第24話 覆う怪奇

「おいっ、誰か!誰か来てくれっ」

 累は、声を張り上げて大声で言った。二度目の助けを求める叫びだったが、それに応える者は誰もいなかった。

 そんな筈がない。先ほどまで人で溢れかえっていた。講書の最中だとして、これだけの叫び声が届かないわけがない。一刻も早く九十九を医者に見せなければ、という思いで頭は一杯だった。

 九十九の身体に異常が起きている。何の前触れもなく、突然倒れ込んだ。直立のまま、地面に向かって傾く九十九を、咄嗟に身体で受け止めていた。

 累は、驚いて何度か呼び掛けるが、呂律が回っていない。というよりも、まるで何かに縛り上げられたように口が動かないようだ。歯を食いしばって、必死に何かを伝えようとしているのが分かる。読み取れたのは、身体が動かないということ。確かに九十九は、先ほどまで相対して話をしていた状態のままで累に寄りかかっていた。足も曲げられないのか棒のようだ。累は、九十九の全体重を支えていた。

 九十九の身体は小刻み震えている。身体を動かそうと懸命に藻掻いているのが伝わってくる。

「くそっ……反応がない。一体何がどうなって……っ!」

 それにしても、どうして誰も応えてくれないのか。九十九の状態の判断が累には出来ない。その焦りが、口から漏れた時だった。

 周囲が薄暗くなったのが分かった。厚い雲でも掛かったか。そう思って反射的に空を見ようと首を持ち上げた。

 上空に目が向く途中。そびえ立つ校舎。その屋上付近から何かが溢れだしていた。まだ距離があってはっきりと視認出来ない。屋上から徐々に校舎を浸蝕していく何か。暫し、累は言葉を失った。

「な……なんだ、あれは……」

 生理的な嫌悪感に肌があわ立つ。

 ゆっくりと地面へと向かって滴るそれが、校舎の三階部分を飲み込んだ時、やっとくっきりと姿形が見えてきた。それでも何かが分からない。このようなものは、目にしたことがない。赤く、黒く、所々が白い。色が縦横に流動している。触手のようにうねり、木の根のように枝分かれ、拡大していく。泥のようにも見えたが、もっと細部は複雑で、多くの肉塊の集合体のようだ。累の目には、腐った臓物のように映った。


 視線を外したいのに、目を逸らすことが出来ない。今にも胃液が溢れだしそうなのに、首を下げることが出来ない。その触手が脳を蝕んでいる感覚に襲われた。理解出来ない、おぞましい力を感じる。足先に冷たい何かが触れた。いつの間に、こんな近くまできたのか。それは足全体を覆って、足首、下腿、大腿、腰、胸とゆっくり頭に向かって這い上がってくる。身体が、がたがたと震えた。粟立つ肌は最早、裏返ってしまっているのではないか。とうとう、首元まで迫ってきた。逃れるように身体を反らせる。歯が、かちかちと鳴った。眼球がひっくり返って右往左往している。涙が止めどなく溢れた。

「はぁっ……る、い……累!」

「!?――九十九っ」

 九十九の声が耳に届き、感覚が切り替わった。意識が引き戻される。

 肩にもたれ掛かる九十九に顔を向けた。その横顔から表情を見ることは出来ない。しかし、何か違和感を感じる。累の視界の端に何者かがいる。それを察知した瞬間、首筋の辺りがぞわりとして産毛が逆立った。この感覚には覚えがあった――殺気に違いない。

 すると、累の身体は勝手に動いていた。右肩に頭を乗せている九十九を、抱きしめるようにして背に両手を回す。そして、潜るように地面に向かって身体を捻った。

 間もなく、伏せた背の上に、風を裂いて何かが通り過ぎていく。累の、尾のような後ろ髪が巻き込まれ、地面に散らばっている。危なかった。九十九の声が無ければ、心臓を一突きにされていただろう。

 累の鼓動は騒がしく、身体の末端は小刻みに震えていた。今の凶刃によるものではなく、校舎の肉塊を見たことによる影響がまだ残っているようだ。先ほどまで、身体中を這い回っていた筈の肉塊は無くなっていた。まさか、錯覚だったのだろうか。しかし、未だ脳を浸蝕する触手の感覚がべっとりと残って吐き気を覚えさせる。身体も同様で、肉塊が取り付く感覚が粘液が纏わりつくように残っていた。白昼夢だとも思えない。それだけ現実的だった。今すぐにここから逃げ出したいという思いが、脳裏に駆け巡る。

 そんな思いに駆られながらも、累は顔を上げた。気をしっかり持て、と自分に強く言い聞かせた。背後の校舎から逃げるにしても、前にいる刺客をどうにかしなければ退路は無い。累は、突きを放った刺客に殺気を孕んだ眼差しを向けた。

 二丈(六メートル)ほど先で佇立する男は、片側の口角を異常に吊り上げて、挑戦的な笑みで累の眼差しに応えた。

「避けたか」

 男はそう言うと、槍を曲芸のように回しながら肩に担いだ。

 累は、男の顔を良く知っていた。この男も江戸の町を騒がせた旗本奴、その頭領の一人だ。

 簡単な相手ではないが、奴を打ち破って九十九と共にここから脱しなければならない。九十九の身体のことは勿論だが、それ以上に背後の異物に対する恐怖心が脳裏に渦巻いている。未だ、顔の筋肉は引き攣って汗が止まらない。とにかく――この空間は異常だ。

 自然と、左手は鞘を強く握っていた。ただ撤退するのでは駄目だ。出来る限り、障害は取り除いておきたい。昨夜のように、討ち損ねるような真似はしたくない。倒すのではなく斃すのだ。そう意を決すると、傍で倒れている九十九を見て言った。

「すまない、九十九。暫し、ここで待っ……」

 それを見た瞬間、累は戦慄して呼吸が止まった。吸った息を吐くことも忘れて、眼を見開いた。視界がぶれている。眼球が震えていた。

 それは異形だった。いつの間にか、腐った右手が九十九の服を掴んでいた。生気を感じない浅黒い肌。斑模様のように肌が腐敗してあちこち剥がれている。手の形をしているが、浮き立つ血管は緑色で、およそ人のものとは思えない。

 その手は異常に長く、辿っていくと校舎から伸びている。その腕を見ただけで背筋が凍った。

 言葉を失っていると、地面を這うように伸びていた腕が突如ぴんっと張った。九十九の身体は胴が引っ張られて持ち上がった。   

「九十九っ!」

 その身体に触れる間もなかった。九十九は、一瞬で夥しい異形が這う校舎へと飲み込まれていった。


 伸ばした手は宙を漂って、ただ、目の前の暗闇を見ていることしか出来なかった。累の目には、その校舎が巨大な化物に映った。出入口の周りには、肉塊が口のように蠢いている。

「おうおうっ、こりゃ悍ましい」

 男が言った。大きな声で、舌を巻くような独特な喋り方だ。

「こいつに飲み込まれちゃあ、一溜まりもねえな」

 一々五月蠅うるさく、舌を巻く声。累の神経を逆撫でした。

 累は、後ろを振り向いた。その眼から猛烈な怒気が放たれている。

「おぉ、怖え、怖え」

 男が、笑いながら茶化すように漏らした。槍を首の後ろに、真横に通して腕を回している。

「三浦――義也よしや

 低い声で、男の名を言った。

「おうっ、女剣客っ!昨日はやってくれたな、この野郎っ」

 三浦は一歩踏み出し、掴みかからんばかりに前のめりになって大声で叫んだ。

 累は立ち上がり、三浦に向き直ると刀を抜き、静かに構えた。

「斬る」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る