第2章 Prologue

 ルチルが私を抱きかかえる手は、例え見えない血で汚れていたとしても、何時も優しかった。

 私は生まれてこの方一回も歩いたことが無い。ハイハイをしたことすら無い。

 腰から下の感覚は一切持ったことが無かった。

 腰から下の神経だけ深海に沈めたように遠い、膜の中にあるみたいだ。

 歩けないのは不便だと言う人は多い。実際そうなのだろう。だが、私自身に限っては、歩きたいと思ったことも無い。

 だが、眠る時にベッドに行きたいとは思う。

 日々大量の執務をこなした私の身体はそれなりには疲弊し、無理に姿勢を保って位置すら変えられない私の腰はぼろぼろ、足は、マッサージなしには血流が滞り腐ってしまう程度に弱っている。だから、人並みにベッドでは寝たいところだ。

 特段の不自由は無い。大抵はルチルが、さもなければ他の雌ライオン、と言うべき私の部下が運んでくれる。

 窓は既にカーテンが閉じられているが、それでも漏れて見えるほど美しいウルフムーンとやらが輝いている。

 ルチルは私をいつも仰向けにベッドに寝かせる。


「ルチル。おいで」


 去って行こうとするルチルの背中に、首だけ向けて声を飛ばす。私は寝返りを打つことはかなり難しい。

 それでも別に、構わない。

 こうやって、ルチルはちゃんと呼べば来てくれる。

 手を広げるとルチルは私の腕の中にすっぽりと身体を収める。その、くびれた腰を折るのは簡単そうだ。

 香水の香りが鼻孔を擽る。それはほんのわずかだが、獣がわずかな臀部の匂いで全ての関係性を悟るのと同じで、彼女が私のものだと確認させるには充分だ。

 これは私の香水の香り。

 私は、まさにライオンのように首に頭を擦りつける。ルチルは全く表情も変えない。声も上げない。

 頭で彼女の白金を梳いて貼り付けたような髪を退けて、首筋を見つめる。

 余りにはっきりと残る、私の噛み痕。


 下半身が動かないからと言って、完全にできないと誰が言った?


 この美しい雌が私の上に跨って、私の命令に沿って動くのを楽しむ。これもまた一興。

 お互いが出来る方法を探るのも愛。

 最高のコミュニケーションじゃないか。

 馬鹿どもはこれができやしない。

 雄が組み伏せて雌に入って行く「普通」に固執する。


「今夜こそお前を啼かせることに成功したいものだ」


 喘ぐ声すら無くても。

 事実、繋がってすら無くても。

 二人は確かに肉体的に繋がっている。


 私が耳の線をなぞるように舐め回すと、彼女は瞬きもせず、私の耳に噛み付いた。


 これは今夜の、交尾の合図。

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