末期の一筆⑥

「……」


 難しい顔で黙り込む威吹を見て玲司は少し心配になった。

 失敗したか? と。


(お狐様にも事前に聞いてみたが……)


 今の威吹では難しいだろうが、出来なくはないとのこと。

 そして威吹を選んだのは正解であるとも。


「兄ちゃん、無理かな?」

「いや……やったことはないけど出来なくはないと思う。うん、多分ね?」


 玲司の認識を共有し削りだした魂を変化させる。

 それは恐らく出来るだろうと威吹は少し自信なさげではあるが肯定した。


「ただ……玲司さんほどの人間が要求する色だ。

それを形にしようってんなら相応の魂を捧げる必要があると思う」


 普通の人間で同じことをやっても恐らく、さしたる問題はない。

 人ならざる感性を持つ者が理想とする色彩。

 それを現実に変えようとするのだ。それなりの代償を支払う必要がある。

 威吹の言葉に覚悟の上だと玲司は答えるが、


「いやそれは分かってる。俺が言いたいのはね。

だからこそ魂の残量管理はキッチリしなきゃいけないってこと。

この手の変化は難易度高そうだからさ。過不足なく必要な分だけをってのは難しいと思うんだよ。

失敗しないようにするならどうしたって多めに魂を削りだすことになるだろうね」


 下手をすれば絵を完成させる前にくたばるかもしれない。

 ならば堅実に詩乃の手を借りた方が良いと威吹は言うが、


「兄ちゃんじゃなきゃ駄目なんだ」

「そりゃまた何で?」

「出来上がる色には兄ちゃんの妖気が混じるだろう?」


 それが大事なのだ。

 これから描く絵のテーマ。威吹はそれと深く繋がっている。

 そんな彼の欠片が混ざることで望む色は完成を見るのだと玲司は力説する。


「お狐様が正解って言ってたのも多分、そういうことだろうぜ」

「母さんがそんなことを……? となると……」

「ああ、多分、大丈夫のはずだ」


 奈落の一件に始まり九尾の狐は何かと自分の生命力を増やすよう差配してくれていた。

 恐らくそれはこういう事態を見越してのことだったのだろう。


「こんだけ生命力を増やしとけば、後は玲司さんなら気力でってことかな?」

「恐らくは」

「……理解した。ならばもう何も言わないよ。早速、始めようか。準備は良いかい?」

「おうさ」


 では、と威吹が手を伸ばす。

 伸ばした手がトプン、と溶けるように玲司の胸に吸い込まれていく。


「う゛」


 何とも言えぬ不快感に呻き声が漏れる。


「まずはどの色を作りたい? 作りたい色を強く……強くイメージして」


 目を閉じ、言われた通り強く念じる。

 瞬間、目には見えない何かがゴッソリとこそげ落ちたような感覚に陥った。


「ッッ……!!」


 椅子から転げ落ちそうになるが寸でのところで堪える。

 動悸が酷い。視界がチカチカと明滅している。

 これまでの健康状態が嘘であったかのような消耗だ。


「絵の具はどこに?」


 威吹にとっては想定の内だったのだろう。

 特に動じることもなくそんな問いを投げてきた。

 玲司は喋るのも億劫だったので震える指先でテーブルの上に並べた絵皿を示す。


「分かった」


 威吹の右手から小さな光の球が零れ落ちる。

 球体は絵皿に触れるとパチン、と音を立てて爆ぜ絵の具に変わった。

 絵皿の八割ほどを満たすそれは、正しくイメージ通りのものであったが……。


(た、魂削っても……こんな小さい皿一枚満たすことは出来ねえのか……)


