末期の一筆③

 昼食の鰻に舌鼓を打った後は、帝都探索。

 過ぎ去った時の中にしか存在し得ぬ帝都の街並みは芸術家の心を擽ったらしく、玲司は終始上機嫌だった。

 そして夕刻。

 夜にまだ予定を控えているが威吹は一旦、玲司を連れて帰宅することにした。


「また随分とクラシカルなお宅じゃねえのよ」

「大正基準では最先端なんだけどね」


 扉を開け中に入ると食欲をそそる香りが鼻を擽った。

 どうやら詩乃は料理の真っ最中らしい。

 威吹は玲司を伴って台所まで向かう。


「ただいま」

「おかえりなさい……――ってあら? そちらのお爺さんは?」

「三田村玲司。現世の御偉い画家さんなんだけどしばらくうちに居候させてあげて良いよね? ありがとう」

「いやまだ何も言ってないけど」


 そうは言うが詩乃のことだ。

 大抵のワガママは聞き入れてくれるのはもう知っている。


「良いんでしょ?」

「良いけどさあ……っと。自己紹介しなきゃだね。はじめまして画家先生。狗藤詩乃と申します」


 詩乃は火を止め玲司に挨拶をした。

 女性らしいたおやかさに満ちたものであったが玲司の感性も常人のそれではない。


「こりゃあ……また……凄まじい毒っけだねい。

いや、俺も随分と遊んで来た“そういう”女に痛い目遭わされたことも一度や二度じゃあねえが」


 比べ物にならんと、心底嬉しそうに玲司は笑った。


「ふぅん」


 一方の詩乃。

 愛想の良い笑顔を浮かべてはいるが、玲司を値踏みしているらしい。

 威吹にはそれがよく分かったし、玲司自身も恐らくは気付いているはずだ。


「また随分と珍しいタイプの人間を連れて来たもんだね」


 クスクスと面白い玩具を見つけたかのように詩乃は笑う。

 嘲っているようにも見えるが、そんなことはない。

 むしろ、玲司を高く評価している。


「久しく見ていなかったよ。この手の人種は」

「どういうこと?」

「昔はね、この先生みたいな芸術家もそう珍しくはなかった」


 過ぎ去った時間に思いを馳せているのだろう。

 どこか遠い目をしながら詩乃は語る。


「導かれるように。誰に? 神に? 悪魔に? いいえ、自分に。

己に導かれるがまま筆を、鑿を、必要なものを手に取り自然と作品を作り始める」


 それしか見えていないわけではない。

 しかし、何をしていても最終的にそこに帰結してしまう。

 食事も、睡眠も、性欲も、娯楽も、何もかもが糧になる。

 そうと意識したわけでもないのにと詩乃は語る。


「最初から道を踏み外してるんだよ。傍目にはそうとは分からないけどね」

「だがよぅ、お狐様。絵描き――いや、芸術家なんてのは大体そんな落伍者ばっかだろうに」


 自分は何一つ特別ではないと玲司は言う。


「そうだね。事実、高名な芸術家に人でなしなエピソードはつき物だし。

でもね、ここで言う道を踏み外してるってのは表面的なものじゃないんだよ」


 威吹と玲司が揃って首を傾げる。


「世の理から逸脱してるんだよ。

だから、見えないものが見えたり感じ取れないものが感じ取れてしまう。

いや、こう言うべきかな? 見てはいけないもの。感じてはいけないものにさえ触れてしまう」


 ニタァ、と詩乃の唇が吊り上がる。

 威吹は詩乃の言わんとしていることを何となしにではあるが理解した。


(……笑ってるよ、この爺様)


 傍目には詩乃が底意地の悪い笑みを浮かべているだけに見えるがそれは違う。

 彼女は今、九尾の狐としての毒性を人体に有害にならない程度に発露している。

 それは人が感じ取れる類のものではない。

 しかし、玲司は確かに毒を認識している。恐らくは自分よりも深いレベルで感じ取っている。

 その上で、これは良い物を見たと笑みさえ浮かべている。


 神秘に触れて耐性がついたのならば、まだ良い。

 だが玲司が肌で神秘を感じるようになったのは今日が初めてだ。

 普通、耐性のない初見の人間が九尾の毒気を認識してしまったのなら嫌悪を覚えるはずだ。

 狂った精神構造をしている人間でない限りは、それが正常な反応だ。

 なのに玲司は笑った。

 常識的な感性も備わっているはずなのに、笑えてしまう。

 狂っているの一言では片付けられない何かを威吹は感じていた。


「先生にもそんな人ならざる感性が宿ってしまっている」

「ふむぅ。自覚はねえが、お狐様ほどの化生が言うんだ。その通りなんだろうな」

「どうでも良い嘘は吐かないよ」


 いや、それ自体が嘘だろう。

 どうでも良い嘘も気分次第で吐くのが生粋の嘘吐きだ。

 とは言え、この場では関係のないことだし今は本音を語っているので威吹はツッコミを入れなかった。


「ねえ、先生」

「あん?」


「先生は本当に描きたい絵があるんじゃない?

