第10話 現在と過去
「本当に身体は大丈夫なのかよ」
ひとしきり言いたい事を言い合って、今はキッチンの傍に置かれたテーブルに二人で座っていた。累は椅子の上で正座している。この方が落ち着くらしい。
律は二階の自室に行ったかと思うと、二人の言い争いを完全に無視して支度を済ませ、「九十九、責任持って送ってやんなさいよ」と言って仕事に行ってしまった。しっかりしているようで大雑把な姉である。累の事は何一つ分かっていないが、出来の悪い弟の軟派相手という事で納得したらしい。
「心配性だな。問題ないさ。このくらいの傷はいつもの事だから」
浅い切り傷の付いた腕を
「さっきは……ありがとな」
気恥ずかしさから口をもごつかせながら言うと、きょとんとした顔を向ける。
「何だ?」
「さっき、姉貴に誤魔化してくれただろ?」
累は「あぁ……」といって自嘲気味に笑う。
「少し苦しかったかな。律殿には悪い事をした」
「いや、いいんだよ。真面目に話しても信じてくんねーって」
九十九は、般若の形相の律を思い浮かべて苦い顔になった。
「九十九……ここは、日ノ本……なのだよな?」
累は、恐る恐るといった様子で聞いた。十中八九そうだろうが、確信が持てないでいるのだ。
「あぁ、そうだよ。日本だ」
「しかし、余りにも……違い過ぎていて……」
「慶安四年の江戸とは……か?」
「そうだ」
当然だと言わんばかりの返答だった。その視線を受け止めきれず、思わず目を逸らした。
昨夜の騒動から一夜明け、夢だと思いたかったが依然として佐々木累という剣豪は存在している。厳然たる事実として認識しなければならない。そして彼女にも受け止めてもらう必要があった。
「累……ここは、日本で間違いないし……場所も浅草なんだが、時代が違うんだよ」
「時代が違う……」
眉間に皺を寄せて九十九の言葉を繰り返した。
「昨日、襲ってきた奴から聞いたけど……徳川家綱が将軍なんだって?」
「ああ……三代将軍家光公が御逝去されて、未だ幼い家綱様が宣下をお受けになる」
「それが一六○○年代だと思うけど……今は二〇二一年。四〇〇年未来の日本だ」
「……四○○年……先の日ノ本……」
予想に反して、累にそれほどの驚きは見られなかった。身じろぎもせず、九十九の言葉を飲み込むように
「驚かないんだな」
「そんな事はない。驚いているさ。だが……なんとなくそんな気もしていたんだ。四○○年も先だとは思わなかったがね」
落ち着いているようだが、その顔に色はなかった。移動した年月の途方もなさを嚙み締めるように目を閉じ、俯いた。
「神君家康公からなる徳川幕府の太平の世も永世ではなかったのだな……」
「……でも、結構長く続いてたはずだぜ?ちょっと待てよ……」
九十九は、スマートフォンを手に取って検索エンジンを開き、『徳川幕府』と入力した。ディスプレイに表示された大量の検索結果から適当なサイトを選んで開いた。
「今から……一五〇年くらい前に幕府が終わってる。だから幕府は二六〇年続いたみたいだな」
関ヶ原の戦いの後、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康が江戸に幕府を開いた。一六一五年には大阪夏の陣において豊臣の遺臣を一掃し、一四○年に渡って続いた群雄割拠の戦国時代に終止符を打つ。黒船来航から始まる動乱の幕末期に突入し、明治維新を経て日本は近代化へと歩を進める事となる。考えてみれば江戸幕府が終わってから、まだ一五〇年程度しか経っていない。ほんの少し前、この日本には
「そうか……二六〇年……足利幕府を凌いだか」
足利尊氏によって拓かれた室町幕府は約二四〇年続いたが、江戸幕府はこれを上回る長期政権だ。諸大名を統治する武力、広大な直轄領を支配して得た金や、外国貿易を独占した事による経済力。その室町幕府を越える長命な支配体制を築いた江戸幕府の努力が窺える。
「さすれば、この時代には戦はないのか?」
「ないない」
九十九は手を振って答えた。
「少なくとも日本ではな。もう刀を持つ人もいないよ。そんなもん振り回してたら捕まっちまう」
「しかし……武士は佩刀しているだろう?」
「その武士がいないんだって」
累は「なんと……」と呟いたまま、黙り込んでしまった。
武士といえば、古くからこの日本に根付いてきた支配階級である。源平の時代に武家政権が成立するとその後、江戸時代に至るまでその威信を持ち続けるが、明治維新を境としてその存在は消えている。当時の人間からすれば、武士がいなくなるなど考えもしないことだろう。
黙ってテーブルの一点を見つめている累を見兼ねて話しかける。
「でもさ……良く分かんないけど、累がいた頃も戦なんてもうなかっただろ?戦国時代終わったんだし」
「そう言いたい所だが……それがそうでもないんだ。大阪の大戦から島原の一揆……徳川将軍家が世を治めるようになっても、未だ戦国の遺風というものはどうしても残る。旗本奴のような者もいるしな」
「旗本奴……?」
九十九は、昨夜の記憶を思い返す。確か、累が忠吉や弥七に向かってそう言っていたのを思い出していた。
「昨日の奴らにもそう言ってたよな?なんなんだそれ」
「先ほども言った、戦国の遺風というやつを特に色濃く残している連中の事だ。将軍への謁見も許された徳川直参の身でありながら、乱暴狼藉を働く不埒な者共よ」
累は、吐き捨てるようにそう言って目を細めた。
「乱暴狼藉って……そんなんが未来に来ちまったのか!?」
「昨日……鬼の面を被った珍妙な者がいたろう?あれは、その旗本奴の集団『六方組』の一つ『大小神祇組』の首領だった男だ」
累の口から出る聞きなれないワードに、既に頭は混乱していた。特に日本史が得意というわけでもない。分かるのは、歴史の表舞台に立った代表的な人物のみである。
「そりゃあ……物騒だな」
「ふんっ、傾奇者だかなんだか知らぬが、ただの無法者に過ぎない。窃盗、放火、喧嘩に辻斬り、町奴との
この女剣士は、心底彼らを
次々と出てくる不穏な言葉に頭を抱えたくなるが、先の集団という言葉が引っかかる。テーブルに手をついて、前のめりになって累に迫った。
「集団って……未来にきてるのは鬼のやつだけなんだよな?」
先に遭遇した忠吉と弥七は累が斬り斃している。残るは鬼面の水野か。それとも……。
「……言いにくいが、恐らく奴だけではないだろう。首領どもが来ている筈だ」
「噓だろ……」
九十九は、崩れるようにテーブルに突っ伏した。あんな化物のような侍が、まだまだいるというのか。
「恐ろしくなったか?心配するな、私の刀捌きで……」
くうぅ……。
一際大きな音が部屋に響いた。突っ伏しているテーブルから振動として伝わるほどだ。
思わず顔を上げると、九十九とは逆にテーブルに額を付ける累。
「すまん……九十九ぉ……なにか食わしてくれないか……」
先ほどまでの剣呑な空気は消え、蚊の鳴くような声で懇願する剣豪がそこにいた。
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