末期の一筆⑦

(んお……むぅ……あー……おれ、ねてた……?)


 目を覚ました威吹は天井を眺めながらぼんやりとする頭で考える。

 何故、眠ってしまったのかと。

 威吹は妖怪だ。それもかなり高位の。

 その気になれば何ヶ月どころか何年でも寝ずに居られるだろう。

 玲司の絵が完成するまで。

 いやさ、彼の死を看取るまでは眠らないと決めていたのだから余計におかしい。

 そうと強い気持ちで居たのなら睡魔程度にやられようはずもないのに。


(んぁー……おかしいなあ……)


 しきりに首を傾げる威吹だが、当然理由はある。二つほど。

 一つは威吹は与り知らないことだがこの庵には強固な結界が張られているのだ。

 玲司の絵が完成した際、その影響力を内から出さぬようにと詩乃が組み込んだのである。

 その結界によって自覚のないまま少し弱体化していたこと。

 これは普段の威吹であれば気付けただろう。

 だが玲司を見ることに集中していたせいで他が疎かになり気付けなかった。

 もう一つは玲司だ。

 文字通り魂を削って筆を振るう彼にあてられ消耗してしまった。

 威吹ならば防ぐことは十二分に可能である。

 しかし、避けない防がないが威吹の基本スタイルであり尚且つ玲司は特別高く評価している人間だ。

 積極的にその狂気を受け入れようとしてしまう。

 結果、威吹は途中でダウンし眠りに就いてしまった。


「不思議だけど……それより、玲司さん。悪いね、途中で寝――――」


 目を擦りながら視線を玲司が居るであろう場所に移すが……。


「玲司……さん……?」


 窓から差し込む陽光に照らされる玲司の顔はとても穏やかなものだった。

 ともすればうたた寝をしているようにも見えるほど……だが見る者が見れば即座に気付く。

 そして威吹は気付ける側の人間だった。


「……」


 起こしてくれても良いだろうにとも思ったが、彼のことだ。きっと照れ臭かったのだろう。

 何と声をかければ良いのか。威吹は目を閉じ言葉を探す。

 少し迷ったが、結局思い浮かんだのは一つだけだった。


「お疲れ様」


 その顔を見れば分かる。

 玲司は描き上げたのだ。最後にして最高の一枚を。


「拝ませてもらうよ」


 天井を見上げ頭に指を突っ込みグリグリと掻き回し視覚を正常化させる。

 そして視界が完全に開けたのを確認してからゆっくりと頭を戻す。


「――――ああ」


 映える緑の中。

 柔らかな陽光に照らされながら我が子に微笑みかける女性。

 言葉にしてみればたったそれだけなのに、こうも心を揺さぶるのか。


「なんて、やさしい」


 これが、この優しさが。温かさが玲司にとっての死だったのだろう。

 自分が感じるそれとは重ならないが、否定するつもりは更々なかった。

 威吹はしばしの間、感動に浸っていたが……。


「あん?」


 トントン、と戸を叩く音が意識を現実に引き上げた。

 誰だよテメェと若干不機嫌になる威吹をよそに扉が開かれ、詩乃が姿を現す。


「母さん? 何で……ってのは聞くまでもないか」

「うん。そろそろかなって」


 玲司が絵を完成させられたのは詩乃の助力あってこそだ。

 であれば立ち会う権利は当然、ある。


「浸ってるところゴメンね? 私も結構楽しみにしてたからさ」

「いや良いよ。それよりほら、良い絵だからじっくり見てあげてよ」


 奇妙な縁で結ばれた歳の離れた友人が魂を込めて描き上げた一枚だ。

 きっと、詩乃も感動に打ち震えることだろう。

 威吹はそっと自らの身体をどかす。


「――――」


 絵を視界に入れるや惚けたような顔をする詩乃。

 どうだ! と自慢げに鼻を鳴らす威吹の目の前で、


「は?」


 詩乃は自らの胸を貫いた。

 あまりにも突拍子のない行動にポカーンと間抜け面を晒す威吹だが即座に再起動。


「ちょ、ちょ、ちょ……! あ、あんた一体何してんの!?」


 運が良いのか、詩乃が保護したのか。

 絵に血が飛び散るようなことはなかったが、仮にそうなっていればその瞬間にアポカリプス・ナウだ。

 威吹は本気で詩乃を殺しにかかっていただろう。


「…………待って……ちょっと、ちょっとだけ待って……」


 膝を突き、苦しげに喘ぎながら詩乃はそう告げた。

 ん? と首を傾げる。


「母さん、あんた……」


 基本的に化け物は心臓や頭を吹き飛ばされたところで死にはしない。

 しかし隔絶した力や、自らの意思によってはその限りではない。

 端的に言おう――詩乃は突然の自傷によって死に掛けていた。


「……――――ふぅ。よし、うん。落ち着いた」


 詩乃が立ち上がる。胸の傷は塞がっていた。


「まあ、良かったね。ところでちっちゃい胸が見えてるよ」


 傷は塞がっていたが服はそのままであった。

 そして何気にノーブラだった。


「お詫びにサービスでもしようかなって」

「いや……うん。見た目がクッソ好みだし母さんのちっちゃい胸に興奮しないでもないけどさ」


 状況を考えて欲しい。

 他の要素が邪魔過ぎて青少年のリビドーを滾らせることさえ出来やしない。

 いや、ちょっと嘘を吐いた。こんな状況でも色香は尋常ではないので興奮はしている。

 しているが他に気になることがあるので先にそっちを片付けて欲しいというのが本音だった。


「説明して。突然の奇行のワケを教えてください」


 胸をチラ見しつつ促す。胸をチラ見しつつ。


「この絵の魔性にあてられたってだけだよ。うん、初見の感動は一度きりだからね。

精神的な防護も何もなしに見たら見事、絡め取られて死にたくなったってだけ」


 腰を曲げ絵を覗き込みながら詩乃は感心したように頷く。

 計算づくの行動なのだろうが、気が散ってしょうがない。

 普段ならばここまで心揺れることはなかっただろう。

 しかし、今の弱体化した威吹に詩乃の色気は毒以外の何ものでもなかった。


「これが世に出れば酷いことになるだろうね」


 言葉とは裏腹にその顔は邪悪に歪んでいる。

 しかし、それでも色香は翳らない。

 威吹は脳内で般若心経を唱え、平静を保とうとする。


「人は誰しも死への渇望をその心の裡に宿している。

生きるのが辛いとか、そういう表層的な理由ではない。知的生命体の因果って言うべきかな?

