第39話 銃声と叫声
「ハァ……ハァ……ちっ……!グソッ!」
ふらふらとよろめきながら廊下を小走りで駆ける男。横っ面を殴られ、口内には血が広がっている。
「ふぅー……!ふぅー……!」
男の鼻息は荒く、歯を噛み締めて怒りと痛みに肩を震わせている。
階段に辿り着き、手すりを掴みながら下り始めた。空いている片手は、鳴り止まない耳鳴りを何とか止めようと耳を必至に押さえている。
キィー――。
耳鳴りは止まらない。
「がぁあっ!あ゛あ゛あ゛ぁ!」
狂ったように耳に掌打を繰り返して音に抵抗する。その効果は余り無い。音は止む気配なく、不快感とストレスが膨れ上がってく。
それでも、頭を抱えながら
「ゴルァッ!クソガキィ!あっ、つっ!出て……出てきやがれぇ!」
男の叫びが廊下に響く。しかし、何の反応もない。
男は両耳を手で塞いで、廊下の先を見遣った。一歩、二歩とよろめきながら歩く。
「ハァ……ハァ……」
ぼんやりと赤橙色に照らされた廊下。人の気配はない。
教室に隠れている……のか?いや、そうだろう。それしか考えられない。無駄なことを……。
男はそこで思考を止めた。耳鳴りが酷い。もう考えていられなかった。その耳鳴りはさらに、頭痛を引き起こした。キィーという高音と鼓動のようなリズムで襲う頭痛。頭がどうにかなりそうだった。
「あ゛あ゛ぁ……あ゛あ゛っ……!あ、遊びに付き合ってらんねぇんだっ……出て……来い。出て来いよォっ!っぐぅ!ああ゛あ゛!うるせぇええ!」
そう叫んだ時だった。
「――ふっ!」
下に続く階段の影から飛び出した九十九。男に迫り、その背中を蹴り飛ばそうと跳躍し、右足を繰り出した。
「てめっ……!」
「なっ……!」
男は、その飛び蹴りを身を
躱した勢いを殺せず、男はよろめいて壁に手を着き、もたれ掛かりながら九十九を鋭く睨んだ。
「おいおい、ふらふらじゃん。大丈夫かよ?」
「あ゛ぁ!?ナメた口聞くんじゃねぇ……青臭ぇガキがっ!」
「あんたもそう変わんねぇだろ?偉そうにすんじゃねぇよ」
「ハァ……クソ……何だってこんなガキを……」
男は、苦々し気に九十九を見遣って、そう吐き捨てた。
「……おい、あんた。聞きたいことがある。一体あんたは誰で、何で俺捕まえようとしてんだ?」
九十九は男に問いかける。
そもそもの理由が知りたい。昨夜、タイムスリップして現代にきた侍達と関係があるのか。いや、外で見た槍の侍とほぼ同じタイミングで学校に現れたのだ。関係していることは確実だろう。ならば何者なのか。現代人であろう目の前の男が、過去からやってきた侍と行動を共にしている理由は?何故自分は狙われているのか。
思い当たることは一つだけ。この右手に宿った謎の金属――。
「あ゛あ゛っ!……ふー……いくらかマシになってきた……っ!」
男は、血を吐いて口を拭った。
「質問に答えろ!」
「大声出すなや。その馬鹿猫のせいで頭痛が収まらねぇんだからよ」
九十九の頭の上に乗っているマロンを指差して、憎々し気に男は顔を歪めた。
「もう一発食らわせてやろうか?」
「ふんっ、ガキが……俺が誰か……言った所で分からねぇだろうよ。お前を捕まえる理由?俺が知りたいね」
「はぁ?」
肩を竦めてそう言う男に、九十九は間の抜けた声で返した。
「何も知らない?ふざけんな!知らずにこんなことしやがったのかよっ」
「ハッ、俺はお前を取っ捕まえて来いって言われただけだ。それ以上は何も知らねぇ。大人しく捕まれ、小僧」
