狗藤威吹⑤

 最初は嫌々だった。

 拒否しても引かないし、助けを求めても助けてくれない。

 それで仕方なく志乃に付き合っていたのだ。


『よーし! 今日は川で泳ごうか!!』

『……一人で勝手に泳いでろ』

『かーらーのー?』

『失せろ』

『かーらーのー?』

『お前、無敵かよ……分かったよ。準備するからちょっと待ってろ』

『威吹ってー、素直じゃな~い♪』

『ペッ!』


 志乃もウザかったが、こっちの態度も正直酷かったと思う。

 しかし志乃は嫌な顔一つせず自分に構い続けてくれた。

 正直、認めるのは些か以上に恥ずかしいが……絆されたのだろう。その明るさや優しさに。


『クワガタってさ。何であんなにカッコいいのかしら。昆虫界一の男前だと思う』

『は? カブトムシのがカッコいいだろふざけんな』


 少しずつ、少しずつ威吹と志乃は心の距離を縮めて行った。

 それはとても素晴らしいことだと思う。

 でも、素晴らしいだけではなかった。


『これ、聞いて良いのか迷ってたんだけど』

『何だよお前。その空気読める人みたいな発言は』

『いや読めるし。何で私が空気読めない馬鹿みたいなことになってるのよ』

『馬鹿だろ。お前の俺に対する行動を省みれば一目瞭然だわ』

『平気そうだし聞くわね』

『野郎、無視しやがった……』

『威吹ってさ。何で村にやって来たの?』

『……ああ、それか。まあ、別に隠し立てするようなことでもないし教えてやるよ』


 知らなかったんだ。


『――とまあ、それで爺さん婆さんが俺に気を遣ってここに連れて来てくれたんだ』

『へえ』


 心が近付く度に別れの時も近付いているなんて。


『威吹はぁ……お父さんとお母さんのことが嫌い?』


 今ならば分かる。

 この時の語らいがあの別れに繋がる最初の一歩だったのだろう。


『好き嫌いってより気持ち悪いだな』

『嫌いですら、ないのね』

『気持ち悪いとしか言いようがないんだよ』


 傍から見て歪な生き方でも本人が納得しているなら少しはマシだろう。

 だが、あれらは違う。

 納得していない。不本意だと思っている。

 なら止めてしまえ。

 その我慢が希望に繋がっているわけでもないのだからスパっと壊してしまえば良い。

 そのようなことを言っていた。


『……』


 隣で彼女がどんな顔をしているのかにも気付かぬまま。


『何でわざわざ“しっくり来ない”生き方をするのか。何が楽しくて生きてるのか』

『……』

『本当に、気持ち悪い』


 それからも表面上は変わらぬ日々が続いた。

 志乃と共に過ごす幸せな時間は狗藤威吹という人間をほぼ立ち直らせたと言っても過言ではない。

 だからだろう、威吹の心に願いが生まれたのは。


 夏休みの終わりが見え始めた頃、威吹は覚悟を決めた――訣別だ。

 あの気持ち悪い父母と袂を分かち祖父母と暮らす。

 いや、これからも志乃と時間を共有して行きたいのだ。

 この想いに嘘は吐けない。

 そうと決まれば話は早い。

 その日、威吹は志乃を誘って二人だけの秘密の場所に向かった。

 祖父母にも打ち明けていない自らの想いを志乃に打ち明けようと考えたのだ。


 しかし、


『……どうして、明日がやって来るんだろうね』

『志乃……?』


 秘密の場所に辿り着くと志乃の様子が一変した。

 物憂げで、どこか草臥れ切った人間がするような擦り切れた表情。

 村に居た時はいつもと同じ向日葵のような眩しい笑顔を湛えていたのに、どうして?