これまで世に生み出した作品は全部探求の途上で生み出したオマケ――合ってるかな?」


「合ってるぜぃ。絵描きに限らず芸術家は皆そうさ」


 まだ話は続きそうだしお茶でも出そう。

 そう考え威吹は邪魔にならぬよう冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。


「それは人によるだろうけど今話題にしてる人ならざる感性を宿す芸術家は大概、そうだね。

本当に形にしたい何かを求めて遮二無二作り続ける。

そうして生まれた作品はまあ大概は名作傑作と謳われるものばかりなのだけど……ンフフフ。

時々ね、本当に厄介なものも生まれちゃうんだよねえ」


 それが本命の作品でなくとも。

 詩乃は妖しく笑った。


「お、すまねえな。お狐様。厄介な作品ってのは?」


 コップを受け取った玲司は威吹に礼を言いつつ先を促す。

 その目には隠し切れない好奇の色が滲んでいた。


「文字通りだよ。厄を、禍を招くの」

「人が死んだりするってか? 言っちゃ何だが……」

「作品を巡って人が死ぬのは珍しくもないって? まあ、そうだね」


 でも、その規模が桁違いだったとしたら? 詩乃は続ける。


「そうだね、芸術に疎い人間でも常識として知ってるレベルのある高名な画家の話をしようか。

彼もまた人ならざる感性の持ち主で真実の一作を求めて多くの作品を生み出した。

どれもこれも人類の宝と称されるほどの評価を得てるけど、それはあくまで表に出せるレベルのものでしかない」


 人類の宝。

 それほどの評価を得る作品とはどれほど素晴らしい出来なのか。

 そして、世に出せない作品はどれほどおぞましい出来なのか。

 威吹は心底、興味をそそられた。


「彼が描いたある作品は一週間。たった一週間で十万人の人間を殺した」

「じゅうま……!?」


 大きく目を見開き、身体を震わせる玲司。

 さしもの彼も驚愕を禁じ得ないようだ。


「そしてその絵を抹消するため、更に六万もの人間が死んだ。

信じられない? でも事実だよ。歴史の闇に葬られたけど知る者は知っている」


 たった一枚の絵のせいで十六万もの人命が消えた。

 与太話にしても、もっとマシな嘘を吐くだろう。

 だがどう足掻いても冗談にしか思えない話は真実なのだ。

 詩乃の目がそれを雄弁に語っている。


「でもね、何が酷いって……」

「そいつがお前さんが言うところの真実の一作じゃなかったってことかい?」


 御名答、と詩乃は軽く手を叩いた。


「そんな惨事を起こしておきながらもその画家は絵を描き続けた。

けど、終生真実の一作を描くことは出来なかった。でもさ、気になるよね?」


 仮に、仮に出来上がっていたとしたら。

 それはどれほどの影響力を持つ一枚になっていたのか。

 威吹はゴクリと喉を鳴らした。

 興奮しているのだ。

 そんな画家と同じ感性を持つ玲司が真実の一作を描き上げたらどうなるのか。

 どれほどの作品になってしまうのか。溢れ出る好奇心を抑えられない。


「と、ところでよぅ。その画家、何てぇ名前なんだい?」


 もしかしたら他にも。

 そう考えたのだろう。玲司の瞳には危険な輝きが灯っていた。


「ンフフフ、勘が良いね。ええ、その画家は他にも表に出せない作品を残してる。

それはまだ許容出来るレベルのものだったから厳重に封印を施されたんだけど……」


「けど?」

「第二次大戦の混乱でどっかに流れちゃって今は行方知れず」


 その言葉に玲司が身を乗り出す。


「な、なら……!」

「探したいの? でも、その寄り道だけで残りの寿命使っちゃうと思うよ?」

「う、ぐ……そ、それは……」

「それでも聞きたい?」

「…………え、遠慮しとくぜ」


 それはそれは苦い顔であった。


「ちなみに母さんはその絵を見たことあるの?」

「残念ながら。日本に居る私に情報が届く頃には、すっかり過去の話だったし」


 つまりは外国の話なわけだ。

 そして情報伝達手段が発達していない時代。

 さらりと情報を出すのが絶妙にイヤらしい。


「あ、そうだ。母さんを題材にした絵がそうなった例もあるんだよ?」

「マジでか」

「聞きたい?」


 可愛く小首を傾げる詩乃に二人は即座に頷いた。


「作者は川村鉄蔵」

「「ん?」」


 あっさり名前を出したことに首を傾げる威吹と玲司。

 そんな彼らにそこも含めてまた後でと言い含め詩乃は、続きを語る。


「ちなみに威吹――は知らないか。先生はどう? 川村鉄蔵の名前は知ってる?」

「知らんわけがなかろうよ。北斎の本名じゃねえか。しかし、敢えてそれを名乗ったってこたぁ……」

「そ。まだその画号を名乗る前。鉄蔵少年、十二歳の頃のお話だよ」


 つまり北斎は十二の頃には既に表に出せないレベルの作品を生み出していたわけだ。

 天才――そう呼ぶのも生易しい才覚だ。


「威吹には前話したけど当時、私は大奥で働いてて、ある日、当時の御台所様に頼まれて市中に出てたんだ。

その時、偶然九尾の狐を描いてる鉄蔵少年を見かけてね。

後年の作品と見比べると未熟も未熟。でも、誰の目にも分かるほど光るものがあった。

だからまあ、私を題材にしてくれてるってのもあったからつい声をかけちゃったの」


 九尾の狐に目をつけられるとは運が悪い。

 同情する威吹だが、


(あれ? でも北斎ってかなり長生きだったような……)


