第29話


 その動きが、ジェードには見えていた。恐らくこのフリースペースにいた殆どが目で捉えていただろう。此処にいるような人々は、視力や集中力を研ぎ澄ませるよう訓練しているからだ。大抵の事態を、目で追い、判断することはできる。

 だから、目で追いつつも、誰も動かなかったのは、その動きを放置していても自分に害が無い、或いは放置しておいた方が得策。そう、皆が瞬時に考えたからである。

 こう言う時、景色が見えていないのは、案外、当事者だったりする。視野が狭まっているのは、冷静さを欠いたものの特徴だ。それが生死を分ける。ジェードは、ほんのコンマ一秒の間に、そんなことを考えた。

 真珠が、その震える手で刀を振り上げる直前に、クンツァイトが後ろ足を蹴り出していたのだ。

 翻る赤い天鵞絨のマント。その口元には笑み。手にはサーベル。

 羽より軽く食卓を飛び越え、更に、チャロアイトの頭上すら靴の先で掠めながら背側に着地。それを見上げるように、ひん剥いた目でチャロアイトがクンツァイトを捉えた時には、サーベルの鋭利な切っ先が、チャロアイトの薄っぺらな体をいとも簡単に貫いていた。


 チャロアイトは、鬼か死神を見たような目でクンツァイトを振り返った。

 構わずクンツァイトがサーベルを抜くと、血を噴き上がらせつつチャロアイトは血だまりの中に倒れた。

 仰向けになって目蓋すら閉じず、ただ、動かなくなった。

 まるで、良く出来たマネキンのようだった。

 まだ噴き出し続けていた血も、ウヴァロヴァイトが口を開く前に、止まった。


「クンツァイト。チャロアイトをどうして殺してしまったんだ」


 チャロアイトの血を噴水のようだと思って眺めていたジェードは、ぼんやりと、人間の血って無尽蔵じゃ無いんだなぁと思った。

 ついさっきまで、一緒に捜査をしていた人間が目の前であっさりと死んだ。しかし、そんなことを心配している場合では無い。

 チャロアイトは、ジェードの味方だと言った。

 だから何だ?

 自分の味方だという人に、此方も味方でいてあげなければならない訳では無い。

 悲しんでしまったら、悲しんでいると周りにバレてしまったら、ジェードもまとめて始末されるかもしれない。


「ジェード。此処に来い」


 ジェードは、チャロアイトの遺体を踏み越え、ウヴァロヴァイトの隣に立った。

 自己責任。

 奇しくも、チャロアイトが今日、最初にジェードに向かって言った言葉がぴったりだった。

 チャロアイトがここで始末されたのも自己責任。

 そもそも、此処でクンツァイトたちに逆らうこと自体が勝ち目のない命知らずだったから。そもそも、このマンションに住むような生き方をしていなければ。真珠から見てみれば、チャロアイトが友人を助けようとしなければ。

 今日、チャロアイトはここで息を引き取らなくて済んだのだ。

 しかし、真珠はふらふらとチャロアイトに近寄り、遺体の背に手を入れて抱き上げて泣いた。

 チャロアイトの人生が何処から間違っていたのかと思うと、結局、生まれた日から此処でこうなることが決まっていたのではないかと錯覚するほど、人生と言うのは複雑に絡んでいるものだったから。


「我が名はクンツァイト。このクンツァイトの考えは法である」


 クンツァイトは、両手を広げ、ウヴァロヴァイトに微笑みかけた。

 それは、何を言っても、自分がしたことは正しいという強い意思表示に見えた。


「折角私が情報を引き出そうとしていたのに。全く……」


 これ以上は何を言っても確実に無駄であり、それでいて余り突くと、機嫌を損ねて自分の命を狙われかねないためか、ウヴァロヴァイトはそれ以上責めようとしない。首を揺すり、一旦黙り込んでから、改めて右手を挙げ、


