第26話 陰陽師見習いの少女

少女は壁に手を突いて、上がった息を整えながら九十九の様子を窺っている。

「あ、あぁ。何ともない……ここの……一年?」

「……はい。一年A組です。あの、阿原九十九先輩……ですよね?」

「えっ?知ってるの?」

 九十九は、少女の口から自分の名が出てきたことに驚いて、間の抜けた声を上げた。九十九自身は、少女を見かけたことはない。スクエア型フレームのサングラス。普段から掛けているのだろうか。そうであれば、嫌でも目に入る筈だがその記憶はなかった。

「有名なので。色んな意味で」

「ど、どういうことっ?」

「話は後にしましょう。先輩、移動した方がいいです」

 少女は、急かすように早口で言った。その声色には焦りが含まれている。

「そうだな。外に出たいんだが……窓のあれ、見たか?」

 九十九が立ち上がると、少女が九十九を見上げた。少女は小柄だった。一五〇センチあるかないかといった所だ。

「外のもそうですが……ここの方がやばいです」

 そう言った少女の声は固い。恐る恐るといった様子で、開いた教室の引き戸を見遣った。

「……中にいるやつ……ありゃ、何だ?」

さわりですよ」

 少女は、間を置かずに一言で答えると、教室の前に歩み寄った。

「おいおいっ、何やってんだよ!」

「せめて、この中に閉じ込めておかないと。また、魅入られてしまいます」

 言いながら少女は、懐から小さな紙片を取り出して前方へ放った。その紙は、ひらひらと舞いながら地面に向かったかと思うと、空中でぴたっと静止した。そして、くるくると回りながら上昇し、少女の目線まで浮くと止まった。紙片には文字が一字、書き込まれている。教室から漏れる赤い光で、ぼんやりとだが見ることができた。『鬼』を部首として五芒星が書かれた文字だ。


障怨止しょうおんし退止縛たいしばく


 少女がそう唱えると、たちまち紙片は青い火に包まれ、燃え上って消えた。しかし、燃えて消えたのは紙片だけだった。不思議なことに紙に書かれた一字は、その場に留まって浮いていた。そして、その字を中心として墨が茨のように教室の四方八方へと伸びていく。墨は教室内の壁を這って、空間全体を包んでしまった。

「……」

 九十九は声すら出せず、口を開けて驚愕の眼差しを向けた。

「……行きましょうか」

 少女はそう言うと、九十九を通り過ぎて階段へ向けて歩いて行ってしまう。

「な、なぁっ。何だよ、今の」

 九十九が小走りで追いながら声を掛けると、少女は歩みを止めて振り返った。

「……何がですか?」

「何がって……あの変な文字が浮いて……教室ん中、グワーッてさっ」

 九十九は言葉が出てこず、擬音を使って興奮気味に表現した。対して少女は、平静を取り戻したのか落ち着き払っている。

「見えたんですか?」

「いや、聞いてるのは俺なんだけど……」

「……あれはまじないです。怨霊や悪鬼、呪詛を縛り付けておく為の術です……弱いものですけど」

「えっ、魔法使いなの?」

「違いますよ。呪いって言ったじゃないですか……呪術――ですね」

 少女は、少し呆れたように言った。

「マジかよ。漫画じゃん」

「……行きましょうか」

 少女は、くるっと振り返ってすたすたと歩き出した。

「ちょ、おいっ。あいつらはもう出てこれないのか?」

「いえ、私程度じゃ足止めがやっとですよ。それに調伏ちょうぶくの術ではないので……すいません」

 ぴたっと立ち止まって、申し訳なさそうに言った。

「なんで謝んだよ。よく分かんねぇけど、助かったよ。ありがとう」

「……いえ。無事で良かったです」

 少女は、俯き加減で言った。

「俺は……俺のことは知ってるんだよな。名前は?」

「私は――マロンッ!」


「マロン!?」

 少女の予想外の答えに驚きの声を上げた直後、少女と九十九の間に何かが出現した。この暗がりでは、それが何なのか視認することは出来ない。だが、九十九の頭にそれが乗って跳ねたような感覚があった。ちりん、と聞き覚えのある鈴の音が聞こえた。背後に跳んだと思われるそれが鳴いた。

「猫!?」

 猫の鳴き声だった。にゃ、と短く一瞬だったが甲高く鋭い鳴き声。九十九は咄嗟に振り向いた。

「――!?こいつっ」

 振り向くとそこにいたのは、教室で黒板の前にいた、壮年の男に顔が貼り付けられたもやだった。霧散したかに思えた靄が、その形を取り戻していた。

 復活した靄。九十九は、身構えた。しかし、壮年の男の表情は苦悶に歪んでいる。その身をくねらせて苦しんでいるようだ。


識神猫鳴哭しきしんびょうめいこく


 少女が唱えた。すると、九十九の目の前の空間が歪んだ。ぐるぐると渦を巻いている。その渦の中から、廊下を塞がんばかりの大きな獣が現れた。

「ニャオンッ」

「ぐはぁっ」

 先に現れた物体が九十九の懐に飛び込んできた。九十九は咄嗟に抱きかかえた。黒猫だった。柔らかな抱き心地にふんわりとした毛並み。そして、耳障りの良い鈴の音。

「お前っ……あの時の」

 九十九の腕の収まった黒猫は、つぶらな瞳で見つめてくる。確信した。昨夜の鬼面との戦いで窮地を救ってくれた黒猫に違いなかった。

 猫と目が合った僅かな間、昨夜のことを思い返していたが、その回想を掻き消すように、目の前の巨大な獣が咆哮した。

「いぎぃっ」

 余りの声量に、全身が粟立って震えあがった。風が吹いて髪が巻き上がる。校舎の窓、床、壁が僅かに揺れているほどだ。窓ガラスが割れるんじゃないかと思ったが、外側に大量の異形が蠢いている為か、その心配は要らなかった。

 咆哮した獣。この獣も猫だった。先の黒猫とは違い、濃淡のある橙色の縞模様で、この暗がりでもその形がはっきりと分かった。ぴんと立った耳も確認できる。有り得ないほどの巨体を誇る猫。ヒグマほどの大きさはありそうだ。

 その巨大な猫が鳴き終えると、一気に静寂に包まれた。巨大な猫の前、そこにいた筈の靄は跡形もなかった。

「……消えた」

 巨大な猫は、窮屈そうに振り返って少女を見ると、打って変わって穏やかな鳴き声を上げた。すぐに、先と同じように空間が渦を巻き始める。猫は、それに巻き込まれるように渦に乗って消えてしまった。

「……何なんだ?」

 九十九は少女を見て言った。

「私は……白檀紫乃……です。陰陽師見習い……です」

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