第3話

 ベロニカの花言葉は「女性の貞操」なんだ。

 そう教えてくれたのは、チャロアイトだったような気がした。

 ふと思い返してみれば、だ。ジェードにとって、大して重要な記憶では無い。

 しかし、このマンションの屋上に、こんな住人を置いて行ったあの老紳士――名も知らぬ、あの老紳士にしてみれば――この住人に「ベロニカ」などと女性に名付けたのは、そう言う淑女が好みだったからかもしれないが。

 人魚のようなイメージだったのだろうか?

 バカバカしい、とジェードは、彼女を呼ぶたび、何度でも鼻で笑うのだった。


 屋上に繋がるエレベータが開くと、むっとした生ぬるい夜風が、ジェードの右目元を隠す前髪を揺らした。

 目の前にあるのは、まるで海だ。何処までも深い青色。

 此処に来ると、ジェードは、昔見たブルーハワイと言う食い物を思い出す。海は殆ど見たことが無いから、いっそ、あの氷菓子の方が身近だった。

「ベロニカ。良い夜だね」

 チャロアイトが水際に立ち、自分の指先に歯を立て、水面に一滴の血を落として呼ぶ。この海に住む淑女を。

「それ」は直ぐにやってくる。

 波間に、月光が千切れるように揺れて見える。

 斧のような鋭い形の鰭を覗かせながら――

 やがて、ざぁ、と水をぶち上げ、巨大なホオジロザメが、プールサイドに半身を上げる。ジェードはそれを分かっていたので、踏み切って飛びのいた。勿論、チャロアイトもだ。

 ベロニカには足は無い。無論。ベロニカは雌のホオジロザメだからだ。

 だから、ベロニカは人肉が大好物で、ジェードを喰おうとしている、としても、ある程度逃げてしまえば全く問題ない。

「わっ、はは、相変わらず御転婆だね、ベロニカは」

 何に噛み付ける訳でも無いのに首をぶんぶんと激しく振って、漸く水の中に消えた。ベロニカは日に日に巨体が増して行くように見えた。良い餌を貰っているのだろう。

 ベロニカはペットでは無い。

 立派な、このマンションの住人だ。

 仕事もしている。このプールには、無数の「存在すると不都合な遺体」が放り込まれるのだ。放り込む人間が、何処から此処の情報を得るのかは、ジェードには分からない。何人の仲介人が挟まっているのかも分からない。兎に角、その人達はこのプールに、謎の遺体を放り込んで、とある口座に金を振り込むのだ。

 その金はジェードのものになる。

 その金が振り込まれているのは、ジェードが数多持つ口座の一つだからである。

 ジェードはそれを、ベロニカからの居住費と捉えている。

 そこへの振込額が、二カ月連続で月二十五万を下回ったら、ベロニカをフカヒレスープにして食べる手配は出来ているのだ。だが、この世には「不都合な遺体」と言うものが、ジェードの予想外に多いらしく――今の所、入金が下回った月はない。

 それどころか、時々充分以上に余るので、掃除屋さんにプールの掃除すら依頼出来てしまう程だ。

 腐った世の中だとジェードは思う。無論、自分が言えたことでは無いと承知済みだ。

 ベロニカは元々、とあるビーチで出没した人喰いサメであった。

 それを処分する筈が、一人の老紳士が買い上げたらしい。このマンションへ連れて来て、今のようなスタイルを確立するところまで、きっちりやって立ち去った。

 ジェードは老紳士の正体を知らない、名前も、偽名すら知らない。

 家賃が払われ、契約書が交わされた以上、サメすら立派な住人。

 あの日から、老紳士には会っていない。が、案外と、あの老紳士が最も、いくつかの遺体の処理に困っていたのかもしれない。


「いずれにせよ、折角バラバラにしたなら、アルマンディンも、ベロニカに食わせちまえば良かったんだ。そうしたら俺は、一生、遺体には気付かなかった」



 プールサイドに屈み、チャロアイトは頬杖を突きながら、うんうんと頷いた。

「じゃあ、ちょっと、如何言うことだったのか纏めてみよう。アルマンディンの命を奪った犯人が誰なのか、ヒントが分かるかもしれない」


 まず、犯人は、どのようにしてアルマンディンの部屋の中に入ったのか。

 このマンションには、出入り口に一人の監視役がおり、外部からの人間の侵入は難しい。

 また、玄関は指紋認証となっている。

 監視カメラも存在している。


「でも、不可能ではない」


 指紋を偽装する方法はいくらでもある。

 着ぐるみを着ていたら顔は見えない。


「そして……アルマンディンが招き入れた可能性だって、ゼロじゃ無い」

「この世に可能性がゼロなんてことがあるか?」


 有り得ないことは何だって起きるんだ。

 沈まないって言った船だって沈む。

 ジェードが半ば投げやりに言うと、チャロアイトは困った様に笑った。


 次は遺体の状況だ、と仕切り直して、波を見ながら話を続ける。

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