第三十五話 平原 香苗Ⅳ

 優が家に帰る日。

 昼過ぎに、新一が優を迎えに俺の家までやってきた。


「よう。久しぶりだな、おまえたち」


 玄関口で新一はいつもの調子で気さくに片手を上げ、そんな挨拶をしてきた。一方の優は兄と正面から相対するのが怖いのか恥ずかしいのか、後ろに隠れて俺のシャツの裾を握りしめている。


「……まだ数日しか経ってないだろ」


「そういや、そうだっけな。……あと優。そんな風にされると、兄ちゃんちょっと悲しいぞ?」


「ごめん。お兄ちゃんの顔をちゃんと見るの久しぶりだから、どうしていいか分からなくって……」


 優がおずおずと、俺の背中から顔を半分出しながら言う。


「昔みたいに、お兄ちゃん好き好き大好きって言ってくれてもいいんだぞ」


「……そんなこと、一度も言ったことないんだけど」


 優が冷めた視線を新一に送る。


「はは、そうだったか? ……さて、それじゃ帰るとするか。と言いたいところだが、暁は何か俺に話がある顔をしているな」


「……ああ、ちょっとな」


 相変わらず察しのいい奴だ。まあ、お陰で手間が省ける。


「そうか。……すまなかったな、暁。省吾から事のあらましは大まかに聞いているが、おまえには苦労をかけた」


「別に、おまえが謝ることじゃないだろ。……それより聞きたいことがあるから、ちょっと上がってくれ」


「ああ」


 居間に新一たちを通して、お茶の用意をしようと台所へと向かおうとすると新一に呼び止められた。


「待て、暁。飲み物なら買ってきたぜ。ほらよ」


 新一が投げて寄越してきたのは、ドリンク剤だった。

 ――――ラベルには精力剤『夜魔王』と書かれている。


「こんなもん昼間から飲めるか、バカ!」


「今のおまえには必要だと思ったんだがな」


 こ、こいつは相変わらずというか何というか……。


「何……?」


 優が俺の手元を覗き込もうとしてきたので、それを慌ててポケットにしまった。


「……おまえは知らなくてもいいものだ」


「何それ。余計に気になるんだけど」


 優が不満そうにジト目で睨んでくる。


「……さあて、お茶を淹れないとなぁ」


「……どうせエロいアイテムなんでしょ」


 優の言葉と視線を無視して、俺は三人分の紅茶を用意した。


「さて、おまえが聞きたいのは香苗のことだろう?」


 新一は俺が運んできた紅茶を一口飲むと、話を切り出した。


「ああ。……香苗を、助けたいんだ」


「そうか。そうだな、おまえになら話してもいいが……」


 新一の視線が優へと向く。


「……わたしも、聞きたい。暁がどんな問題に向き合ってるのか、知りたいし」


 優が、はっきりと自分の意思を告げた。

 少し前なら、きっとできなかったことだ。

 この短期間で優も成長している。


「ダメだ。おまえは席を外せ」


「やだ」


 優は食い下がるが、新一も譲る気はないようだった。


「優が聞きたいってなら、別に俺は構わないけど……」


 優の気持ちを無下にしたくないと思い助け舟を出したつもりだったが、俺の発言に新一は眉をしかめた。


「暁。それはおまえが決めることじゃない。ダメと言ったらダメだ」


「なんで? わたしだって、暁の力になりたい……!」


 優が新一に対して抗議の声を上げる。


「それは、また別の機会にそうすればいい。……いいか、おまえたち。俺がこれから話そうとしているのは、個人の非常にデリケートな問題に関することだ。本来なら暁にだって話していい内容じゃない。おまえたちだって自分の秘密をペラペラと他人に喋られたら嫌だろ」


「それは……」


 優が言い淀む。

 たしかに、それは新一の言う通りだ。


「香苗を助けたいと言う、暁にだから話すんだ。……優、それは分かるな?」


「……分かった。部屋で待ってる」


 まだ少し不満そうだったが、優は頷いて返事をすると席を立ち居間から出ていった。


「……さて、どこから話したもんかな。そうだな。まず暁、おまえは香苗についてどこまで知っている?」


 新一からの問いかけを受けて、俺は自分の記憶を辿る。


「……昔付き合ってた男に浮気されたっていうことくらいしか、知らないな」


「ああ、そうだ。それをきっかけにしてあいつは心を病んで、学校にも行けなくなった」


 自分が好きな相手に裏切られた。

 俺が香苗にしたことは、そのトラウマを想起させるものだったのかもしれない。

 だとすれば、あんな風になるのも無理はない。

 ……俺が、香苗を絶望の底に叩き落としたんだ。

 そんな奴が香苗を助けたいだなんて、傲慢にも程があるのかもしれない。


 でも、だとしても。

 一度決めたことを、投げ出したくはない。

 俺は、もう逃げたくない。逃げ出したくない。

 これも単なる自己満足だろうと思うが、それでもよかった。


 傲慢でも欺瞞でも偽善でも何でもいい。俺は自分のためにも、絶対に香苗を救うと決めたのだ。


「それが原因なんだとしたら、その男と香苗を復縁させればどうにかなるか?」


 自分で言っていて、そんなわけがないと思った。

 案の定、新一も首を横に振る。


「いや。そのことは、ただのきっかけに過ぎない。香苗の依存体質は元々だからな。根は、もっと深いところにある」


「深いところ……?」


「……家族関係だ」


「……」


 ……ここでもまた、家族か。


 俺や楓も、そうだった。親からの愛情を知らずに育ち、それ故に他者からの愛情に飢えていた。

 優や新一だって、形は違えど家族に関する問題を抱えていた。


 家族――血縁というものは、良くも悪くも個人の人生や価値観に多大な影響を与える。

 俺が今こうしていられるのだって、家族――姉さんの存在があったからこそだ。


「香苗の両親は、俗に言う仮面夫婦ってやつでな。外では仲のいい夫婦を演じていたそうだが、実際にはお互いに愛人を作っていて家族関係も冷え切っていたそうだ。だから家に戻ることも少なく、香苗は幼少のころから寂しい思いをして育った」


