第5話

 このマンションの一階には共有スペースがある。住人が自由に使える場所で、料理を作れるキッチンや、テーブルが少しある。テレビ等も置かれ、かなり充実しているが、このような後ろ暗いものたちの暮らす場であるから、使用する人は多くない。

 大概、ここにうろついているのは、この真珠くらいだ。偶にチャロアイトもいるが。二人が大体、乳繰り合っている。

 兎に角一応、そう言う平和なスペースであるのだが、今日はその敷居をくぐる前から、雰囲気が違うと肌で感じた。皮膚が痛かった。

 その空気の発生源はフリースペースに座っている。緑色の髪を腰まで伸ばした男。足を大きく開き、隣に立ったスーツを着た女性に食事を運ばせている。ジェードが足を踏み入れる事が出来ずにいると、甘いプリンに磨かれた銀のスプーンを刺し、彼はこうつぶやいた。


「仕事を理由に辛い時に傍にいられない恋人は何の為に存在してるんだろう」


 恋愛の話題とは、珍しいと思った。今、それどころではないというところが、余計に不気味だった。

 口元にスプーンを運び直して、着いたカラメルを舐め回す。


「それは、住人の命を奪われてしまうマンションの管理人と何が違うんだろうか」

「あ……」


 そうか、其処に繋がるのか、と、パズルが嵌るみたいな気になった。

 恐怖は一周して笑いに変わる。

 彼は何時もそうだった。

 どんな失敗でも一文字の誤字でも決して見逃さなかった。


 チャロアイトと真珠は別のルートで犯罪――ではなく仕事を請け負っているため、ジェードの上司は初見であろう。二人して彼を覗き込むように見て、


「僕はチャロアイト。君は?」

「僕は真珠って言うよ。よろしくね」


 等々、声を掛けている。

 ジェードは、こう無邪気でいられる彼らが羨ましいと思った。自分の上司のことを知らずに生きていられる人が羨ましいと思った。

 ジェードの上司、この、どっかりと椅子に座っている男の名はウヴァロヴァイト。この界隈で、ジェードのような若者を纏めている、元締めのようなものだ。

 自由に、社会に背いて生きているように見えるジェードのような人間こそ、上下関係に縛られ、思うように生きられるなんて稀だと言う状況。これを思うたびに、ジェードは、自分で自分を笑ってしまいそうになる。

 自由になりたくてレールから外れたにも拘わらず、結局、別のベルトコンベヤーに乗せられている――


「人間なんてそんなものだろう」


 と、ウヴァロヷァイトは嘗てそんな事を言った。何も可も見透かしたような目だった。

 ウヴァロヴァイトのメガネの奥の目は、何時もそうなのだが。

 何でも知ったかのような、そう言う厭らしい目なのだが。

 然し、どうだろう、このことについては、案外、彼も実感として理解しているのではないか?

 そう、ジェードは思う。


「私はウヴァロヴァイト。君たちは此処の住人か?」

「そうだよ。君は違うの? ならばどうしてマンションにいるんだい?」


チャロアイト、真珠の順に、口々に、人懐こく質問をぶつける。真っ黒な純粋な瞳だ。子犬の群れにしか見えない。


「此処は私のマンションだ。私が、作った。君たちのようなものに、居場所を与え……無用な争いを生まないように」

「マンションを、僕等の為に」

「先ずは、帰る家が安定しなければ、人間の気持ちは安定しないだろう。皆が心安らかにプライベートを過ごせること、それが仕事の前段階として重要だ」


やっていることは大っぴらに言えたことではないが、志は高尚だった。


 案の定、チャロアイトが手を叩く。


「そんな志がある人って素敵だよ。僕、尊敬しちゃう」

「尊敬はいらないから仕事をして欲しい」


 ウヴァロヴァイトは眉一つ動かさずに言った。


「ジェードについてるんだろ。なら、やって欲しいことがごまんとある」

「ごまんも出来るかな」

「物の譬えだ」

「それは分かってるけど」


 たわごとを言っている暇があれば働け、とウヴァロヴァイトはスプーンで彼を指した。


「アルマンディンを殺した犯人を見付けるんだ。これはマストだ。必ず今日中にやれよ」

「勿論見付けるけど……今日中!?」


チャロアイトは目を剥いた。


「期限があるなんて聞いてないよ」

「期限の無い仕事があるなんて聞いたことない」

「失敗するとどうなるんだろう」


ウヴァロヴァイトが胸元に手を入れる。

銃だ。

慌てて伏せた直後、銃声が鳴り響いた。

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