 困惑する威吹を他所に志乃は一つ、問いを投げた。


『ねえ威吹、威吹は……私のこと好き?』


 空色の瞳に射抜かれ否応なしに胸が高鳴る。


『あ、えと』


 突然のことに頭がパニックになっていた。

 しどろもどろになる威吹を見て志乃の顔に少しだけ笑みが滲む。


『もしも好きだって言ってくれるなら……お願いを聞いて』

『お、お願い……? あ、ああ……良いぞ。俺に出来ることなら――うん、何でも言ってくれ』


 自分がこうして立ち直れたのは志乃のお陰だ。

 死に掛けていた心を救われ、願いを貰った。

 返し切れないほど大きな恩を少しでも返す機会に威吹は身を乗り出す。


『あのね』


 だが志乃の口から放たれた“お願い”は埒外のものだった。


『――――私を殺して欲しいの』

『は?』


 最初、何を言っているか分からなかった。

 意味を咀嚼し、性質の悪い冗談だと思った。

 真っ直ぐ自分を見つめる志乃の目を見て、冗談じゃないと理解させられた。

 心が、身体が、急速に熱を失っていくような気がした。


『私ね、もう直ぐ死ぬの』

『な、何で……びょ、病気……?』

『違うわ。“死ななきゃいけない”の。皆のために』


 底冷えしそうなほどに暗い瞳。

 天真爛漫という言葉がよく似合う志乃がこんな目をするなんて思いもしなかった。


『十年に一度、選ばれた子供を龍神様の生贄に捧げなきゃいけないの』

『は、ハハハ……何だよそれ。冗談にしても笑えない』


 本気ならばもっと笑えない。

 生贄? 龍神? 何の冗談だ。

 そんな俗信が現代社会で罷り通って良いはずがない。

 そう吐き捨てる威吹に志乃は私もそう思うと同意しつつも事実だと断言した。


『この村の成り立ちを知ってる?』

『い、いや……』


 曰く、村の成立は暗黒時代にまで遡るそうな。

 当時、人々に自由はなかった。

 物、人、あらゆる資源が著しく損失し適材適所を徹底せねば社会を維持することが不可能だったからだ。

 時の為政者たちの判断は正しい。

 現代いま、自由を謳歌している人々が何よりもの証拠だ。

 かつての為政者らの英断なくして、今の豊かな社会はあり得ない。

 ゆえにその判断の正しさには僅かな疑念を挟む余地さえありはしない。


 が、しかしだ。

 正しさだけで不自由を呑み込めるほど人間というのは賢い生き物ではなかった。

 職業や婚姻を始めとする多くの不自由を嫌った人間も当然存在した。

 多くは不満を述べつつもそれが中には行動に移す人間も居る。

 とは言えテロなどは即時武力で鎮圧されてしまうし、失敗した後のことを考えれば上手い手ではない。

 なので行動に出る者の大概は逃亡、人の居ない土地に隠れ住みコミュニティを築くというのが定番だ。


 この村もその定番の一つだった。

 ただ、その成立の仕方が普通じゃない。

 官憲の追跡を逃れ山へ踏み入った集団は途方に暮れていた。

 どこに逃げても追っ手がかかり、この山に居ても直に見つかる。

 もう無理なのかもしれないと諦めていたその時だ。


『龍神様が集団のリーダーの前に現れ、こう言ったの』


 十年後、そなたの妻の胎の中に居る子を我に捧げるのであれば我がそなたらの守護神になってやろう。

 リーダーは疑いながらもそれを受け入れた。するとどうだ?

 追っ手がピタリと止み、山の中に村を開くのにお誂え向きな場所まで発見。

 集団はそこに村を築き根を下ろした。

 以降十年も平穏そのもの。

 餓えることもなければ、病に倒れる者も居ない。

 そして約束の日。龍神は再び村長となったリーダーの前に現れこう言った。

 以降も十年毎に印をつけた子供を捧げるのであれば平穏を約束してやるぞ、と。

 村長と村人は話し合いの末、それを承諾。

 村長は涙ながらに娘を捧げ、娘もまた皆のためにと笑顔で龍神に命を捧げたと言う。


『馬鹿な……』


 まだ、まだ当時ならば理屈をつけられなくもない。

 集団の結束のために宗教をでっち上げたのだろうと。

 だが、違う。

 だって十年毎に子供を殺し、それを何百年と続けて今に至っているのだから。


『そうよね、馬鹿よね。でも、この村にはそんな馬鹿しか居ないの』


 そして馬鹿ではない者は排除される、と志乃は口元を歪める。


『神様が実際に居るかどうかとか、そういうことはどうでも良いの』


 それを論じたところで意味はない。

 だって、居ようが居まいが殺されることに変わりはないのだから。


『け、け……けいさ……警察に……』

『ねえ威吹。誰も居なかったと思う?』


 子供を助けようとした者が。

 両親、或いは良識ある第三者。

 そんな者が何百年もの間、ただの一度たりとも現れなかったと思うか?