「……そうか」


 ……やっぱり、似ている。


「そういう点で言えば、暁。香苗も、おまえや林楓はやしかえでに似ていると言えなくもないな」


 新一が俺の胸中を言い当てる。


「そう、だな。……でも、俺には姉さんがいたし、楓には妹がいた」


 傍に誰かがいてくれる。そのことに、俺たちはどれだけ救われただろうか。

 しかし、香苗には――――


「……香苗には、そういう存在がいなかった。あいつは、ずっと一人ぼっちだったんだ。かつて一人だけ友達ができたこともあったそうだが、束縛癖が災いしてだろうな……縁を切られたらしい」


「……束縛癖、か」


 たしかに、思い返せば香苗にはそういうところがあった。

 それは恐らく、相手が異性であっても同性であっても同じことなのだろう。


「そういった経緯から、香苗は愛情に飢えている。を探している。そういう相手でなければ、あいつの心が満たされることはない」


「……だとしたら、どうすればいいんだ?」


 それなら、香苗の想いを受け止め切れる誰かを探せばいいのだろうか。……バカか。そんなことは第三者が介入してどうこうできる問題じゃない。仮に出来たとしても、すぐに破綻するのは目に見えている。


「俺からの話はここまでだ。……この話を聞いて、これからどうするかはおまえ次第だ。暁」


「……おまえは、何もしないのかよ」


 それはちょっと、あまりにも冷たすぎやしないか。


「暁、これはおまえが始めたことだ。省吾から聞いたが、おまえが不登校部を作り直すんだろう? なら、おまえが考えて、おまえが動かなければ意味がない」


「……そう、だったな」


 返す言葉もない。

 それを忘れていたわけではない。でも心のどこかでは、まだ新一を頼りにしてしまっていたらしい。


「だが、俺は決しておまえたちを見放したわけじゃない。それだけは勘違いしてくれるなよ。俺だって、おまえと同じくらい、おまえたちを……不登校部のことを、大切に思っている」


「……ああ、分かってる」


「それならいい。俺の力が必要なときは呼んでくれ。……あばよ」


 それだけ言うと、新一は片手を上げて居間を後にした。


 それから家を出る二人を見送った俺は、これからどうするかと考えていた。すると、目の前で玄関のドアが開く。

 見ると、優が一人で戻ってきていた。


「どうした、忘れ物か?」


「……うん、忘れ物」


 こちらに歩み寄ってきた優は、じーっと俺を見上げてくる。心なしか、頬を赤らめているようにも見えた。


「……何だ、俺の顔に何かついてるか?」


「……バカ、鈍感」


 何故かいきなり罵倒される。


「な、何だよ……」


「……顔についてるの取ってあげるから、屈んで」


 言われるままに膝を曲げると、いきなりデコピンをされた。


「いってぇ!? 何でだよっ!?」


「暁が鈍感だから。わたしが何も言わないでも察して屈んでくれたら、キスしてあげたのに」


「な、何だと……? なんてこった……」


 優からキスをしてもらえるチャンスをみすみす逃したのか、俺は。

 そう考えると何だか無性に落ち込んできた。


 がっくりとうなだれていると――――唇に柔らかな感触を感じた。

 完全に不意打ちだった。


「……頑張ってね、暁」


 優が照れ臭そうに微笑みながら、そう言った。


「……ありがとな」


 どちらからともなく、もう一度キスをする。


「……忘れ物とったから、もう行くね」


「……ああ、気をつけてな」


 今度こそ優を見送ると、俺は居間に戻って今後の作戦を考えた。


 香苗は、愛情を知らずに育ってきた。

 本当の愛情を知らないから、それに気がつくことができない。

 何もかもが、敵に見えてしまうことがある。

 ……かつての俺が、そうだったように。


 だとすれば、自分自身がどうだったかを辿れば解決策が見えてこないだろうか。


 はじめて味方になってくれたのは、俺の場合は姉さんだった。

 しかし香苗には、味方になってくれるような身内はいない。


 姉さんの次は……楓だ。

 しかし姉さんがいなかったら、俺は楓のことを信用することはなかっただろうと思う。

 そう考えると、他人が何を言っても香苗が心を開くことはないんじゃないのか……?


 ……やはり身内の、家族の存在というのは、とてつもなく大きいんだ。


 思考が行き詰まる。


「……少し、出歩くか」


 というか、省吾との戦いで負傷した足を病院で診てもらわなければならないことをすっかり忘れていた。痛みは引いてきたが、優に病院に行くと約束したからには行かねばなるまい。


 それに、このまま考え続けても思考が泥沼にはまるだけだという予感がある。


 それなら気晴らしも兼ねて出かけ、そのついでに病院へ行こう。俺は片足を引きずりながら家を出た。

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