第23話 異変

「あんまりうろちょろすんなよな」

「分かった、分かった。はぁ……いよから解放されたと思ったらこれだ。どうして私の周りには口うるさい者が集まるのだろう」

 累は、下駄箱が並ぶ昇降口から、外に向かって歩きながら愚痴を吐いた。その隣を歩いて、正面玄関口で九十九は立ち止まった。

「いよさんの苦労が身に染みて分かるぜ」

 その背に、肩を竦めながら言った。ぴたっと動きを止めた累は、こちらにゆっくりと振り向く。目を見開いて眉に皺を寄せ、歯を見せている。やはり、威嚇する大型犬にしか見えない。

「さっさと勉強をしろ、洟垂れこわっぱぁっ!」

「洟垂れをやめろっ、ポンコツ!」

「何だとっ」

「何だぁ!?」

 額をびったりつけて睨み合う二人。鋭い視線を飛ばし合うが、暫くして沈黙が場を支配すると、身体から力が抜けた。

「はぁ~何やってんだろ」

「……本当にな。我々が睨み合っていても仕方ないな」

 ふと、自分達の状況をそれぞれ省みてしまった。

 思い返せば、累と学校で再開してから口論しかしていない気がした。それも低レベルの争い。まるで子供の口喧嘩だ。

「九十九……その、すまんな。子供のようなことばかり言って」

「えっ?いや……」

 累の顔を見た。視線は合わせてくれない。斜め下、何も無い地面を見ている。少し照れくさいのだろうか。頬が薄くだが赤みを帯びている気がした。

「この時代は、同じ日本であってそうじゃない。戦のない平和な世で、見たことないものがたくさんあって、飯が美味くて――私はつい興奮してしまうよ」

 累は、すまなそうに照れながら笑みを零す。

(そうだよな。俺だって過去や未来に行けたなら……)

 と、九十九は思う。自分だって興奮し、はしゃぎ、物珍しい世界を見て回ると。

「だが、この世界の法も分からぬ私が……九十九に迷惑を掛けているのは分かってる」

 累は、押し殺すような声で言った。そう、もし過去や未来にタイムスリップしてしまったら、その好奇心を上回る不安、恐怖、望郷の念が押し寄せる筈だ。当然、それは累も同様に感じているに違いない。

「それでも……九十九の近くにいた方が良いと思うんだ。守れるように」

 揺るがぬ意思を感じる芯の通った声。強い眼差しとぶつかった。

 様々な負の感情を押し殺して、昨日今日会った者の為に剣を振るうという彼女が眩しく、そして気高く九十九の眼に映った。

「累……あ、あのさ」

「あっ……」

「あ?」

 ありがとう――そう、言いかけた時だった。


「?……つ、九十九!?」

 気付くと、立ったままの姿勢で地面が近づいていた。異変に気付いた累が支えてくれた。身体が硬直している。一切の自由が効かず、痙攣したように震えている。

「お、おい!九十九っ、どうした?大事無いか!」

「かっ……からっ、だが……う、うご……うご、か……が……」

 状況を伝えようと、猿轡さるぐつわを噛んだような口を必死に動かした。九十九は、パニックに陥っている。昼間にこれが起きたのは初めてだった。

「動かない?……どういうことだ?」

 累は、九十九を抱きかかえながら、最低限の言葉を読み取った。さらに言葉を続けようとするが、ただ歯が震えるばかりで、だらだらと垂れる唾液が、累の羽織を汚すだけだった。

「がっ……あっ」

 もう、声を発することが出来ない。身体を動かそうと藻掻けば藻掻くほど、硬直が進んでいく。普段よりも強いものだ。

「くっ……誰か、誰かいないか!」

 累の肩に顎を乗せて、刺すような日差しが降り注ぐ外界が視界に映る。九十九には、累の表情を窺うことは出来ないが、助けを求める声には動揺が多分に含まれていた。

「おいっ、誰か!誰か来てくれっ」

 累の声だけが、校舎内に反響しているようだった。その声に応える者は誰もいない。まるで無人かのような静けさ。それどころか周囲の喧騒も消えているようで、不自然な静寂に包まれている。