「ベロニカの餌の時間だ」


 と、言うに留まった。

 その言葉を受け、部下たちがぞろぞろと、遺体を屋上に運んで行く。

 ルチルだけは、血だらけの付近の掃除をするためか、直ぐに戻って来て、モップを動かし始めた。


 真珠はいつまでもさめざめと泣いていたが、やがて立ち上がって涙を懐紙で拭いた。そして、片付けの喧騒に隠れて、ジェードのところに近付いて来ると、


「アルマンディンが死んだ謎を調べるんだろう?」


 と、耳打ちして来た。


「結局、チャロちゃんが何をしたかったのか……分からないままだった。僕は気になるんだ。友達として……チャロちゃんが、僕を友達と思ってくれていたかは、もう分からない。多分、友達だなんて思われてなかったんだろうな、だけれど……少なくとも僕はそう思っていたから。それが、アルマンディンの死の真相が分かれば、一緒に分かると思うんだ」


 本当に、人の為に動く奴って言うのはバカだな、と思う。命の危険も知らないで――だったら一人でジェードの代わりに全部やってくれよ、と思った。勿論、そんなの無理だけど。

 こうして、ウヴァロヴァイトに話を通し、ジェードは真珠と共に推理をすることになった。


 こんなことなら、最初にチャロアイトが怪しいと思った時からチャロアイトが犯人だったことにして、命を奪ってウヴァロヴァイトの前に連れてくればよかった、とジェードは思ったが、もはや後の祭りだ。

 先ず、ウヴァロヴァイトは、ジェードにそれまでの捜査内容を報告させた。そして、再びルチルをお付きに寄越し、静かに捜査を続けろと命じた。

 真珠を連れて改めて捜査を再開することになったジェードだが、すべきことを考えあぐねていた。はっきり言って、これだけ調べてアルマンディンの命を奪った者の確証が出ないということは、もう犯人は尻尾を出さない慎重な人間なのでは無いかと思うのだ。


「もし良かったら、僕としては、チャロちゃんのお部屋に行きたいんだ」


 チャロアイトに、何かしらの怪しみを感じていたウヴァロヴァイトも、これを承諾した。特に展望もないジェードも、それに従うことにした。

 ジェードは真珠を連れ、マスターキーでチャロアイトの部屋のドアを開けた。


 チャロアイトの部屋は、先程、ここの家主が出掛けた時から何も変わってはいなかった。

 敷き詰められた土に、巨大な木が部屋を貫かんように植えられ、その周囲を美しい蝶が飛び回わり、壁に無数の蝶の標本が掛けられている。気温は暖かく保たれ、少し誰もいなかったからだろうか、ジェードは吐き気すら覚えるほど、飾られた花の香りが充満していた。

 此処を蝶の楽園か、蝶の死体が飾られた美術館か、多くの標本が生み出された蝶の墓場と見るかは、評価が分かれそうだ。


「レテノールアゲハの雌か……珍しいな……」


 その蝶々の一匹を真珠が追い掛けて呟く。かくも情緒の豊かな人間というのは、蝶を見てこんな美しい顔をするのか、と溜息が出そうな、夢心地の表情だった。


「チャロちゃん……チャロちゃんは、今日、この部屋を出る時、今日自分が殺されるなんて思ってなかったんだろうな……」

「彼奴は何時だって、この世界に身を置きながら、自分は生き延びられるって慢心があった」

「そう言うことじゃない。誰だって、今日起きて、嗚呼今日自分は死ぬんだ、なんて分からないものだよ。でも、いつか必ず人は死んでしまうんだ……なら何で生きてるんだろう」

「如何でも良いんだが俺は死にたくない。そんなこと考えてる暇があったらアルマンディンを始末した犯人を見付けてくれよ。その後、好きに黄昏てくれ」


ジェードは、一先ず片端から蝶の収まった額を外して歩いた。


「エーミールがいたら絶望されそうだね、鬼太郎」


 蝶の標本が引っ繰り返されるのを見て、真珠は訳の分からないことを話し掛けて来続けている。


「ねぇ、聞いてよ……そう言う意味では、僕達に本当の意味で生きる意味なんてあるのかな。皆、何時かは死んでしまうし、そのタイミングすら分からない。例え子供を残したって、その子だって死ぬし、孫がいたって、その子だって死んで、作品を残したって、いつかは忘れられていって、なら何のために生きれば良いって言うんだ」

「生きる意味なんて考えるのはインテリで、インテリぶっていられるのは金持ちだけだ。優遇されてるんだよ、おまえら金持ちは。貧乏人は、そんな暇も無い。それでいて、そう言う、生きてる意味みたいなのを語る金持ちは、結局、苦しむ貧乏人を助けてはくれない。何かそれっぽいことを考えてる暇があったら、動いて助けてくれればいいのに」