 志乃の指摘に威吹は言葉を詰まらせる。


『全部、無駄だった。私の両親もそう。殺されちゃった』

『――――』

『私の言いたいこと、分かるわよね?』


 大人でさえも失敗し続けてきたのに子供の威吹に何が出来るのか。

 志乃はそう言っているのだ。


『私が外の世界に逃げられる可能性は零に等しい。

でも、私の意思で私を終わらせることは出来るかもしれない』


 何故、と言いたかった。言えなかった。


『私さ、思うところがなかったわけわけじゃないけど犠牲になることを受け入れてたのよ』


 それに加え、そもそもが幼い子供だ。

 自殺を望むなどとは普通思わない。

 そこが隙になる、ということだろう。


『酷いことをお願いしてるのは分かってるわ。でもね、私、思ったんだ。

自分以外の誰かのために生まれて自分以外の誰かのために死ぬ――私の人生、何なんだろうって。

しょうがないって諦めてたけどさ。やっぱり、嫌だなって。

“しっくり来ない”生き方をして“しっくり来ない”死を迎えるなんて気持ち悪いわ』


 志乃は威吹の頭にそっと両手を沿えコツン、と額と額を合わせ続ける。


『死にたいなら勝手に死ねば良い、わざわざ他人の手を汚させるな。

私の心の中の冷静な部分がそう言ってる。

でも、一番深いところではこう叫んでる。せめてこの命に意味があったのだと証明したいって』


 志乃は、泣いていた。


『こんな身勝手なお願いを聞いてくれるぐらいに私を想ってくれる人が居る。

それは何にも変え難いお宝だと思わない? ……ええ、卑怯な言い方してるって自覚はあるわ。

でも、でもね。私には威吹しか居ないの。この人になら殺されても後悔はないって思える人は――威吹だけなの』


 惜しむように離れ、志乃は背を向けた。


『明後日。八月三十一日。私の十歳の誕生日に儀式は執り行われる。

もう、時間は残されてない。だから……今夜。日付が変わって深夜二時』


 ここで威吹を待ってる。

 それだけ告げて志乃は去って行った。


 どうやって祖父母の家に帰ったかは、正直よく覚えてはいない。

 家に帰った後は、ずっと割り当てられた私室で膝を抱えていた。

 頭の中がグチャグチャで、何をどうすれば良いか分からない。

 なのに時間は止まってくれない。

 生きて来た中で、一番苦しい時間だった。


 でも、答えは一つしかなかった。

 志乃が好きなのか嫌いなのか。大切に想っているのかいないのか。

 結局はここに行き着くのだ。

 ならばもう、どれだけ辛くたって苦しくたって答えは決まっている。


『――――来て、くれたのね』


 申し訳なさそうな、それでいて心底から嬉しそうな。

 そんな、そんな顔をしていた。


『これが……これが俺にとって一番“しっくり来る”答えなのかは分からない』


 でも、何もしなければ一番“しっくり来ない”結末がやって来るのは分かった。

 そんな結末が訪れたのなら、きっと自分は命を絶つだろう。

 だが、その行為に何の意味はない。

 むしろ考えうる限り最悪の終わり方だ。だってそうだろう?

 自分も志乃も結局、何も成せなかったということなのだから。


『だから、だから俺は……!!』


 志乃は困ったように微笑みながら威吹に短刀を手渡した。

 威吹は両手でそれを受け取り、強く握り締めた。

 だがダメだ。手が震えてしまう。

 殺人という行為に嫌悪感を抱いているのもあるが、それ以上に永遠の別離が恐ろしかった。


『……』


 震える威吹の両手を志乃が優しく包み込んだ。

 そしてそっとその切っ先を自らの心臓がある場所へと導いた。

 威吹が縋るように志乃を見た。

 志乃は縋るような威吹の視線を真っ直ぐ受け入れた。


 そうしてどれほど見詰め合っていただろう。

 ふと、声が聞こえた。一人じゃない、複数だ。

 威吹のものでも志乃のものでもない――村人たちだ。


『どこだ!? どこに居る!!』


 どうして勘付いたのかは分からない。

 何か不手際があったせいかもしれないが、そうじゃないかもしれない。

 気付けば震えは止まり急速に頭が、心が、熱を失っていく。


『見つけた!』

『待て、下手に動くな。おい狗藤、お前のところのガキだぞ!!』

『分かってる! 威吹! お前は自分が何をしているか分かっているのか!?』


 威吹も志乃も一顧だにしない。


『御子は龍神様への供物なんだぞ!? それに手を出すなど……!

龍神様の祟りが降りかかったらどうするんだ!? おい婆さん、お前も何か言え!』


 ただただ、互いを真っ直ぐ見つめていた。


『威吹、威吹ちゃん? 待ちなさい……ね? 落ち着きましょう? お祖母ちゃんの言うことを聞いて?』


 へにゃっと志乃の表情が和らぐ。


『威吹、ありがとう』


 笑顔だった。


『――、――――!?』

『――――!! ――ッッ』


 煩わしい雑音なんかもう聞こえない。


『最期にもう一つだけお願いがあるの』

『良いよ』

『ありがとう』


 威吹の大好きな太陽のように眩く暖かな微笑みを湛えたまま志乃は言う。


『――――私のこと、一生忘れないでね?』

『――――うん。一生、忘れない。志乃、大好きだよ』


 返事と共に短刀を強く突き立てた。

 肉の感触、血の温かさ。今、自分は確かに愛する人の命を奪ったのだと思い知らされた。


『……』


 柄から両手を外しそっと離れると、志乃がゆっくり倒れ込んで来た。

 強く、強くその身体を抱き締める。

 失われていくその温もりを心と身体に刻み付けるように。


『や、やりやがった……! ふ、ふざけ――な、何だ!?』


 雷鳴が轟く。


『りゅ、龍神様……あぁ……あぁあああ! 御許しを! どうか御許しを!!』


 地面を穿つような勢いで雨が降り始める。


『こ、このガキは殺します! 次は生贄も増やします! どうか、どうか……ッッ』


 悲鳴のように風が荒ぶ。


『死ぬ、皆死ぬ! 死んでしまう! お前の……お前のせいだ!!』


 ズン、と山が大きく鳴動する。


『もう終わりだ……何もかもが台無しだ……誰も助からない……鬼の子め……』


 威吹は直ぐそこに迫る死を感じていたが、恐怖はなかった。

 それよりも志乃の身体から完全に温もりが失われたことの方が悲しかった。


『――――』


 涙が零れ、つぅ、と頬を伝う。


『……少し、疲れたな』


 そして全てが濁流に呑み込まれた。

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