「マジで知らないのか……?」
「何度も言わせんなボケ。こっちはただ仕事してるだけだ」
人攫いが仕事かよ、と内心非難するように呟いた。
この男は話す気が無いのか、本当に知らないのか。捕まえて来いと言われた、仕事、と言うからには何かしらの組織に属した人間か?もっと問いただしたい気持ちもあるが、他に追及すべきことがある。紫乃の様子も気になるし、あまり時間をかけてはいられない。
「……ここから出るには、どうしたらいい?」
「あ?」
「今学校はっ……幻術に掛けられてんだろ?」
九十九は、廊下の異形が
「この幻術を掛けてる奴はどこにいる?あと行き方っ。まさかあんたじゃないだろ?」
「……あの小娘の入れ知恵か。俺には出来そうにもないとでも言ったか?ナメやがって……ま、その通りなんだがよ。だが、今ここにいる人間は、お前らと俺だけだぜ」
「どういうことだよっ……」
この幻界の中にいる人間は九十九、紫乃、男の三人だけ……目の前の男では無いのだとしたら、この幻術は一体何だ。
「さあな……人間以外……なのかもなあっ!」
「てめぇっ、ふざけ――!」
九十九の口が止まった。
男は、言い終わらない内に素早く懐に手を入れると、何かを取り出して、それを九十九に向けた。その男の動作が、スローモーションになってゆっくりと九十九の目に映った。
何か――それは黒く不吉な空気を纏って、無骨に角ばった硬質な……まるで、拳銃のような……いや、拳銃だ――。
男が懐から取り出した物……それは、間違いなく拳銃だった。男の佇まいと出で立ち――拳銃を構えるその姿は任侠映画さながらだ。まさか、玩具ということは無いだろう。いや、実銃でなくても、エアガン、ガスガンといった遊戯銃でも脅威だ。ましてや改造したものであれば十分な殺傷能力を有する。
しかし、九十九の身体は動かない。頭では解っている。スロー映像のように男の動きが見えている。それでも、脳から送られる信号は未だ筋繊維に到達していない。身体は頑として動いてくれず、直立して男の姿を眺めていた。死を覚悟する暇すら無い。
間もなく男は引き金を引き、撃鉄が振り下ろされると共に、パァンッ――と発砲音が空気を震わせた。
「ニ゛ャンッ!」
聞こえたのは猫の鳴き声。
「……かっ、はぁっ……」
意識がある。痛みも無い。銃弾は九十九の身体には当たっていない。九十九は緊張を吐き出すように、大きく空気を吸って呼吸を繰り返した。
「……マ、マロン?」
先ほどまで頭にのしかかっていた、軽い重みが消えていた。銃弾は九十九の頭上、マロンに命中したようだった。九十九は、頭に手を遣るも、ただ空を掻く。マロンの姿は無くなっていた。
「嘘だろ……」
「ふんっ……」
男は銃を構えて、剣呑な目つきで九十九を見つめている。
「こ、殺す気かよっ……捕まえるんじゃなかったのか?」
途端に恐怖心が湧き上がってくる。やっと絞りだした声は僅かに震えていた。
「バーカ。猫に当たるように撃ったんだよ」
(嘘つけ、この野郎っ!)
男が懐から銃を取り出し、銃を構えた時、目が合ったのだ。男はマロンを見ていなかった。男が狙い定めたのは、明らかに九十九の頭部。死んだ、そう思わせるほどの視線だった。無事であったのは、男の技量が足りなかったのか、ただ単に弾の軌道が逸れただけだ。幸運と言うほか無かった。
(マロンッ……!)