いや構造的欠陥? どうにも“終わり”に対して抗い難い魅力を感じてしまうんだよね。

でも人は中々自壊を選ばない。何故? 理性が無為な終わりを阻むから」


 死んだらそこで終わり。

 死ぬのは痛い、苦しい、怖い。

 そんなネガティブイメージが人を生に繋ぎ止めてくれるのだと詩乃は言う。


「生存本能とかそういうアレでなくて?」

「んー、人に生存本能が備わってないと言えば嘘になるけどさ。ぶっちゃけあんまり機能してないよ?」


 知恵をつけ獣から遠ざかり、人は多くを得た。

 しかし失ったものも確かに存在している。それが本能だ。

 完全に喪失したわけではないが獣のそれとは比較にならないほど劣化している。

 意図して磨かぬ限りは使い物にならないのが殆ど。

 そう語る詩乃に威吹はなるほど、と頷く。


「話を戻そうか。世を悲観して自殺する類の人間もあれは衝動ってより理性なんだよね」

「理性で生死を秤にかけて死に比重が傾いたからってこと?」

「その通り。半ば無意識の内に計算を済ませてやっちゃうの。本当に衝動的な自殺は意外と少ないんだよ」


 だからこそ、この絵は危険なのだと言う。


「ストレス社会を生きる現代人にはとんだ猛毒だよ。

いや、死ぬ理由がない。満ち足りた環境に居る人間ですら抗えないだろうね。

この絵を見たら一発で天秤が死に傾く。生が枯れ葉のように色褪せてしまうほどここに描かれた死は鮮やかだもの。

美化――って言うのは先生さんに失礼かな? 彼にとってはこれこそが死の形なわけだし」


 生きることより素晴らしい死が自分を待ち受けている。

 問答無用でそう思えてしまうほどの魔性がこの絵には宿っているのだ。


「理屈は分かった。母さんが死に掛けたのも?」

「ん? ああいや、私の場合は違うよ?」


 苦笑気味に詩乃が続ける。


「人に近しい精神構造をしてる妖怪なら別だけど妖怪にとって生死はさして重要じゃないもん。

特にほら、私みたいなのは本当の意味で終わることはないでしょ? だから余計にね。

私が死に掛けたのはもっと気軽な感じ。

うーん、そうだねえ……美味しそうだなってちょっとつまみ食いするのと似たようなものかな。

生に比重を戻すのにちょっと手間取ったのも、美味し過ぎたしもうちょっとぐらいは――みたいな?」


「軽ッ」


 つまみ食い感覚で自殺出来るのが大妖怪の特権。

 そう書くと大妖怪もそう大した存在ではないように思えてしまう。


「にしても……そんなわざわざ説明しなくても分かるようなことを聞くなんて……ふぅん」

「な、何さ」


 じっと自分を見つめる詩乃の視線から目を逸らす。

 目を逸らした先には胸があった。


「随分とまあ、人間に偏ってるみたいだね。

いや悪くはないけどさ。そうじゃないかとは思ってたけどそろそろ、かな?」


 詩乃の言っていることが何一つ理解できない。

 居心地の悪さを誤魔化すように威吹は口を開く。


「そ、それよりさ。何で俺には特に影響なかったのかな?」


 ちらりと玲司を見る。

 彼が魂を練り込んだだけあって母の絵は最高傑作と呼ぶに相応しい一枚だと思う。

 威吹自身、尋常ではない感動を味わったのは確かだ。

 なのに詩乃のように自殺を図るようなことはなかった。


「特に俺は化け物だけど人間でもあるわけだし?」


 両方にクリティカルが入っていても不思議ではなかった。

 首を傾げる威吹に詩乃はさらりとこう答える。


「そりゃ当然だよ」

「え」


「美化することもなければ貶めることもない。

他者の感性に理解は示せどもあるがまま常に等身大の形で死を捉えてる威吹を惑わすのは無理でしょ」


 どういうことだ? と聞きそうになるが寸でのところで言葉を飲み込む。

 多分、これも聞くべきではないことだから。


