愛しい人よ

 これが呪いだという自覚はあった。

「名前を忘れてはいけませんよ。フオル・イーラヴ・パリンドローム。それがあなたの名前ですよ」

「……フオル、イーラヴ、パリンドローム」

「ええ、ええ、書けますね? ちゃんと……そう、そうです。よくできていますよ」

 優しそうに語り、現に優しかった祖母だが、その根底にはどす黒い悪があった。幼心に理解はしていたが、どうする事もできなかった。

「いずれ、あなたの役に立ちますよ。ええ、絶対に。覚えなさい、フオル・イーラヴ・パリンドローム……」

 祖母が動かなくなり、術を試し、人が来た日。相変わらずの生活が戻っても尚、俺は祖母と同じような悪を持てなかった。ただ数多に積まれた本を読み、読み、読み、読み、知識を飲み、飲み、飲み、飲み、そうして生きていた。それが崩れたのは十年後。流行り病により俺の兄弟姉妹と母親が全員亡くなり、死に体の父親に呼び戻された時だ。

 フオル・イーラヴ・パリンドロームは辺境の塔を出、自分を幽閉していた父の下へ戻った。程なくして父は死に、無知蒙昧な俺は爵位と領地を継いだ。が、全て伯父に譲渡し、王城付きの魔術師となった。伯父と父の不仲を知って尚、俺は父と同じ独善性を持てなかった。


 #####


「書庫番殿、書庫番殿!」

 名を呼ばれた。

 身を起こし、受付机に這い上がる。昨日は本を読んだまま、暗くなったから寝たんだった。変な姿勢になっていたのだろう、全身が痛い。あまり眠れた気がしない。

 前を見ると心配げに顔を曇らせたグースがいた。

「ああ、グース・テイル=ライム……お前か」

「おはよう、フオル。食事は?」

「……昨日摂った」

「それは摂ったとは言えないな。ほら、食べな」

 グースが机に置いたのは蓋を閉じた器だ。良い匂いはしない。開けてみると冷たそうな何かが、よく分からない食い物らしきものがあった。

 おそらく、険しい顔になったのだろう。慌てるようにしてグースは付け加える。

「ほら、遠征で食事を手っ取り早く済ませる為に改良を重ねている、と以前話しただろう? これはその試作品なんだ」

「……食い物か? 匂いがしないぞ」

「冷えてるせいだな。だが、味は良い。筈だ」

 不確かだな。しかし、そう文句を言うよりも先に腹の虫が鳴る。

「…………栄養補給は、できるんだな?」

「理論上はできる事になっている」

「なら、良い」

 匙を受け取り、器の中の何かに突き刺す。少々固かったが欠片に分ける事ができた。口に放り込み、咀嚼。混沌を押し込めた味がする。

「味を言語化するのは苦手だが、おそらくこれは……不味い、に分類される味だ」

 二口、三口と続け様に食べてみる。うん、混沌。

 全部食べ終えると、味が口内に嫌と言う程残り続けていた。

「すまないな」

 グースは小さく笑うと、器を持った。

「今度、何か菓子でも持ってくるよ」

「必要ない。そろそろ時間だろう、帰れ」

「……じゃあ、また夕方に」

 睡魔がまた襲ってくる。扉が開き、閉じたのを確認してから、奥に拵えていた簡易的な寝床に横たわる。


 #####


 嫌な夢を見たせいだ。

 眠れた気がしなかったのも、異常に眠たいのも、嫌な夢を見てしまったからだ。そのせいかもしれない。二度寝の果てに見たのも、嫌な夢だった。


「パリンドロームの子息は気が狂ってる」


 そんな噂声がした。夢のせいだろう、やけに鮮明に聞こえる。

「随分長い間塔に篭っていたと」

「伯爵は酷い」

「化け物憑きの疑いが、」「呪いで一族を破滅させた」

「伯爵の母は気狂いだったろう」

「母親は塔の子息を産んでから狂ったと」

「姉妹が皆、熱病にて醜女になったのも、」

「訴えて、」「火がなければ煙はたたぬ」

「魔女の子だ」

「取り替え子」「洗礼を、」「異教の信奉者が」

 …………好き勝手言いやがって。

 だが、俺には何も言えない。背を向け、光から遠ざかる。どうやらここは広い屋敷、朧げな記憶でしかないが、父の屋敷だろう。嫌な記憶しかない。

「俺は、狂ってなんかいないさ」

 呟くも、先程までの噂声はずっと耳の中で鳴り響いている。消えそうにない。

「あの子も可哀想に」

「俺はッ……俺は……俺は…………」

 気にするな。幻聴だ。起きればどうって事ない。もう誰も、俺にあんな言葉をかけてくる訳ないだろう? だから、落ち着け。落ち着いて、でも、俺は、俺は、俺は狂ってないんだ。可哀想じゃないんだ。呪われてないんだ。