死んでしまったのか。だが、死骸は無い。その姿がただ消えていた。どこに消えてしまったのか。生きていたとしても……身体を撃たれたのだ。無事ではないだろう。
「ぐっ……!」
悔しさと怒りが沸々と湧き上がり、九十九は歯を食いしばった。
「動くんじゃねぇぞ。可笑しな真似しやがったら腕か足にぶっ放すからな」
「くっそっ……」
男がゆっくりと近づいてくる。下手に動くことは出来ない。九十九は、立ち尽くして向けられている銃口を見ることしかできなかった。
何も考えることが出来ない。銃を向けられる恐怖も勿論あった。しかし、恐怖を覆うほど胸中に渦巻いている怒りの感情。マロンの鳴き声と鈴の音が脳内で繰り返され、紫乃の顔が思い浮かんだ。このまま、ただ捕まってやることなど、出来そうに無い。
目の前にまでやってきた男は、威圧するように
「ぐっはっ……!」
「あーあぁ、血が止まらねぇよ。思いっ切りぶん殴ってくれやがって、クソガキャアッ!」
鳩尾に鋭い痛みが走って、たまらず前のめりに屈み込むと次は顔面、横から頬を打ち抜くように殴られ、床に倒れ込んだ。
「ぐぅっ……!」
「おらぁっ!このっ、ボケがぁ!分からせてっ、やらねぇとなぁ!」
男は、倒れた九十九の腹を蹴り、真上から踏み付け、鬱憤を晴らすように喚き散らした。九十九は、ただ頭部を抱えるように守るしかできず、為すがままに暴力を受けるしかない。
(やべぇ……どうするっ……)
殴られながら、この状況を打開する術はないか脳内で必死に模索するが、繰り返し襲う痛みに邪魔され、思考は分断を繰り返す。
「らぁっ!」
「ぶふっ――!」
突然の顔面への衝撃に、視界が弾けたようにスパークした。顔を蹴り上げられたのだ。鼻と口から噴きだす血。首が勢い良く反り返った。九十九は、呻きながら仰向けになって天井を見上げた。
血で塞がれているのか、鼻の通りが悪い。口で息をするが、裂けた唇が空気に当たってジンジンと痛んだ。視界の端でまるで火花が散っているようだが、意識はまだしっかりと残っている。その視界に男が映った。九十九の顔を覗き込む男。垂れ下がる赤毛の隙間から覗く顔を、冷めた瞳で見た。くしゃくしゃに表情を歪ませ、にやついている。不気味で……不快だ。
「大人をナメるとこうなる」
男は、声を高くしておどけて言った。
「……だから……そう、離れてねぇだろ。下っ端ぁ……!」
言い終わらない内に男は、九十九の胸倉を乱暴に掴んで引き寄せた。
「口の減らねぇガキだな……手足圧し折ってやろうか?」
「臭せぇ顔……近付けんな……」
「殺す――!」
男が怒りに歯を食いしばって、その相貌を崩した。そして、拳を振り被って九十九の顔面に振り下ろそうとした瞬間、九十九は口内に溜まった血を男の顔面に吹きかけた。
「がぁっ、てめぇ!」
「間抜けかよ……!」
顔を押さえて男は反り返る。すかさず九十九は立ち上がり、男の顔面を殴りつけた。
「うぐぅっ……クソッ!」
男は、後方によろめきながら腹部、スラックスに差し込んでいた銃を取り出し構えた。しかし、九十九は素早く男との距離を詰め、銃を握る手を掴んで上へ向け銃口を逸らした。
二人は、互いの身体を掴みながら揉み合いになった。九十九は、銃を持つ手を壁に打ち付けるが男は離さず、頭突きを繰り出して抵抗してくる。
「ぐぅう!離しやがれぇ!」
「がっ……ぐあ゛あ゛ぁ!」
二人の攻防は拮抗している。九十九は、男の身体に食らいつき、男は銃を死守せんと必死の形相で抵抗を続けた。
ここで押し負けるわけにはいかない。何とか銃を取り上げて無力化しなければ、怒りに任せた男に殺されるかもしれない。好機はもう無いのだ。
男の手首を握る力をさらに強め、二度、三度と壁に叩きつける。男は顔を歪ませながらも銃を離さず、位置が悪いと見たか強引に九十九の身体を引っ張って、互いの位置を入れ替えた。
男に引かれるように、互いの位置が入れ替わる瞬間だった。二つの光る点を視界に捉えていた。
(なんだっ?)
位置が逆になって壁に押さえつけられながらも、横目でそれを確認した。
頭を低くして胴を弓なりに、全身の毛を逆立て、ピンと立った二つの耳――。
(マロンっ!)
銃で撃ち抜かれたはずの、黒猫マロンだった。
良かった。死んでいなかったんだ!――と刹那安堵して、九十九はマロンに声を振り絞って叫んだ。
「マロン!――鳴けぇえっ!」
九十九の声に応えたマロンの大絶叫が、廊下に轟いた。
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