 であれば特に悪さはしなかったのかもしれない。


「愛想が悪い子供だったねえ。

一瞥もくれないもんだから、つい悪戯心が沸いちゃってさ」


 攫って自分の正体を晒してやった。

 詩乃はそう言ってケラケラ笑うが、


「…………やばいだろ、それ」


 正体というのはそれそのまま。

 化け物としての、九尾の狐としての本来の姿を見せたのだろう。

 術者やバリバリ化け物とやり合っていた時代の武士でもない限り、正気では居られまい。


「うん。見事に道を踏み外しちゃったよ」

「「お前のせいじゃん!!」」

「いやぁ、遅かれ早かれだったと思うよ? まあ、そこから私と鉄蔵少年の付き合いが始まったの」


 鉄蔵は本物の九尾を知るや否や、自身が描いていたもの即座に破り捨てた。

 そして詩乃にどうか、モデルになって欲しいと懇願したと言う。


「私は快くそれを受け入れた。って言ってもモデルとしてずっと付きっ切りだったわけじゃないけどね。

一度、じっくり見せた後は時々足を運んでその都度、本性を晒してたって感じ。

それで大体、二ヶ月ぐらいかな? 三月の終わり頃に絵は完成した」


「…………三月の終わり?」


 玲司が眉間に皺を寄せる。


「北斎が十二歳の頃……ってことは……おいおいおい、明和の大火か?」

「御名答」

「明和の大火……あ、ああ。明和の大火ね。知ってる知ってる」


 威吹は歴史に疎かった。


「威吹? 知らないのは恥ずかしいことじゃないんだよ? 本当に恥ずかしいのは聞かないこと」

「母親らしいこと言いやがって……玲司さん、明和の大火ってのは何なの?」

「江戸三大大火に数えられる大火事さ。死者は一万四千人。行方不明者は四千人以上だったか?」

「そりゃまた」


 随分な大火事だ。


「鉄蔵少年は絵を描き上げると、一息吐くため蕎麦を食べに行ったらしいの。

でも、それが良くなかった。真秀という男が鉄蔵少年の家に盗みに入り……絵を見てしまったの。

私の魔性を鉄蔵少年の魔性を以って形にしたそれは瞬く間に真秀の心を奪った。端的に言って、惚れちゃったんだね」


「惚れたって……ケモナー?」

「ああごめん。ちょっと説明不足だったね。何もそのまま私を描いたわけじゃないんだよ」


 正確に説明するならマジモンの九尾の狐を観察。

 その上で鉄蔵が自らの感性を以って擬人化させたものを描いたのだ。

 なので分類としては妖怪画ではなく美人画にあたると詩乃は補足する。


「絵を“攫った”真秀はそのまま逃げ出した。愛の逃避行だね」


 最初の内はそれはもう、幸せそうだったと詩乃は言う。


「何で知ってるの?」

「後で記憶を覗いたからね。でも、幸せな時間は長くは続かなかった」


 誰も彼もが俺の女を狙っている。

 真秀は段々、情緒不安定になっていったそうな。

 猜疑心は際限なく嫉妬と独占欲を膨れ上がらせた。


「その末に真秀は目黒にある大円寺で心中を図った」

「ん? だが待てよ。確かそいつは長谷川平蔵の親父に逮捕されて火刑に処されたんじゃなかったか?」

「慌てないで。まあ、そうだよ。あくまで心中を図っただけ」


 真秀は死ななかった。いや、死ねなかった。

 火を点ける瞬間、絵に食われたのだと言う。


「絵に喰われた……? そいじゃあまるで……」

「そ。九尾の狐だもん。男を誑かしてなんぼ。鉄蔵少年の絵はある意味で完成してなかったの」

「なるほど。イカレちまった男が出来て、初めて完成したわけだ」

「でもさあ。描いてた本人はともかく、二ヶ月もかかってたんだよね?」


