亡霊に囚われた男

 最後の伯爵とも言えるオリヴィアの母は、不慮の事故……と言えなくもない状況で亡くなった。

 実は当時のダニエルに、明確な殺害の意志はなかったのだ。


 妻である伯爵をいくら気に入らないからと言っても、いなくなっては困る存在だということはその足りない頭でも理解していたようである。

 常に不安を抱えた男が、自らさらに不安になるような真似はしないのだろう。


 それに当時のダニエルは伯爵家に婿に入った恩恵をしかと受けていた。そこそこの小遣いを定期的に受け取っていたのだ。

 使用人らの話すところをまとめれば、伯爵はダニエルを適度に楽しませ、最後にバッサリと切り捨てる計画を立てていたようである。


 そんなある日のこと、ダニエルは小遣いをせびりに邸に戻るついでにと、余計なことを考えてしまう。

 久しぶりにあの賢しく嫌味な女を抱いてやるか、といったところだ。

 そうすれば伯爵が自分を捨てる日は来ないと安心したかったのかもしれない。


 たまには共に酒を飲まないかと伯爵を誘ったダニエルは、隙を見て酒場の女から受け取ったよく楽しめる薬とやらを伯爵のグラスに注いだ。

 そして自分もその薬を同じくグラスに入れて、酒を浴びるほど飲んだのである。


 つまりこれは隙を作った伯爵の失態が招いた結果とも言えるのだ。


 その夜伯爵が何を想いダニエルの誘いを受けて、使用人らを部屋から下がらせたのかは分からない。


 使用人らの証言によると、日頃から領内で遊ぶようにと口を酸っぱくして言っていたようだから、それが勝手に知らぬところで自滅することは許さないという強い意志の表明であったと捉えると、伯爵のダニエルへの恨みは相当のものと言えるだろう。

 だがそれも推測の域を出ることはなく。

 この夜も何かしらの目的があってダニエルに付き合った可能性は十分にあるのだが、証言者がダニエルだけとなるとこの件の調査は聖剣院でも思うように進まなかった。


 分かったことと言えば、薬が悪く作用した。それも伯爵だけに。という事実だけ。


 ダニエルは酔って記憶をなくすだけで済んだというのに、伯爵は翌朝には冷たくなっていた。

 それもベッドではなく、共に酒を飲み始めたソファーの上でだ。


「……何故?」


 ダニエルがこの日も同じように呟いたかどうかも不明だが、ダニエルの行動として確実に分かっていることがある。


 何もせず逃げたのだ。



 ダニエルが早朝に酷く慌て何度も転げながら邸から走り去った姿を、かつて伯爵家の門番をしていた男が見ている。あまりに奇妙な動きで印象に残ったというから、ダニエルが自分に注いだ薬の量は少なかったのだろうと聖剣院では結論付けた。


 当然ダニエルが去ったあとの伯爵邸では朝から大騒ぎとなったが。

 呼ばれた医者は薬を見抜けず、その死因はあやふやのままに葬儀が執り行われてしまった。


 そこから使用人らがおかしな迷走を始め……これはまた別の話としよう。



 いずれにせよ、故意であろうとなかろうと、伯爵に出所の怪しい薬を盛った時点で、ダニエルは重罪である。

 そのうえ兄も殺害していては、救いはない。



「くそっ!あの女!どうせ死ぬなら、もっと苦しめてやればよかったんだ!くそぉ!くそぉ!」


 しかし今、ダニエルはこうして殺意をほのめかしている。

 今さら決定した処分が覆ることはなくも、公爵領にやって来てレオンの前でわざわざ告げる話ではないだろう。


 伯爵の娘であるオリヴィアが、今や誰の妻かも分かっていないのだろうか。


「どうしてだ!何故お前は無事にいるんだ!くそ!嫁がせず、あの邸で死なせておけば!」


 ダニエルに睨まれて、オリヴィアはふわりと微笑む。

 そこに真っ白い大輪の華が悠然と咲き誇った……と感じたのは隣で見ていたレオンであったが。


 ダニエルまでもが、はっとして目を見開いたあとに、何かに囚われたようにして口を開けたまま固まった。

 同じ華は見えていないと願いたいレオンは、ダニエルを訝しく睨む。


 そんなレオンの隣で、妻は言った。


「最後にお気持ちを聞けて、本当に良かったです。母の気持ちは今でも分かりませんが、これで報われていると願うことにします」


 固まっていたダニエルが動くまでに、それほどの時間は経っていない。

 だがダニエルは、永遠を経験したあとのように、全身が虚無感に包まれていた。


「迎えに来たのか、私を死なせるために……」


 呟く声まで虚しい様子だ。


「何を言っている?お前のその迎えならば、まだまだ先のことだぞ?」


 レオンが怪訝に眉を寄せて尋ねれば。


「ひっ。ひぃ!辞めてくれ、兄貴!俺が、俺が悪かった!だから──」


 見えない何かを振り払おうとしているのか、逃げたいのか。

 首を左右に振りながら鎖を鳴らし続けるダニエルは、完全に壊れていた。



 まずいな、とルカはひっそりと思う。

 壊れぬまま研究所に送る約束だったからだ。


 研究に関する計画が狂ったときの兄を本気で恐れているルカは、しばらく公爵領に近付かないでおこうと思いながら、紺色の騎士らに連れられ移送されていく男を見やった。


 それから公爵夫人へと視線を移す。


 夜会のときとはまた違う惚れ惚れする美しさに、公爵夫人はこの場で本当の公爵夫人になれたのだとルカは知った。

 あの夜会のときには、付け焼刃で演技をしている感じが、ルカには伝わっていたのだ。


 微動だにしない凛とした立ち姿は見事なものであったが、僅かに漂う学んだことを正しく行おうという気負い、それが今日のオリヴィアには見て取れず、その立ち居振る舞いが身に長く刻んだものへと変わっている。



 その生い立ちを知ってしまえば、夜会でも、そして今日も。

 震えて泣いていてもおかしくなかったというのに。


 夜会に誘ったのはルカであったが、オリヴィアが泣き出せばフォローする気ではいたのだ。



 隣で腰を支えるレオンがいるからか。

 それとも元からの気質なのか。


 ……そういえば、レオンはいつの間に細君の腰に手を回しているのだ?




 ルカはもう一度扉の方へと視線を戻した。

 これであの男は自分の行いを後悔出来た、ということになっただろうか。

 これで少しは──。



 ルカは頭を切り替えて、再び公爵夫妻に向き直った。

 完全にダニエルの気配が消えてから、続いてすべきことのために口を開く。


「罪人の引継ぎも完了したところで、公爵夫人。いや、伯爵位を継ぐ予定だったオリヴィア殿に、しばし時間を頂きたいのだが。構わないだろうか?」


 オリヴィアに否やなどあるわけがない。

 にこりと微笑むと、「はい、お願いします」と言うのだ。


 だが続いてルカたちが一斉に行ったことには、オリヴィアも驚き、ルカが先ほどまで称賛していた公爵夫人らしさをあっという間に奪われてしまうことになるのだった──。


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