第25話 変わり果てた教室
何か、不快な音が聞こえる。
ニチャ……ネチャ……。
粘液を纏った物体同士が擦れ合うような音が、絶えず耳を犯している。それは、左右からのようでもあるし、上か或いは下からも聞こえてくる。
まるで、ワームのような虫や蛸、
視界はかなり薄暗い。しかし、時々微かな幾筋の光が差し込んで空間を照らした。目が慣れてまず目に映ったのは、蛍光灯だった。首を持ち上げて先の景色を見た。廊下だ。九十九は、見覚えのある学校の廊下に仰向けで寝そべっていた。床に手を付いて、上体を持ち上げると
「……動くな」
ぽつりと呟いた。
先ほどまで石膏のように固まって動かなかった身体は、自由を取り戻していた。指先までしっかりと動くし、口も開き、声も出せる。
「――くそ……」
九十九は、毒づいた。
ここに引きずり込まれた時、意識が消失する寸前に見たのは、こちらに手を伸ばす累だった。突如起こった非常事態。よりによって、そんな時に金縛りが襲った。昼間に起きたことなど今までなかったのに。昨夜の、鬼面と対峙した時の自分がフラッシュバックした。畏怖して腰を抜かして、呆然としている自分。それがさっきの累に寄り掛かる自分とどうしても重なった。不甲斐なく、どうしようもない情けなさに強く歯を噛んだ。
九十九は、膝を立てて立ち上がった。辺りを見回す。左側に窓があって、その反対側には教室があった。二年B組。偶然にも、在籍するクラス前の廊下だった。
教室の引き戸は全て締め切られている。耳を澄ましても、聞こえるのはあの不快な音だけだ。相変わらず四方八方から聞こえてくるが、窓からの音がより大きい。
窓に目を向ける。暗いというよりも黒い。あちこちから、ぽつぽつと漏れる光。これでは、とても外の景色を見ることは出来ない。九十九は、窓を開けようと近づいていく。窓枠に手を伸ばした時だった。
ズルッ、と外側で何かが動いた。思わず後退る。
「え……」
湿った音は、鳴り止まず続いている。恐る恐る顔を窓に近づけた。
「うっ……」
やはり、動いている。良く見るとそれは赤みがかって、血に塗れているように見えた。形は大小様々で、管のような形をしているものもある。それらは、アメーバのように柔軟にその形状を変えながら、窓という窓を這っていた。おどろおどろしく蠢く《うごめ》異形の隙間から、光が筋となって校舎内を僅かながら照らしていた。
「なんだよ……これ……」
一歩、二歩、窓から遠ざかった。
この張り付いている物体は何だ。校舎を飲み込んだ化物の体内か。それとも数え切れないほどの小さな生物が大量に発生したか。そして、この物体の被害を受けているのは、この学校だけなのか。もしかしたら外はこの物体が溢れかえってしまっていたら――そんな最悪な情景が頭に浮かんだ。累の顔が思い浮かぶ。あの時、外側からこれを見たのだ。あの青ざめた顔も頷けた。
じっとしていると、異形の音が近づいてくるようで、どうにかなりそうだった。どうにかして、ここから脱出しなければならない。累のことが気がかりだった。槍使いの男と対峙しているはず。恐らくは旗本奴、六方組の一人だ。相当な手練れであることは間違いないだろう。
しかし、出口などあるのだろうか。見渡す限りの窓には、異形が
「行くしかないよな……」
右か左か。教室の壁にもたれ掛かって首を振った。どちらを見ても、尻込みするほどの闇が広がって先が見えない。込み上げる恐怖に逡巡しながらも、右に進むことに決めた。教室を背にして右手側に進めば、隣のA組を挟んだ先に階下へ降りる為の階段がある。階段さえ降りてしまえば、昇降口は目と鼻の先だ。
九十九は、階段の方へと身体を向けた。進もうと一歩踏み出した所で、ふと疑問が過った。他の生徒達はどうしたのか。外に異形の化物が蠢いているというのに、悲鳴どころか声すら耳にしていなかった。真昼にも関わらず、この暗さだ。普通なら、学校中が恐慌状態に陥っていても不思議じゃない。しかし、暗闇の廊下に立つ今も、聞こえてくるのは化物が這う不快音だけだった。
教室はどうなのだろう。そう思って、真後ろに振り返り、教卓側の引き戸へとそっと近づいていく。引き戸に嵌め込まれている小窓から、中の様子を窺った。
「……っ!」
九十九は息を飲んだ。冷水の如き汗が、毛穴から吹き出した。
いた。黒板前に立つ者と、机に座っている者達が。周囲の薄暗さにも関わらず、その姿は、はっきりと見ることができた。何故か教室内が、暗室をセーフライトで照らしたかのように赤かったからだ。廊下にその赤い光は漏れていなかったはず。だが、そんな些末な疑問はすぐに失せた。そこにいる者達に目が奪われた。
それは、見慣れたクラスメイトでは無かった。恐らく人間でもない。その身体は、黒い
「……」
靄に重なっているせいもあるのか、教室内にいる者達の顔色は尋常でなく悪い。灰色の輪郭は、皆一様に机をぼうっと眺めている。虚ろな目に生気は感じられなかった。マネキンが座っているようだ。一輝や蒼、楓の姿もあるが、未だかつて見たことない表情で一点を見ていた。窓側の一輝の席の前、九十九の席だけが穴が開いたように空席だった。