 その間に他の誰かに見られることもあったのでは?

 威吹は率直な疑問を投げかけた。


「ンフフフ、不思議なものでね。その手の作品はね。

完成するまでは本当に、ただの絵だったり彫刻の域を出たりはしないの。

どれほど素晴らしいものだったとしてもね。

そういう意味で鉄蔵少年の美人画は特殊だったけど……これはまあ、題材が題材だったからしょうがないね」


 なるほど、と頷き威吹は続きを促す。


「大奥に居た私もそれを察知してね? あ、これやばいなと思って直ぐに駆け付けたわ」

「……母さんがやばいって思うレベルかよ」

「私が直接、絡んでたのもあるだろうね。お陰でちょっとした妖怪大決戦になったよ」


 なるたけ早く絵を倒し封印したつもりだったが結局、かなりの被害が出てしまった。

 ごめんね福ちゃんとしみじみ謝る詩乃だが、


(…………母さんが止めなきゃどうなってたんだ?)


 下手をすれば歴史が変わっていたかもしれない。

 それほどの影響があったのではなかろうか。


「その後は、絵から取り出した真秀を放逐。

鉄蔵少年に真実を話して道を選ばせたりもしたっけなあ」


 道を選ばせる。

 こんなことがあってもまだ、絵を描くの? などと意地悪く迫ったのだろう。

 だが結果は歴史が証明している。


「そんな経緯もあって、私は鉄蔵少年と本格的に交友を深め始めてね。

あ、一応言っておくけどただの友達だよ? 男と女の関係はなかったよ?」


「分かってるから話進めて」


「んもう、つれないなあ。それで、彼がやばい作品を生み出す度に私が引き取ることになったの。

途中からは何かどこまでがセーフでどこからがアウトなのかチキンレースみたいなことまで始めちゃってさ。

ホントもう、参るね。ま、そういうわけで表に出せない作品は全部、私の蔵に収めてあるの」


 その言葉を聞くや玲司の目の色が変わった。


「じゃ、じゃあ……!!」

「見せてあげる。ただ、そのまま見るのは危ないから威吹、守ってあげてね」

「りょーかい」


 威吹が答えると詩乃は虚空に手を翳した。

 すると、何もなかった空間に門が出現し、ギギギと音を立てて扉が開く。

 中に入っていないのに凄まじいオーラを感じる。

 咄嗟に玲司を守らねばやばかっただろう。


「鉄蔵少年の作品を収めてる部屋に直で繋げてあるから」

「あ、兄ちゃん!!」

「はいはい、今行きますよ。母さん、ご飯出来たら呼んでね」


 玲司を伴って門を潜る。

 中はシンプルな作りだが、それだけに飾られた数々の作品が際立っていた。

 芸術に疎い威吹でも分かった。

 この部屋は鉄蔵の――葛飾北斎の絵がよく映えるように作られているのだ。


「ん? あれって富嶽三十六景?」


 威吹でも知っている有名な作品を発見。

 しかし、教科書で見たそれとはどうも違うように見える。

 絵が秘める魔性もそうだが、それ以外にも、もっと表面的な何かも……。


「玲司さん、ちょっと解説をお願いした――――」


 本職の意見を聞こう。

 そう思って隣に立つ玲司に視線をやり、絶句する。


「お、お、お……おぉぉぉおおおおおおお……!!!!!」


 隆起する下腹部。

 その頂点からじわりと染みが広がり……玲司はバタリと倒れた


「じ、ジジィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!!!!」

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