 いっそ笑ってしまうほど法外なレートだ。

 だがまあ、覚悟の上でやっているので文句はない。

 玲司は威吹を見つめる。


「分かった。続けよう」


 そうして生成を続け用意した絵皿全てに絵の具が入った頃。

 玲司はげっそりと痩せ落ち枯れ木のような有様になっていた。


「どうする? 今日はこれで……」

「……いや……このまま、はじめる……」

「そんな状態で絵が描けるのかい?」

「描ける……いや、描く……」


 それに、コンディションで言えばこれがベスト。

 普段ならばともかく今回取り掛かる作品に関しては今の状態が最良なのだ。


「分かった」

「すま……ってうぉい!? あ、兄ちゃん何やってんだ!?」


 神妙に頷いた威吹が突然、自身の側頭部に指を突き刺したのだ。


「いや、絵を描く姿は見たいけど作品の途中経過は見たくないからさ」


 ぐりぐりと頭の中を掻き回しながら威吹は続ける。


「だからキャンバスだけ見えないように視界を弄ろうかなって」

「お、おう……そっか……」


 キャンバスではないのだが、まあそれはどうでも良い。

 というか、そんな雑に脳味噌を弄繰り回して視界を操作出来たりするのだろうか?

 疑問に思いつつもこれ以上は触れまいと玲司はスルーを決め込んだ。


「あ、でも気が散るなら出てこうか?」

「いや……俺は別にそういうの気になんねえタイプだし兄ちゃんにはむしろ居てもらいてえ」


 何せ、これが最後だ。

 絵を描き終える頃、恐らく自分の命は尽きる。

 老人の孤独死なんて社会の闇を感じさせる最期は御免被る。


「兄ちゃんさえ良けりゃよ。俺を看取ってくれや」

「…………分かった」


 頷き、真剣な顔で威吹は言う。


「あんたの――いや、貴方の最期に立ち会う役に俺を選んでくれてありがとう」

「かしこまるなってぇ。ケツの穴が痒くならぁ」


 大きく息を吐く。

 玲司は立てかけられた絹本に向き直り筆を取った――死出の旅路が始まるのだ。


「ところでさ結局、玲司さんは何を描きたかったわけ?

製作過程は見ないけど題材が何なのかぐらいは知りたいんだけど」


「ふむ、そうさなあ」


 手は止めず、意識は絹本に注いだまま言葉を探す。


「死だ」

「死……そりゃまた、有り触れたテーマだね」


 否定はしない。

 古今東西、死を描いた芸術作品なぞ腐るほどある。

 だが勘違いしてはいけない。

 テーマとしては有り触れていても作者が形にする死は千差万別なのだ。


「何で何十年もやってて気付かなかったの?

ってかさ。長いこと絵描きやってるんだから一度ぐらいはその手のテーマで描いてみたりはしなかったの?」


「しなかったな。師匠からは死をテーマに一つ描いてみろやと言われたが……」


 気が乗らなかったのでブッチした。

 代わりに何を描いたんだったか……もう覚えてはいない。


「気が乗らなかったって……」

「今にして思うと、当然だわな」


 何せ描くべき死の形が既に心の中に刻み付けられていたのだから。

 それを唯一と思うからこそ、描けなかった。


「しかし、死……死……死ねえ。俺が常に見続けてるものの中にそれがあるって?