「くそっ……反応がない。一体何がどうなって……っ!」

 累の言葉が途切れた。と同時に、周囲が雲がかったように薄暗くなった。九十九は、累の様子を探ろうと動かせる眼球を精一杯動かした。横目に見た累は、首の角度から真上――校舎を見上げているようだった。

「な……なんだ、あれは……」

 累が、愕然とした様子で呟く。身体は硬直し、声も出せない九十九には、何が起きているのかが分からない。ただ、目を動かせる範囲の景色を見ていることしか出来なかった。

 この学校に何かが起きているようだが、外を見る限り多少薄暗くはなったものの、何か異変が起きたようには見えない。正面には等間隔に植えられた樹。その向こう側にはグラウンドが広がっている。右手側の道は校門に繋がっていて、視界の端で僅かに校門を見ることが出来た。何も異常はない。いつも通りの光景――じゃない。

「……!?」

 等間隔に植えられた樹と樹の間。その向こう。グラウンドからこちらに向かって歩いてくる者がいる。彼我との間にはまだ距離があり朧気だが、その姿は明らかにこの時代のものではなかった。

 その者は、上下白色の袴と羽織をはためかせて、悠然と歩いている。しかし、九十九がより目を引かれたのは、その出で立ちでは無かった。肩に担いでいる長大な棒――いや、槍だ。長い棒の先端に鋭利な刃物が突き出している。それを確認した瞬間に、身体が反応し身体中から汗が滲む。来た。早くもあの鬼面と同質の存在がやって来たのだ。

「はっ……あっ、ぐっが……る……」

(累っ!)

 累は、まだ背後の存在に気付いていない。徐々に男の姿が大きくなる。近づいている。顎が、岩のように動かない。九十九の経験上、この症状がでた場合何をしても無駄なのは分かっている。だが、じっとしていられない。

(くそっ……動け!)

「ぐうっ……ぐうぅう、がぁ、ああぁ……るっ……い」

 今までは諦めていた。この硬直が解けるまでじっとしていた。なにをやっても駄目だった。しかし、どうにか克服を試みる。口、顎、舌、喉に意識を集中させていく。

(累っ!すぐそこにいるんだっ、累!)

「はぁっ……る、い……はぁ……累!」

「!?――九十九っ」

 やっと絞りだした声。累は、声に気付いて九十九の方へ顔を向けた。その瞬間には、累は目の端に、槍を構える男の姿を捉えていた。

「っく!」

 累は、咄嗟に寄りかかる九十九の背に手を回し、身体を後方へ捻った。回転した九十九の身体は空を向いている。上空を凶刃が通過していた。速すぎる。気付いた時には、槍はもうそこにあった。累の黒髪が数本、突きに巻き込まれ、ぱらぱらと地面へ向かって舞った。

「避けたか」

 男が、楽し気に言った。

 九十九は、ようやく累の顔を見ることが出来た。その表情にたじろぐ。

 青ざめ、唇が震え、大粒の汗が流れている。一体累に何が起こったのか。それでも累は、牽制するように男を睨んでいたが、やがて仰向けに倒れる九十九に視線を落とした。

「すまない、九十九。暫し、ここで待っ……」

 累は、言いかけて、止まった。その目が大きく見開かれている。その視線を追うと、九十九の胴体に向けられている。九十九も動かせる範囲で小さく首を動かし、目も精一杯下へ向けた。

 何かに制服が掴まれているようだった。手だ。老いた手。腐敗しているのか浅黒く、皮膚が所々剥げてしまっている。生理的な嫌悪と恐怖を抱かせる手が、九十九の制服を強く握っていた。その手の先、腕は校舎内まで長く伸びている。校舎内は暗闇だった。真っ暗な闇。目を凝らしても何も見えない。

 瞬間、その腕が強く引かれた。抗いようがない力に身体が容易く浮く。

「九十九っ!」

 累が手を伸ばす。が、止める間もなかった。途轍もない速度で校舎に引っ張られる。九十九は、井戸の底へ落ちていくような感覚を覚えた。やがて光は遮られ、闇が視界を覆った。

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