第16話 恐怖の教室

「おはようございまーす……」

 九十九はゆっくりとドアを開けて教室に入った。

 二年B組に在籍する三十人余の生徒の視線が、九十九に集中した。その中の数人からは明らかに非難と軽蔑の色が混じっている。

 それらを無視して教卓の方に顔を向けた。 担任教諭である岡村雪は、振り返る様子もなく背を向けて板書を続けている。

 生徒達は静まり返り、チョークが黒板を叩く音が異様に大きく聞こえる気がした。


「前を向け」

 岡村がチョークを走らせながら言うと、着席している全員が一斉に前を向いた。

 九十九は、この様子に思わず肩を震わせた。自衛隊の基本教練さながらの動作。生徒と教師というよりは、訓練生と教官の関係性。この二者を結びつけるものが恐怖であることは言うまでもない。

「あのー、先生?」

「……」

「……おーい、ゆきちゃん?」

「……」

 岡村の耳はシャッターを降ろしてしまったらしい。無視を決め込んで黒板に向かっている。

 九十九は、そろそろと窓際、後ろから二つ目の自分の机に向かった。席に着くとがっしりと肩を鷲掴みにされる。振り返ると、後ろの席の菊池一輝が目に涙を溜めて悲痛を訴えた。

「おっそいんだよぉ、おまえぇっ!」

 一輝は、最大限声を押し殺して叫ぶ。その叫びは今にも号泣に変わりそうだ。驚くほどの力で肩を揺すられ、視界が激しくぶれる。

「バカ」

「ぁ……アホ」

 女子の小さな声と共に丸められた紙屑が頭に飛ぶ。

「ちょ、やめろっ……マジでこれには理由が……てか、お前らに……謝る必要はっ」

「あるだろうがぁっ!何故かゆきちゃんにとっては俺とお前はなぁっ」

「いてぇ、いてぇ!わ、悪かった……ゴメン……ゴメンって……」


「阿原九十九」

「はいっ!」

 すかさず前を向いて姿勢を正した。背筋はこれ以上ないほどに伸びている。

 九十九にも、このクラスの基本教練が身体の細部に渡って染み付いている。岡村は板書の手を止めこちらを向いている。縁なしの眼鏡の奥、温度のないさげすんだ眼で九十九を見据えていた。

「旧石器時代の打製石器が採集された遺跡は?」

「えっ?マチュピチュ?」 

「飛鳥時代、推古天皇の摂政として政治を補佐した人物は?」

「お、小野妹子?」

「奈良時代末期に編纂へんさんされた日本最古の和歌集の名は?」

「……古今和歌集?」

「……菊池。正解はあったか?」

「はひっ!た、多分ない……です」

「多分?」

「うひぃっ、すみません!」

 一輝は目を向けられると、情けない声を出して怯えて顔を伏せた。

 岡村は再び九十九に視線を戻す。途轍もない威圧感が九十九に襲い掛かる。目が小刻みに揺れ、冷や汗が顔を伝う。


「正解はない。中学からやり直すか?阿原」

「……す、すみません」

「で……遅れた理由は?まだ聞いてないが」

「いや、そのー……えーとですねぇ」

「簡潔に答えろ」

「し、親戚!親戚の子がこっちに来てて……ちょっと世話をしてて」

「学校を遅れてまでする世話とは何だ?電話ぐらい出来ないのか?流石にお前でもスマホは知ってるだろ?」

「それは、その……」

 岡村が、ゆっくりと九十九の元に向かってくる。一歩ずつ、足音がする度に心臓が跳ね上がった。

「どうなんだ、阿原。先生の目を見て答えなさい」

「あ、あぁ……」

 そっと顔を上げる九十九。

 目の前に立つ岡村のごみを見るような目に言葉を失う。呼吸が浅く乱れていく。

「あぁ、授業が遅れるなぁ……皆が迷惑しているなぁ……早く本当の理由を教えて欲しいなぁ……なぁ、阿原」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る