うーん、イマイチピンと来ないな――おっと、別に玲司さんの意見が聞きたいとかそういうアレじゃないよ?」


「ああ、分かってるよ」


 チラリと横目で威吹を見る。

 その顔には涙のような黒い痣が浮かんでいた。


「ん、んん! 話がずれたので軌道修正しよう。玲司さんが見出した死の形って具体的には?」

「お袋さ」

「…………えー……あー……玲司さん、母親に殺されかけたりとか……」

「ちげーよ」


 そう来たかと思わず笑ってしまう。

 だが、言葉が些か足りなかったのも事実だと反省し玲司は語り始める。


「兄ちゃんは赤ん坊の時の記憶ってあるかい?」

「ないに決まってるでしょ。いや、偶に母親のお腹の中に居た記憶がーとかって話も聞くけどさ」


 そういう話は胡散臭いと威吹は一刀両断。


「妖怪の方がよっぽど胡散臭え存在だと思うがな」

「む、それを言われると反論に困るね」

「まあ俺も詳しい話はよく分かんねえけど記憶がないってのは違うらしいぜ?」


 具体的に何時だったかは覚えていないが、その手の話を聞いた覚えがある。

 あまり記憶に残っていないので説明してやれないが気になるなら自分で調べてもらおう。


「赤ん坊だから脳も魂も未熟だけどよ。一個の命としてはもう始まってるんだ。

なら、思い出せないだけで記録自体はされてるんじゃねえかな? じゃなきゃ俺だって何十年も迷走しねえよ」


「それって……」


 話の流れを察したらしい。


「俺はお袋が死ぬ瞬間をこの目で見ている」


 そして脳に、心に、深く焼き付いていたのだ。


「お袋はそこまで身体が丈夫じゃなくてよぅ。俺を産んでから日に日に弱っていったそうな。

親父の話じゃ医者も匙を投げてたらしい。だが、当人は不気味なぐれえ落ち着いていたんだってよ」


「死を覚悟していた?」

「さあ? それはどうかな」


 死を悟り真っ直ぐそれを受け入れていたのか。

 あるいは夫や子――つまり自分を不安がらせないために恐怖を押し殺していたのか。

 今となっては真実を知る術もない。

 いや、この世界ならばあるのかもしれないが玲司にその気はなかった。

 何でもかんでも暴きたてようとするのは無粋が過ぎるというもの。


「俺が生まれて二週間ぐらい経つとよ。お袋は昏睡することが多くなった。

いよいよ駄目かもしれねえってんで親父も随分と悔やんでいたそうな」


「悔やんでた?」

「お袋は良家の子女でな。親から結婚に反対されてたんだわ」


 それを押し切って家を飛び出し、父と結ばれた。

 母は勘当され親子の縁を切られたが、それでも子供が出来るまでの数年間はとても幸せな日々だったと言う。

 しかし、日に日に弱っていく最愛の女を見て心が揺らいだのだろう。


「別に貧乏してたわけじゃねえ。

むしろ、親父は普通の奴らと比べりゃよっぽど稼いでたよ。

でも、思っちまうんだろうなあ。自分が身を引いてりゃこんなことにはならなかったのかもってさ」


 母のために誂えられた最適な環境で暮らし続けていれば身体が良くなったかもしれない。

 好転せずとも、悪くなることはなかったかもしれない。

 父も母を随分と気遣っていたらしいが、それでも母の実家に比べれば不足があったのも事実。

 気に病まずにはいられなかったのだろう。


「そうこうしてる内にお袋は深い昏睡状態に陥ってよ。

医者の見立てじゃこのまま、二度と目を覚ますことはないだろうって話だったそうな。

だが、お袋は目を覚ました。奇跡だと沸く周囲を他所にお袋は親父に一つ、お願いをしたんだ」


「お願い?」

「ああ、最期に……俺と一緒に行きたい場所があるってな」


 それは母の実家にある庭園だった。

 幼い頃から身体が弱かった母は、あまり遠出も出来ず精々が庭を散歩するぐらい。

 そのような境遇だ。母は随分と暗い子供だったらしい。

 そんな母を気遣って祖父母はせめてもの慰めにと自宅の庭園に徹底的に手を入れたと言う。

 泣かせる親心の甲斐もあり、母は随分と明るくなったそうな。


「お袋は親父によく言ってたそうだ。自分が世を、生を儚まずに希望を知れたのは。

世界が美しいものだと思えた切っ掛けは間違いなくあの庭があったからだってな」


「そこに玲司さんを連れて行きたかったのは……」


 母親としてせめて最期に何かを遺したかったのだろう。

