何者にもなれなかった男

「ふざけるな!おかしな呼び方をするでない!私はお前の──」


 大声で喚くダニエルに言葉を被せ制止させたのは、オリヴィアだった。


「父親ではございません。あ、もしや叔父上様とお呼びするべきだったのでしょうか?」


「それはならん。こやつはもう子爵家からも縁を切られた存在だ。その子爵家もすでにないのだから、赤の他人でいい」


「そうですか。ではやはりダニエル殿と」


「ふざけるな!」


 叫んだダニエルは、わなわなと震えていた。

 オリヴィアは怯えなかったが、知られないように静かに息を吸い込んで呼吸を正していることをレオンは知っている。


 公爵夫人となるなら、身体に染み付いてしまった恐怖心を乗り越えたい。

 オリヴィアはレオンに願った。

 そして伯爵位を継ぐ予定だった者として、伯爵家の最期を見届けたいと。


 斯様に美しくありながら、心まで美しいとは。

 むしろ心が美しいから、外観も磨かれていくのか。


 などと一人妻を称賛しつつ、レオンはオリヴィアの手を握り締めて、ダニエルを睨む。


「改めて言うが、先代伯爵の婚姻も無効となり、子爵家からも廃嫡された今、お前は我が妻とはなんら関わりがない。聖剣院にてお前が結婚前に、子が出来ぬ身体にされていたことも聞いたはずだな?」


「僕らは何度も言ってきたよ。その都度騙されたって喚いていたから、ちゃんと聞いていたはずなんだけれどね。ここまで都合の良い頭だと、楽に生きられそうで羨ましいよ。あぁ、だけど。楽に生きたあとにこんな末路が待っているとすれば、その頭を得たいとは思わないけれどね」


 レオンに続いたルカは、ダニエルを揶揄するように言って笑った。

 それでもダニエルが真っ赤な顔でひたすらに睨む相手はオリヴィアから変わらない。


 オリヴィアだけは自分の意のままに操れるはずだ。

 と、ダニエルはまだ信じている。


「子が出来ぬはずがない。私は──」


 今度はルカがダニエルの言葉を遮り、オリヴィアを横に置いたレオンが言いにくいことをすらすらと語っていく。


「酔わなきゃ出来ないなんて、おかしいと思わなかったことが不思議で仕方がないよ。去勢されたときだって、酔って転んで怪我をしたから治療したと聞かされていたのだろう?こんなに簡単に騙される人間がいるなんて、僕らもすぐには理解出来なくてね。誰かが嘘を付いているのではないかと疑って、厳しく尋問してしまったくらいだ」


 厳しい尋問を経てもこの件についてはどの者の証言も相違なく、すべて真実だと認められることになった。


 つまりダニエルは、三度も騙されているということである。


 子爵家で知らぬうちに去勢手術をされたとき。

 伯爵家で娘が出来る行いが出来たと信じさせられたとき。

 そして奇しくも去勢を知らぬ後妻が先代伯爵と同じ方法で娘が出来る行いをしたと信じさせたとき。


 いつもダニエルは、酒を浴びるほど飲んで泥酔し、記憶がない。

 そして言われたままのことが起こったと簡単に信じた。


 三度と言ったが、ダニエルは市井の女たちからも幾度となく同じ手法で騙され続けている。

 だから自分は酔えば男として機能しているのだといつまでも信じられていたのだろう。


 愚かだからゆえに。

 教養を捨てたゆえに。


 己が失ったものにまで、いつまでも気付けない。



「たとえ実子でないとしても!それがなんだ!育てて貰った恩があるだろう!お前、早く私をなんとかするよう、こやつらに頼め!」


「そんなことは致しません。私はこの場にダニエル殿の最期を見届けに来ただけです」


「なんだと!恩を仇で……そうか、そういうことなんだな。お前がこいつらに……」


 ガシャガシャと鎖が激しく鳴ったときには、レオンはそっと手を引き、オリヴィアをダニエルから離れるように促した。

 オリヴィアはレオンより半歩下がる位置に立つも、夫の背に隠れようとはせず、ダニエルを見詰める視線を逸らさない。


 恐れずに見届けなければ。


 その強い想いに感動しながら、レオンは言う。


「我妻は結婚後もお前のことを一切言わなかったぞ」


 それはレオンが妻との時間を取れなかったせいもあるが。

 結婚式の直前にレオンと再会した瞬間にでも、助けてと訴えておかしくない状況だった。


 オリヴィアがそうしなかった理由。

 長く時間を掛けて妻の話を聞いてきた今のレオンは、それを知っている。


「嘘を付くな!この娘が私を売ったんだろう!」


「嘘ではない。本当のことだ。だがそれはお前のためではないな。伯爵家のためを想ってのことだった」


「はっ。伯爵家のためなどと綺麗ごとを。ならば、何故私はこうなっている!この娘が何か言ったからだろう!何も言わなければ、私はずっと伯爵で──」


 伯爵家が消えたことに、ダニエルが何の想いも抱えていないことは、その場の誰にも手に取るように分かった。

 いつだってこの男は、自分のことだけ。


「お前が伯爵だったことは一度もない。それも何度も言われてきたはずだ」


「そんなはずはない。私は正式に──」


「正しく伯爵であったなら、お前宛に正式な晩餐会の招待状が届いていたはずだ。それがない意味をこれまでに考えたことはなかったのか?本当はお前も前からずっと分かっていたのだろう?だから焦って、我が邸にまで──」


「うるさい、うるさい、うるさい」


 醜く喚く男は、騎士が鎖を引いてその体を痛めつけようと、オリヴィアに襲い掛かるように前へ飛び出そうとして鎖を鳴らす。


「くそっ!あの女!あんなことで死んじまうなら!もっと早く!お前がお腹にいるときに殺しちまえば良かったんだ!あぁ、くそ!失敗した!そうだ、もっと早く!兄貴をもっと早く殺していれば良かったんだな!どうせなら二人揃って!くそぉ!なんで生まれてきたんだぁ!お前みたいな、賢しいだけの可愛くない女たちがこの世にいなければ!」


 レオンは抱きしめて妻の耳を塞ぎたいと思った。

 けれどもオリヴィアの覚悟を知っているレオンは、手を握り締めるだけ。


 オリヴィアは真直ぐにダニエルを見据えている。

 怯えを隠し、ひたすらに公爵夫人とあろうとして。




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