「それより、これはちょっとまずいかな?」


 溜め息交じりにそう零した。

 首を傾げる威吹に詩乃は続ける。


「絵の魔性だよ。外に影響が出ないようアトリエに仕掛けを施してたんだけどね。

ちょっと見積もりが甘かったみたい。ほっとくと帝都がゴーストタウンになりかねないよ」


 どうやら割りと危険な状況にあるらしい。


「威吹、少しこの絵を預かって良いかな?」


 玲司が死んだ今、絵の所有者は威吹だ。

 だから伺いを立ててくれたのだろう。


「良いけど……どうするの?」

「一先ず蔵に保管しておく。しっかりとした封印を施すから終わったらちゃんと伝えるよ」

「分かった。じゃあ、お願いするよ」

「了解」


 すっ、と詩乃が手を振ると空間が歪み絵が飲み込まれる。

 以前入ったあの蔵に収まるのだろうが……封印が終わった後はどうすべきか。

 部屋に飾るのか。いっそ、詩乃のように蔵を作るべきか。


(そこらはまた後で母さんに相談しよう)


 今は他にやるべきことがある。

 威吹がちらりと玲司の亡骸に視線をやると、詩乃が小さく頷いた。


「私に任せて。先生から死後の後始末を頼まれてるし、キッチリ片付けるよ」


 親類縁者はもう残っていないと聞いていたから心配だったが、詩乃ならば安心だろう。

 万事滞りなくこなしてくれるはずだ。


「俺も何か手伝おうか?」

「んー、気持ちだけ貰っておくね。威吹にはまだやることがあるだろうし」

「?」


 詩乃は無言で部屋の片隅を指差した。

 つられて視線をやると裏返しの絹本が壁に立てかけられていた。


「じゃ、私はこれで」


 返事も聞かず詩乃は玲司の骸と共に消え去った。

 威吹は無言で絹本に近付き、貼り付けられていたメモを剥がす。


「“狗藤威吹様へ”か」


 自分に宛てたものであるのは確からしい。

 ただ、意図が分からない。

 貰い受ける絵は二枚のはず。

 そしてその内の一枚は詩乃に預けたし、もう一枚は現世の美術館だ。

 法的な手続きに則り自分のものになるまで手元には来ない。


「これはどういうことなのかな?」


 状況的に考えてこれが最後の作品だろう。

 何を描いたのか。何を思って自分に託したのか。

 少し考えて、ある可能性に辿り着く。


「友情の証ってか」


 寝食を共にする中で玲司の人柄に触れ友情を感じていた。

 ひょっとしたら彼も同じように思ってくれていたのかも。

 死人に口なし。最早玲司の心を知る術はないが今はそう思いたい。

 威吹は少し恥ずかしそうに頬をかき、ゆっくりと手を伸ばし絹本を裏返した。


「これ、は」


 雲一つない“夏”の空。

 燦々と降り注ぐ日差しの下、自分に似た幼い少年と空色の髪をした少女が手を繋ぎ笑い合っている。

 この子供たちが誰かなど考えるまでもない。


「………………話した覚えはないんだがな」


 ならば詩乃か? いや違う。

 あれはあれで境界線を弁えている。他人に話すような真似はしないだろう。

 ならば、独力か。

 死の淵に立つことで人ならざる感性が更に研ぎ澄まされたとしても不思議ではない。

 そしてより鋭敏になった感性で見たのかもしれない。

 過去を、ではない。恐らく玲司はこの絵の子供たちが誰かすら分かっていない。

 片方は察しがつくかもだが、彼女に関しては何一つとして理解出来ないはずだ。

 だが、玲司にとってそれはさして重要なことではない。

 描きたい、描くべきだと思ったから筆を取ったのだろう。

 そして自分に遺してくれた……。


「志乃」


 胸に走る甘い痛みに身を委ね威吹は静かに目を閉じた。

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