黒板の前に立つ靄は、恐らく岡村だ。この位置では顔を見ることは出来なかった。その靄が、黒板に何を書き込んでいるのか。九十九には解らない。限りなく、ひらがなや漢字に近いが、どれも余計なものが足されていたり足りなかったりして、読むことは出来なかった。日本語のようで日本語でない。その違和感に気持ち悪さが込み上げる。生徒役である靄は、黙ってじっと放心している。岡村であろう靄を、誰一人として見ていなかった。
「どうなってんだよ、一体……」
九十九は、その光景に顔を歪めた。鳥肌が立って収まらず、息を吐くにも腹の底が震えてしまって一苦労だ。
音を出さないように震えを抑え込んで呼吸を整え、ごくりと唾を飲み込んだ時だった。
誰ともなく、教室全体を見ていた九十九は、視線を感じた。生徒役の靄の群衆。その中からこちらを見ている者がいる。一輝だ。気が付くと、靄に貼り付けられた一輝の顔が、九十九を睨んでいた。およそ、友に向ける顔ではない。怨念がありありと浮かんでいるように見えた。すると蒼が、楓が、一輝と同じように九十九を睨む。一人、また一人と九十九の方に顔を向けて睨んだ。生徒全員が九十九を睨んでいた。
九十九は、顔を背けることが出来なかった。何故か。恐怖に他ならない。心臓が今にも止まりそうだ。どの靄の顔も殺意が見て取れる。三十余の生徒の怨恨を、一身に受けていた。
限界だった。これほど多くの殺意を浴びて、平常心ではいられない。
ここから離れなければ、そう思って身を引いた時、目の前が薄暗くなった。まさか、と思った。靄がすぐそこにいる。顔を上げたくなかった。目を合わせたくない。首を上げないように、黒色の靄の胴体だけを見ながらゆっくりと後ろに下がる。窓に背中がぶつかった。外の異形の音が聞こえる。そして突然、ぱぁん!と大きな音が鳴って教室の引き戸が開いた。
戸の向こう。一体の靄がそこにいた。九十九は、顔を上げてしまっていた。靄に貼り付けられた顔を見た。恐らくは黒板の前にいた靄。岡村かと思っていたが、違った。女性ですらない。白髪の壮年の男性だった。九十九は、この男を知らない。
靄に貼り付けられた顔は、九十九を無表情で見つめている。しかし、目がない。くり抜かれたように空洞だった。深く、暗い穴だ。
九十九は、ずるずると地面に座り込む。顎の筋肉を失ったように口を開けたまま、その穴を覗き込んだ。不思議と恐怖心が消失していた。逃げようという気さえなくなっていた。穴の底は、どうなっているのだろう。もっと、奥が見たかった。
二つの穴が大きくなっていく。靄がゆっくりと近づいていた。穴に手が届くかもしれない。深奥を覗けるかもしれない。そんな好奇心が脳を支配する。そして、靄に貼り付けられた壮年の男の鼻先が触れそうなほど近づいた時、男の口が開いた。
「――」
言葉ではない。声、とも呼べない。ただ、口からガスが漏れだしているような、建物の隙間を風が通った時の風切り音のような、形容し難いノイズが耳に届いた。九十九の思考能力は、これによって完全に失われた。
何も考えられない。しかし、不快ではない。むしろ心地良かった。二つの穴は近づいて、大きな一つの穴に見えた。
この音をずっと聞いていたい。そして、大穴に飛び込んで、深奥をこの目で――。
「見ちゃだめっ!」
「――!?」
金切り声が頭に轟く。空気を裂くような高音に、鼓膜が激しく揺さぶられる。その声を引き継ぐように、獣の声が廊下中に響き渡った。恐らくは猫、だろうか。猫が激しく威嚇をした時の、妙に間延びした鳴き声。
最初の声が聞こえた時、濃い暗闇の中にいた九十九の意識は、天地がひっくり返ったように現実へと戻っていた。靄の顔が、すぐ目の前にあった。その靄の動きは止まって、硬直している。そして、猫の鳴き声が廊下の奥から九十九がいる地点まで鳴り響いた瞬間、目の前の靄は何かが横からぶつかったように散った。
「うおわっ!」
余りの衝撃に形を保っていられず、空気中に拡がったようだった。
「何だっ……?」
九十九は、音がした方に顔を向けた。
光が僅かしか届かない校舎は、目が慣れていても数メートル先は深い闇に覆われていた。その闇の中から、誰かがこちらに近づいてきているのが分かった。足音が聞こえてくる。その足音は歩くよりも幾らか速い。足音が段々と大きくなって、目がやっとその姿を捉えた。
少女だ。幼さの残る面立ちの少女が、僅かに息を切らしながら歩み寄っていた。
「はぁ……ん、っく……はぁ……」
制服を着ている。すぐ近くまできてやっと分かった。帝陵高校の女子生徒の制服だった。見覚えはなく、恐らく同級生ではない。自信が持てないのは、少女の顔の全貌が見えないことにある。少女はサングラスを掛けていた。
「……あ、ありがとう?」
九十九は、何と声を掛けるべきか分からず、礼を述べていた。口を衝いて出た言葉だったが、この少女に救われたのは間違いない。
少女は、肩で息をしながら九十九を見て言った。
「……無事ですか?先輩」
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