心配してる」

 紫乃の能力を疑っているわけではない。紫乃がいなければ、靄の異形に襲われ、どうなっていたかも分からないし、今頃とっくに捕まっていたはずだ。だが、敵の式神の力は未知数。あの男も無抵抗というわけにはいかないだろう。もし、紫乃に何かあったら……

 その九十九の不安を打ち消すように、紫乃は柔らかに笑った。

「嬉しいです。でも、大丈夫です。見習いでも……陰陽師ですから」

 静かで、包み込むような声音は、何故か弾んでいるようにも聞こえた。

「先輩はこれを」

「何だよ」

 紫乃は懐から一枚、呪符を取り出して九十九の顔の前に突きつけた。

「鬼字『いん』の呪符です。これで姿を隠して下さい。式神が戸を破壊したら入れ違いで教室から出て、どこかに身を隠して。マロンッ」

 紫乃の声を聞きつけた黒猫マロンが、机の上に飛び乗った。ニャ、と一鳴きして次の指示を待っている。

「ちょっ、待てよ、紫乃!俺も……」

「話は終わりです」

 紫乃は、九十九の胸に呪符を押し当てる。たちまち紙は消え、制服に円が浮かび上がり、その円の中に隠の字が現れ、呪詛が刻まれた。身体がスッと薄くなって、背景に溶け込んでいく。

「喋らないで……先輩。また後で」

(くそっ……分かってる。俺には……何も……!)


    ◇


「聞いてらんねぇぜ、チンピラッ!お前の相手は俺がしてやる」


 教室の端で息を殺して身を隠す九十九。やがて、六体の式神が戸を破壊した。九十九は動かない。一、二、三……次から次へと式神が教室に集まってくる。最後に長髪の男が教室に入って――紫乃の術、檻が発動した。見る見るうちに漆黒の檻が形成されて、式神が檻に囚われる。しかし、男は陣の外に逃れていた。捕り逃してしまった。紫乃と男が話している。男は動揺し、焦り、激高している。次第に男の声は大きくなっていく。そして、男の興奮がピークに達し、紫乃に迫ろうと足を踏み出した瞬間、九十九は男に向かって飛び出していた。


「先輩っ!どうしてっ」

「紫乃っ!」

 紫乃が声を張り上げた。その声には、非難の色が浮かんでいる。しかし、九十九はさらに声を振り絞って紫乃の名を叫んだ。

「……」

「野郎は任せろ。式神!頼んだぜっ」

 そう言って九十九はニッ、と歯を見せて笑った。紫乃にも分かるように。なるべく大袈裟な、笑顔。

「せ……先輩……はい」

 諦めとも呆れとも取れる、そんな声色。

 九十九は廊下に出た。男は廊下の壁に沿うようにして倒れ込んでいた。手で口元を押さえて唸っている。口を切ったのか、顎の辺りが赤く染まり、ぬらぬらと光っていた。

「ガキッ……でめぇ……!」

「おらぁっ、ロン毛野郎っ!俺を捕まえたいんだろっ!追いかけて来いっ」

 九十九は廊下を走った。

「ぐうぅ……!」

 男は九十九と教室を交互に見て、どちらを優先すべきか決めかねているようだ。

「おい、マロンッ!鳴いてやれっ!音波攻撃だっ」

 九十九は、頭の上に器用に乗っている黒猫マロンに向かって叫んだ。するとマロンはニャ、と返事をするように短く鳴くと、倒れる男に照準を合わせるように見定めて、鳴き叫んだ。

 鋭く、張りつめた空気の中を突き進む超高音が、男に襲い掛かった。

「があぁあッ!」

「よっしゃー!最高だぜっ、マロン!」

 九十九は階段に向けて駈け出す。廊下には九十九の笑い声とマロンの軽快な鳴き声が反響していた。

「なっ……ナメやがってっ……クソガキィイ!」 

 男は、怒号と共に立ち上がると九十九を追って走り出した。

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