第37話 芒星陣【籠】の鬼字

 薄暗い教室。全く視界が利かないわけではないが、光源となるのは異形が蠢く隙間を縫って差し込む、窓からの僅かな光のみだ。聞こえてくるのは、その異形が這う際の粘着質かつ水気を含んだ不気味な音だけで、否応なしに恐怖心が掻き立てられる。

「……ふぅー……」

 紫乃は、息を吐いて気持ちを落ち着かせた。

 二年C組の教室。黒板前の教卓の下に紫乃は身を隠した。あの恐ろしい式神は、じきここにやって来る。紫乃達の逃げ場は三階しかないうえ、教室の戸に施した鬼字きじの呪符、その呪気を嗅ぎ分けて紫乃達の存在を感知するはずだ。

「……はぁー……」

 膝を抱えてうずくまりながら深呼吸を繰り返す。しかし、何度繰り返しても恐怖心と緊張感は消えず、震えで歯がカチカチと鳴った。

(……駄目……止まってっ……!)

 そう自分に言い聞かせるが、身体の震えは止まってくれそうに無い。抱えた膝を強く握った。

 さっきまでは、そこまでの恐怖心を感じていなかった。だが、こんな僅かな時間でも一人になると堰を切ったように恐怖、不安、焦燥感が津波のように押し寄せていた。

 阿原九十九。会ったばかりの初対面だというのに、彼には随分支えられている気がした。当然一学生であって呪術の知識などは皆無だ。この状況では無力なのだが、彼の言葉によって勇気付けられ、励まされたのは確かだった。

 それに、紫乃自身は重度の人見知りだ。教師でも緊張してしまうし、友人も少なく同学年でもまともに喋れなかった。それが思い返してみれば、九十九にはそれが無かったかもしれない。初めからすんなり話せていた気がする。何だか不思議な気持ちを抱かせる人だ、と紫乃は思った。

 同時に、気を使わせているんじゃないかと不安になった。こんな異常な空間で恐怖心を抱かないはずが無い。そのうえ、紫乃には識神がいるが、九十九には対抗する術が無いのだ。逃げ出したいほどの恐怖に駆られてもおかしくなかった。でも彼は――


「いよっしゃあっ!」


 九十九の清々しい叫び声。脳裏には九十九の笑顔が思い浮かんだ。

「……ふふ……」

 自然と小さな笑みが零れた。怯えている場合では無い。勇気を貰った。自分に出来ることで返したい。ここを抜け出して、彼に笑顔を返したい。そう思うと、身体の震えは止まっていた。

 会って間もない人にこんな感情を抱くなんて、と自分の気持ちを不思議に思っていると、ふと聞こえてくる音に違和感を覚えた。


 遠くから聞こえる異音。声帯をただ震わせているだけの掠れた、複数の呻き声。

(……来た……)

 その呻き声は段々と近付いて、次第に別の音も交じり始めた。床を擦るようにズルズル、ヒタヒタと幾つもの足音が聞こえる。音はゆっくりと大きくなって、止まった。もうすぐそこにいる。この教室の引き戸の前に。

 ドンドンドンドンッ!

(……!)

 式神だ。式神が戸を叩いている。力一杯戸を殴りつけ、鋭利な爪を突き立て引っ掻いているのか、ギィギィと不快な音が聞こえた。

 戸に施した鬼字の呪符は、決して強力なものではない。鬼字の呪符でも結界術と並ぶ効果を発揮出来るが、紫乃にその力量は無い。下位霊体ならまだしも、恐らく長髪の男が使役した式神は上位霊体だ。間もなく突破されることだろう。だが、構わない。既に配置は済ませている。

 バンッ!という音と共に戸は壊された。式神の呻き声が一斉に教室内に流れ込む。悲嘆に呻きながら、式神が教室へ侵入した。ビタビタと床に足裏が張り付くような音が間近に迫っている。複数いるが全てでは無い。まだだ。奥の方からも足音が聞こえる。教室に入った式神は、教室中をうろついている。探しているのだ。生者の匂い、或いは気配を感じているのかもしれない。紫乃は、息を殺して耳を澄ました。脂汗が滲み、速まる鼓動。喉が張り付くように乾いている。生唾を飲み込んで目を閉じた。

 やがて、最後と思われる式神の足音が教室に入った。その後には、カツ、カツと靴が床を叩く音が続いている。これは長髪の男だろう。これで男以外の式神六体が教室内に収まった。すぐに男と思われる靴音も教室に入ったのが分かった。すると、僅かに室内が明るくなった。二階と同じ赤橙色の、妖しい光だ。