「やっぱり死なない僕の家族こそが完璧な価値のある存在だよ」


 もう死んでいれば、もう死なない。死に得ない。ちょっと、詩的ですらある。ジェードは詩を読まない。

 蝶の標本をぶちまけて、しかし其処には何も無かった。壊れた蝶の、死骸の、鱗粉がふりまかれただけだった。

 真珠はそれを悲し気に見下ろした。


「チャロちゃんの顔の入れ墨は何を描いたものだったか知ってるかい」

「アゲハ蝶じゃないのか」

 

 ジェードはぼんやりと答えるしかなかった。蝶々の種類なんて知らない。


「チャロちゃんの入れ墨はね、スミゾメカザリシロチョウという蝶々だったんだ。チャロちゃんの一番好きな蝶々」


 真珠は、柳眉を下げて訥々とチャロアイトを偲び、語る。


「墨と言えば黒だろう。ひとつの名前の中に、白と黒が同居してるから、スミゾメカザリシロチョウは面白いってね。気に入ってたみたいだ」

「スミゾメ……何だって?」

「スミゾメカザリシロチョウ。でも、人間だって、一人の人でも、さまざまな側面を持ってる。裏表を。黒い面も、白い面も……しかも、その面が黒か白かは、それを見た人の判断に過ぎない。チャロちゃんはそう言ってた」


 そんな講釈は如何でも良いのだ、と聞き流そうとしたジェードだが、此処でひらめくものがあった。

 その、何とかシロチョウ。そして、裏表。

 ジェードは、その名前を持つ蝶の標本を探し、額縁を叩き割らんばかりに開いて、裏返した。

 其処には確かに、一枚のメモが貼ってあったのだ。


 ほんの小さな、道端に咲く雑草の花のような控えめな字で、このようにつづられていた。


【非常に在り来たりな表現をするなら、この手紙が誰かに読まれている時点で、恐らく僕は死んでいるだろう。

僕が死ぬということ、それ自体は、僕が今まで木っ端みじんにして来た人や、その人生に比べれば、全く大した問題では無いと思う。

ただ、このマンションにおいて、そんなこと全てが、僕の来歴や、起こして来たそのものが、全く大した問題では無い。

だからこそ、僕は僕の人生の目的を完遂させようと考えている。

僕の人生の目的は、完璧な人間を生み出すことだ。】


「完璧な人間――?」


 真珠が呟いたのは、ジェードが丁度、そのあたりの文章を読んだときだった。


【完璧というのは、概念に依って変化しない、本当の完璧だ。

この世の皆が完璧な人間になれば、僕らは誰かを憎むことも、ねたむことも無くなり、友人になるから。】


 読んでいる方は混乱してきたが、メモはまだ続いている。


【完璧な人間を生み出すことは、とても難しいだろうと思っていた。だけれど、同じ目標を持っている人がいたんだ。

 僕は、その人に協力をしようと思った。それによって、僕の目的を叶えようと思った。

 でも、このメモが見られているとすると、完全に僕の目論見は外れ、いや、もしかすると、完璧な人間なんてこの世にいないということなのかもしれない。そうなれば僕はこの目的を諦められるだろう。】


 完璧な人間とは何かも、チャロアイトが協力していた相手も分からないまま、メモは此処で終わっていた。



 このメモを読んだところで、チャロアイトの目的が、しかも、そのほんの一部が分かっただけだ。全く、アルマンディンが死んだ謎には近付けていない。如何考えても、そうだ。

 しかし――


「完璧な人間」


 噛みしめるように繰り返し、その文字列をなぞる真珠の横顔と、ジェードも同じような顔をしていたに違いない。

 チャロアイトは、ウヴァロヴァイトが言っていたとおり、何か大きな闇、或いは大きな光に加担していたのだ。

 懇親会と言い、ジェード達のような罪びとの世間は変わりつつある。そのうねりの中で、アルマンディンや、チャロアイトは死んだ。そう考えた方が、しっくりくる気がした。


「ルチル」


 相変わらず監視としてついて来ている彼女に問いかけた。


「懇親会っていったい何だったんだ? 着ぐるみを用意してたおまえなら知ってるはずじゃないのか」


 ルチルは口を閉ざしたまま動かない。

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