第18話 黒猫の尾を追って

 左右に揺れる尻尾。黒猫はのんびりと道を歩いていた。その後を一定の間隔を開けて累がついて歩いていた。

やはり、あの黒猫はだたの猫ではないらしい。勿論捕まえようとした。捕まえようと距離を詰め、走り寄るとその姿はすっと掻き消えた。まるで風に吹かれる砂のように消えるのだ。何度か試してみるも素直に捕まる気はないらしい。その癖、離れると姿を現し、ついてこい、とでも言うようにこちらへ振り返り、また呑気に尻を振って歩き出す。累は仕方なく猫の後をついていくしかなかった。


 累は歩きながら、改めて四〇〇年後の町を観察した。九十九と出会った場所、あれが橋だとすれば吾妻橋で、ここは橋向こうの本所の辺りだろう。

 これだけの時間が流れれば当然なのだろうが、過去の面影はまずない。隅田川の河口に位置するこの本所は、水はけの悪い湿地帯で人が住むのに適した地域ではなかった。しかし、周囲には九十九家と同じような住居が立ち並び、湛水たんすいしていた道も、何かを敷き詰めて塗り固めているのか、草木どころか土すら見えず整備されている。その歩きやすさには驚いた。そして、時々通る大きな箱。馬を越える速度で横切っていくそれは、中に人が乗っていて牛車のようにも見える。累はそれが通る度に柱や物陰に身を隠しやり過ごした。


 行き交う人々の服装は、九十九と同じような恰好の者もいれば初めて目にする服を着た者もいる。

 九十九の云った通り、帯刀している者はいないし月代さかやきを剃った者もいなかった。そんな人々の奇異の目を無視して黒猫の後を歩いた。

 黒猫は、他の人間には見えていないようだった。大きな箱や、人が跨った車輪の付いた小さな車。それらが猫の上を通ったり横切ったりしている。明らかに轢かれているのだが、その身体には傷一つ付いていない。ただ通り過ぎるだけだ。周囲の人々は黒猫の存在をまるで無視していた。


 黒猫と町の様子を観察しながら歩いていると、背後から何者かが近づいて来る気配があった。

「ちょっと」

 振り返ると男が立っていた。

 黒い袴……のようなものに青色の服を上半身に着ている。累と目線が丁度合うぐらいの中背。肥満とまではいかない腹の肉が、盛り上がって服を押し上げている。頭になにやら載せているが、それが何かは累には分からなかった。男は訝し気に累を見ている。

「なにか?」

 男に危険な空気は感じないが、自然と声が硬くなる。すると、男は表情を崩した。


「すみませんねぇ。ちょっとお時間もらえるかな?」

「いや、申し訳ないが先を急いでいて……」

 累は振り返って黒猫の姿を探した。黒猫は止まらず、少し離れた所を歩いている。後を追いたいが、男は続けて口を開いた。

「こんな所でなにしてるのかな?何だか物騒なもの持ってるようだけど」

 男の視線は腰の刀に注がれている。こちらの表情を窺っているのか、男の顔が、累の腰と顔を行ったり来たりしていた。

「その前に名乗ってもらおうか」

「は?……いや、警察ですけど」

 見ればわかるだろう、とでも言いたげに男は眉を上げ、呆れ顔だ。

「けいさつ?貴方の名前か?」

「いやいやいや……そうではなくて。ちなみに私は小島と言います」

「小島殿、私は佐々木累。で?私に何か用か?」

「用というか……まぁー職務質問させてもらいたいなと思いましてね」

「職務質問?とはなんだ?」

「今、貴女がなにをしているのか、危険な物を持っていないかとかねぇ」

 累に分かるように頭を傾げて刀に目を遣った。

「何故貴方に言わなければならない?」

「いやぁ、何かあってからでは遅いでしょ?だから、ちょっと気になる人には声掛けさせてもらってるんですよ」

「私なら大丈夫だ。心配には及ばない。では」

 黒猫の後を追おうと振り返り、歩き出そうとすると小島が回り込んで行く手を阻んだ。見た目の割に機敏な動きを見せる。

「ちょっと、ちょっと!話は終わってないよ?」

「いやだから……先を急いでいるんだと……あぁっ」

 小島越しに黒猫を目で追う。しかし、少し先を歩く黒猫は振り返って一瞥すると、地面に沈むように消えてしまった。


 はぁー、と溜息を吐いて肩を落とした。

 あの黒猫が、またいつ目の前に現れるとも限らない。何か手がかりが得られたかもしれないのに。累は不満顔を小島に向けた。

「あぁもうっ、行ってしまったではないか!いい加減くどいぞ」

「何を言ってるの?君ぃ、家はどこ?家族は?身分を証明出来るもの出して」

「がぁああっ!お主は……何なのだっ、何を言っているのかさっぱりだ!もう、放っておいてくれっ」

「えぇ……参ったなぁもう……あっ、だからだめだって!」

 累が歩き出せば横を歩き、ぴったりと付いてくる。ただ付いてきて、質問するだけ。いっそのこと手を出してくれれば、こちらとしてもやりやすいのだが、などと考えて苛立ちが募る。


 武士はいない、と九十九は云った。武士がいなければ刀を持つ者はいない。道行く人々も、誰一人として刀を佩く者はいなかった。

 豊臣秀吉が行ったような刀狩りが、この時代でも起きたのだろうと累は推察した。かつての刀狩りは武士は除かれていたが、その区別なく、この国の民は刀を没収されたのだ。だとすれば、帯刀すること自体が法度に触れることなのかもしれない。また、九十九は捕まる、とも云っていた。この横にぴったりくっ付く暑苦しい男が名乗った『けいさつ』とは、岡っ引のことではないか。ならば慎重な対応をしなければならない。

「はぁ……小島よ、どうすれば放っておいてくれるんだ?」

 累は立ち止まって、うんざりした口調で言った。もう敬称は省かれている。小島の顔からは汗が止めどなく流れていた。小島は、額を拭って息を整えてから言った。

「その腰の物を預からせてもらおうかな」

「それはできない」

 即答で答えた。

「んー、住所は?」

「分からん」

「誰かご家族の電話番号とかは……」

「知らん」

「……あのねぇ……」

 聞かれていることが何一つ分からないのだから仕方ない。仏頂面で答える累と困り果てる小島。その光景を前に、少なくない人だかりが出来始めていた。

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