第15話 剣客の日課
「……」
四角く薄い板。その中に数人の奇妙な恰好をした者達がいる。
その者達は、身振り手振りでなにやら議論しているらしい。内容は皆目見当もつかない。木板ほどの薄さにも関わらず、人がいて声も聞こえる。板の横っ面を叩いてみる。反応がない。
「おい……おーい……何とか言わないか」
こうして何度か声を掛けてみても応える者はいなかった。
やがて、意思の疎通を図ることは諦めた。板の両端を押さえていた手を離して、正座で板の人々をぼうっと眺めていた。
佐々木累は、昨日のことを思い出していた。この時代に来る前のことだ。
初夏の西日に照らされた雷門。慌ただしく息を切らしながら走る二つの人影。二人以外に境内に人の姿はない。清浄な
宝蔵門を抜けると同時にみえる五重塔が、不気味に急ぐ二人を見下ろしている。本堂への道すがら点々と横たわる屍体。どれも剃髪の黒衣を着た僧だった。それらは例外なく血溜まりに浮いている。浅草寺は死屍累々の様相を呈していた。
やがて、本堂の前に辿り着く。眼前には
鬼面を思い出すと同時に、昨夜の水野の言葉が脳に響く。
「あんたのせいでこうなってんだぜ?」
窓の外に目を遣る。澄み切った青空に綿菓子のような雲が漂う。時がゆったりと流れる穏やかな日和。
(私が片を付けるしかあるまい。九十九は死なせない)
累は静かに心に誓う。死なせない。それは九十九があの金属を持っているから、というだけではなかった。
出会ったときは、剣の心得もなく無様に逃げ惑う軟弱者と内心思っていた。だが、彼の強さはその先にあった。
切先が胸に突きつけられる。万事休す。絶体絶命。そんな死に直面した時のあの表情。あの眼。肉体を超越する精神性を垣間見た気がした。自分の心を奮い立たせるような何かがあったのは確かだ。
そして、その人となりも好ましいものだった。弟を気に掛ける善き姉と二人暮らし。なんだかんだと生意気を言いながら世話をしてくれた。こんな得体の知れない女を。
「……ふふっ」
からかった時の赤面を思い出して苦笑した。いい年をして何をやっているんだか。
そう思いながら、おもむろに立ち上がって大小を腰に
窓の外、透明な板の向こう側には小さな庭が広がっている。累は引いたり押したり、開けようとするもののびくともしない。
錠がされているのかもしれない。窓の四方を注意深く観察する。すると中央に錠らしきものを発見した。一般的なクレセント錠だが、累には分からない。累はその外観を観察し構造を把握した。
「ふふんっ……こんなもので私を閉じ込めておけると思うなよ、九十九よ」
真上に伸びるレバーを下げ、窓を開けると、もう一つ戸があった。全面に網が張られた戸だ。それには錠はされておらず、簡単に開く事ができた。
爽やか……とは言えない生温い風が頬を撫でた。
元いた時代と比べると随分と風が重いように感じたが、新鮮な空気を吸えるだけで良かった。
累は、深呼吸を一つすると庭へ降り立った。
庭の全面に敷き詰められた柔らかい芝が足を包む。整備が行き届いているのか、均等な長さに刈り揃えられている。
そっと柄を握ると、太刀を抜いた。刀身を立てると、刃先が陽に反射して鋭く光った。
反りの浅い
「……シッ」
瞼を閉じて、声もなく太刀を振るう。
こうして、ひたすらに素振りをすることによって、
刻の経過も忘れて、もう何本振ったか分からない。ようやく筋肉に乳酸が溜まり始め、その腕が重量を持つ。ほど良い疲労感が心地良い。
そのまま痛みを無視して振り続けていると、何もない思考に何かが入り込んできた。
気配を感じる。耳障りの良い鈴の音が鼓膜を震わす。それに殺気はない。というよりも人ではない……か。
これで最後と一際強く振り降ろして、ゆっくりと瞼を開いた。日光が目を焼くが、じき馴染んだ。気配の方に目を遣る。家の前。住居同士を隔てる塀の上。一匹の黒猫が歩いていた。妙に長い尾が陽気に揺れている。
「お主……もしかして昨日の」
九十九に向かって刀を振り上げる水野。その二人の間に割り込んできた、あの黒猫。
不思議と偶然には思えない。今、思い返すと、明確に意思を持って行動していたようにしか見えなかった。
黒猫は累を一瞥してニャオンと鳴いた。それから首を前に戻すと、塀の向こう側へと鈴の音と共に姿を消した。
「あっ!おい、待ってくれっ」
あの黒猫は普通の猫とどこか違う。あの類は江戸でも稀に見ることがある。
自然と身体が動いていた。「あっ」と裸足であることに気付き、急いで家に戻り草履を履いて家を出た。玄関扉の錠の構造も単純で、つまみを回すと簡単に開いた。
外に出ると黒猫の姿を探す。いた。先ほど黒猫がいた場所からそう離れていない。猫は道の中央を堂々と歩いている。累は一度振り返って家を見上げた。それから首を回して周囲の景色を記憶する。
(深追いはしない。九十九が帰ってくるまでに戻ろう)
勝手に出ていって迷子になったとあっては目も当てられない。
そうして景色を目に焼き付けると、黒猫のご機嫌な尻尾に向かって歩き出した。
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