 俺は、

「フオル・イーラヴ・パリンドローム。忘れてはなりませんよ」

 祖母の声。

「絶対に、絶対に忘れてはいけませんよ。あなたの役に立ちますから」

 呪いだ。ならやはり俺は呪われているのか? 違う、これは呪術的な意味での呪いではない。俺は呪われていない。

「あなたはいずれ、パリンドローム家を継ぐのですから」

「…………」

「良いですか? あなたはお兄さんやお姉さん、弟や妹とは違うのです。優秀で、優れているのですよ。今はこんな場所にいますが、いずれ、家を継ぐのはあなたですよ」

 気づけばここは塔。二十年間過ごした場所だった。遠く眼下に見える緑が目に痛い。

「お父様は酷いお方ですよ。お母様も。家を継いだら、あんな人達は追い出してしまいなさい」

 姿見の前に俺を立たせながら、祖母は俺の髪を撫でる。頬を撫でる。首に触れる。肩に触れる。

「あなたはパリンドローム家を継ぐのです」

 聞きたくない。だが、頭を落とせば怒られる。目を伏せれば怒られる。見て、聞かないといけない。でも、でも、でも俺は、フオル・イーラヴ・パリンドロームは、

「お前が、パリンドロームなのか」

 良く通る声。

 振り返る。

 険しい顔をしてる。グース・テイル=ライム、騎士団長のテイル=ライム。

「お前が、あのパリンドローム伯の息子なのか。…………答えてくれ、フオル。なぁ、フオル!」

 泣きそうな顔で、グースは俺の両腕を掴んだ。

「否定してくれ! お前は、あの悪魔の子じゃないと!」

「…………」

「フオル、なぁ、お願いだ。お前は……お前が、あれの息子なら……私は……」


「殺さなきゃ」


 そこで目が覚めた。

 寝汗が酷い。時計を見ると昼を過ぎていた。

 嫌な記憶を振り払って、仕事に集中する。


 #####


 夕方、宣言通りグース・テイル=ライムはやって来た。

「鍵を閉めても良いか?」

 俺が言葉を返すより先に、グースの手は錠前に伸びていた。

 ガチャリ、と鍵のかかる音。コツコツと近づいてくる足音。グースは机に右腕を突くと、俺の顔を覗き込んだ。黒曜石の目に俺が写る。

「…………何かあった?」

「何も」

「嘘つけ。今の君、面白い顔してるんだよ」

 軽く笑ってグースは机から離れた。グルリと回って俺の隣に来ると、近くにあった簡易椅子を引き寄せて腰掛ける。そんな動作すらもが、見惚れるくらいに洗練されていた。

 薄笑みの浮いた顔を翳らせてグースは心配そうにもう一度問う。

「何かあったね? 私が聞いても良いかな?」

「話すような事じゃないさ」

「……なら、抱き締めても良いかな。…………私が少し、嫌な事があってね。ほら、人と人の触れ合いは精神的疲労を軽減させる、だっけ? 兎も角、そういう事だ。いくよ」

 俺の返答も聞かず、グースは両腕を俺の胴に回した。フワリと汗ばんだ匂いが鼻腔をくすぐる。恐る恐るグースの背に両腕を回すと、耳元で嬉しそうに笑った声が聞こえた。

 気遣われている、なんて分かりきっていた。この男が多少のストレスで他人を頼る訳がない。見栄っ張りだもの。

「それで。何があったの」

「……結局、聞きたいのか」

「そりゃあ勿論」

「…………昔の事を思い出した。それだけだ」

「昔? 君が幽閉されてた頃の話かい? でも、それは昔の話。大丈夫、恐れる必要はないよ」

 優しく、グースの手が俺の髪を撫でた。

 肩に顔を埋める。耳元で心臓の音がする。そのまま目を閉じると眠くなってきた。夢見が悪かったせいだろうが、まるで幼児だ。母親の腕の中で安堵して、そのまま眠ってしまう。そんな幼児。けれどグースは苦言も呈さず、その代わりに、

「寝て良いんだよ。布団に運んであげるから」

 と、良い声で言う。ついつい甘えてしまいそうになるが、駄目だ。こいつといると駄目になってしまう。頑張って腕を振り払って、起き上がって、椅子に座り直す。そうじゃないと本当に駄目だ。なんかこう……眠いから上手く言葉にできないけど、駄目だ。

「大丈夫。自分で、寝るから……」

「そう? じゃあ、一緒に寝ても良いかな?」

「寝れると思うのか?」

「無理だね、狭すぎる」

 しばらくの間の後、アハハハハと二人分の笑い声が響いた。

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