「……誰もいねぇじゃん」

 男はそう呟くと、ゆっくりと歩き出した。靴音が徐々に近くなり、その音に合わせて鼓動が跳ね上がっている。

「……ふぅー……」

 紫乃は、静かに息を吐くと、勢い良く空気を吸い込み、大声で叫んだ。


符念解ふねんかいッ!」


 張り裂けんばかりの叫び声。六体の式神がピタッと動きを止め、紫乃が隠れる教卓にグルンと首だけを動かして顔を向けた。

「何だぁ!?」

 動揺した男の抜けた声が聞こえた。

 次の瞬間には、声の主の元へ一斉に飛び掛かる式神。しかし、もう遅い。式神が教卓へ取り付くより先に、紫乃の声に反応した鬼字の呪符が発動した。

 紫乃が教室内に設置した八枚の呪符。鬼字は鬼とかご。八枚全てに書き込まれている。呪符は紫乃の発令咒言はつれいじゅごんを受けると、たちまち紙は床に溶け込み、鬼字は床に刻まれた。間もなく、呪符同士が引き合うように墨が伸び、線で結ばれる。浮かび上がったのは八角の八芒星。さらに、墨は八角を通ってぐるりと円を描くと、各呪符から噴水のように勢い良く墨が噴き上がった。

 飛び掛かった式神は噴き上がった墨に遮られ、八芒星の中へ跳ね返された。サークル内にいる式神は呆然と立ち尽くして呻き声を上げている。

「くそっ!どうなってやがるっ!」

 男が声を荒げた。

 その間も呪符の展開は続く。噴き上がる各呪符の墨は天井付近で交わり、半球のドーム状に式神を囲う。さらに、隙間を埋めるように網目状に墨が広がって、式神を閉じ込める籠が完成した。

 紫乃は、教卓から急ぎ躍り出た。

「……くっ……!」

 籠の中には六体の式神。男は籠の外にいた。

(失敗したっ……)

 この薄暗い空間で、音を頼りに式神と使役者を一網打尽に籠に閉じ込めるつもりだったが、男は呪符が展開仕切る前に逃れていたらしい。

「ちぃ……!」

 男は、歯を噛みしめて顔を怒りに歪めた。紫乃はゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐ男の顔を見据えた。

「おいおいっ、嬢ちゃん!何だよこれはぁっ!」

 赤髪を振り乱して、男は声を張り上げた。

「呪符による檻です。しばらく拘束させてもらいます」

「あぁ!?……良い気になりやがってクソガキがぁ!もう終わりなんだよてめぇらは!あぁ決めたぜ、嬢ちゃん……てめぇはとことん沈めてやる」

 男は激高している。目を見開いて、唾を飛ばしながら怒鳴り散らす男に、僅かに顔が引き攣った。

「……お、大人しくしてくださいっ」

「うるせぇ!でぇ?どうするってんだぁ?俺を捕まえるかっ?あぁ?」

 男の余裕は既に無くなっている。しかし、出入口付近に立って、距離を詰める様子は無い。最低限の警戒心は残っているようだ。

 紫乃は、懐から一枚の呪符を取り出した。

「おぉ、やるってんだな?俺を殺れんのか、嬢ちゃんにぃ!えぇ!?殺せんのかって聞いてんだよ!」

「……うっ……」

 男の剣幕に圧され、たじろぐ。抑え込んでいた恐怖心が、段々と大きくなっていく。

「だよなぁ?怖いよなぁ?お前じゃ無理だガキィ」

「……ふぅ……ふぅ……」

 呼吸が速く、激しくなっていく。身体が再び震えている。男に呑まれてしまっている自分が情けなかった。

「この檻消せよ……な?」

「……ふぅ……わ……私が……」

「さっさと消せってんだ!ゴルァ!」

 男の恫喝はピークに達し、一際激しい怒鳴り声を紫乃に浴びせる。そして、言い終わらない内に紫乃に襲い掛かろうと、右足を一歩前に出した時だった。

「ぐふぅっ!」

「……えっ」

 駈け出そうとしていた男の身体が真横に飛んだ。廊下側に倒れ込むように姿を消したのだ。

「……九十九先輩……どうして」

 男と入れ替わるように、戸の前に九十九の姿が現れた。右の拳を振り抜いた体勢で戸の奥を鋭く睨みつけている。九十九の身体の周囲はうっすらと黒く靄がかり、頭の上には黒猫マロンがひしと掴まっていた。

「聞いてらんねぇぜ、チンピラッ!お前の相手は俺がしてやる」

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