 例え記憶に残らずとも、心に刻まれたそれはきっと無駄にはならないはずだから。


「玲司さんはそこでお母さんの死を?」

「ああ」


 目覚めるばかりに照り映える緑。輝く太陽。

 芳醇な土の香り。競って咲き誇る花々。

 頬を撫でる優しい風。小鳥の囀り。

 ――――そして己を抱く母の柔らかな微笑。


「言葉はなかった。だが万の言葉よりも雄弁な微笑みだったよ」


 今ならばハッキリと思い出せる。

 話自体は十を数える頃には教えてもらっていたが、ままならないものだ。

 あの日、この目で焼き付けたものを思い出すのに随分と遠回りをしてしまった。


「いや、違うだろう」

「兄ちゃん?」

「遠回りなんかじゃあない」


 威吹は強く、しかし不思議と温かさを感じる声色で否定した。


「生と死は命の両輪。生を知らずに死を描こうなんて無茶が過ぎる。これが正しい順路だったんだよ」

「……」


「振り返ってご覧よ。見えるだろう? 今日まであなたが刻んだ命の足跡が。

お母さんから受け取ったものを大事に繋いで来たから、あなたは答えにたどり着けたんだよ」


 今日まで寝食を共にしてきたが、こんなに優しい顔をする威吹を見るのは初めてだ。

 これは人間狗藤威吹の顔なのか。それとも妖怪狗藤威吹の顔なのか。

 前者のように思えるが、不思議と後者だとも思える。


「臭いことを言ってくれる」

「む……いやまあ、うん。参ったね。どうも調子が狂う」

「カカ! だがまあ、ありがとよ」


 胸が熱くなった。

 この情熱も、注ぎ込もう。この絵に。命ごと。


(最後の最後で、最高のダチが出来た)


 これもきっと、母のお陰なのだろう。

 母が託してくれたものを胸に進んで来たからこそ得られたのだと、強く思う。


(ありがとよ、お袋)


 以降はもう、会話もなかった。

 一筆一筆に色と命を乗せ死を描く玲司。

 凪いだ顔でじっとそれを見守る威吹。


 朝が終わり昼が来て、昼を経て黄昏に。

 黄昏が夜に変わろうとも玲司はただの一度たりとて休息を挟まず筆を走らせ続けた。

 そうして時をなぞり続け七度、月と太陽が昇り――玲司は遂に絵を完成させた。


「……」


 死人の顔色、骨と皮だけの肉体。

 そのような有様の玲司だが絵を見つめる彼の視線はとても穏やかなものだった。


「はは、ちぃとばかし……予想外だったなあ」


 最後の一筆を入れたところで命が尽きるだろうと半ば確信していた。

 だがどうだ? まだ生きている。

 命を出し惜しんだわけではない。過不足なく絵に己を刻み付けた自負がある。

 ならばこれはと考えを巡らせようとして――やめた。


「どうでも良いわな」


 完成した絵をロクに見ることも出来ず死ぬと思っていたのだ。

 この望外の幸運を前に野暮は言うまい。

 感動、達成感、誇らしさ、懐かしさ、様々な感情が胸を満たしていく。


「なあ、どうだい兄ちゃん? 俺らの……」


 威吹に水を向ける。

 端的に――自慢してやりたかったのだ。

 しかし、とうの威吹は……。


「zzz」


 寝ていた。足を組んで椅子に座ったまま爆睡していた。


「…………そりゃねえだろうよ」


 とんだ肩透かしだ。

 しかし、これで良かったのかもしれない。

 もう直、自分は死ぬ。

 看取ってくれとは言ったが、よくよく考えれば死ぬ瞬間を見られるのは気恥ずかしい。

 ただ傍に居てくれるだけで十分だ。

 ならばこのまま寝かせておくかと玲司は笑う。


「さて」


 このまま絵を眺めながら逝くとしようか。

 そう思っていたら、ふと威吹の言葉が脳裏をよぎった。


「生と死は命の両輪……か」


 死は描き切った。だが、自分はまだ生きている。

 ならば最後の最後まで生を全うしてこそ真の意味でこの作品は完成するのでは?

 実際に何かを描き加えるのではない。

 自らの生き様という形なきものこそが最後のピースなのだとしたら、穏やかにくたばっている場合ではない。


「俺にとって生とは――ああ、考えるまでもねえやな」


 新たな絹本を用意し、玲司は筆を取った。

 何を描くか。それもまた考える必要はない。


「母の愛情に報いたのならば次は友の友情にってね」

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