第三十四話 二人の時間Ⅱ

 俺は省吾に肩を借りて、挫いた片足を引きずりながら帰路へと就いた。


 家に帰ると早々、子猫を胸に抱いた優に出迎えられる。


「……今日も、また遅かったね」


 ……怒っていらっしゃる。

 そういえば、遅くなりそうだと連絡するのをすっかり忘れていた。


「……しかも、何か連れてきてるし」


 優のジト目が省吾へと向く。


「おう、久しぶりだな優。しばらく見ねぇうちに大きく……なってねぇな」


「うるさい。制裁」


 優が子猫を省吾の腕に近づける。

 飼い主の怒りを感じ取ったのだろうか。子猫は省吾の腕を引っ掻いた。


「痛ぇー!? テメェ何しやがんだよ!?」


「暁、うちには省吾を飼う余裕なんてないの。元の場所に戻してきて」


 優は省吾を無視して、まるで捨て犬を拾ってきた子供を叱る母親のようなことを言った。


「そう言うなって。優も久々に省吾に会えて、本当は嬉しいだろ?」


「……まあ」


 俺の言葉に、優は無表情のままで頷く。


「なら、もうちっと嬉しそうな顔しやがれってんだ。昔っから分かりにくいんだよ、テメェは」


 省吾の悪態に、優の眉が少しだけ下がる。

 俺も最近気がついたが、これはイラッとしたときにこうなるらしい。それでも無表情のままだから注意して見なければ、まず気がつけないが。


「……省吾の方こそ、昔からバカじゃない。小学生のとき、道端の乾いた犬の糞をカリントウと間違えて食べようとしたくせに」


 優が省吾の衝撃的な過去を暴露する。


「おまえ……流石にそれは引くぞ……」


「あの時は腹減ってたんだよ! 仕方ねぇだろっ!?」


「だからって落ちてる物を、しかも犬の糞を食おうとするな」


「うるせえ! 腹減りすぎてて見分けがつかなかっただけだよっ!!」


「バカだな」

「バカね」


 俺と優の声が重なる。


「テメェら、ムカつくほど仲良さそうで何よりだよチクショーーーッ!!」


 省吾は絶叫すると、泣きながら走り去っていった。

 あいつだって結構なダメージが残っているだろうに、本当に元気というか頑丈というか。

 何はともあれ、あの調子なら省吾は大丈夫だろう。

 俺も気が抜けたからか、挫いた右足の痛みが急に増してきた。


「っ……」


 靴と靴下を脱いで患部を見ると、少し腫れていた。折れてはいない……とは思うが、圧迫すると痛みが走る。


「どうしたの、これっ……?」


 優が心配そうに覗き込んできた。


「ちょっとモンスターとの戦いで負傷した」


「モンスター……? ……ああ、あの話ね。もしかして、省吾から聞いた?」


「ああ。ちゃんと仲間にできたぞ」


「はぁ……。お兄ちゃんといい暁といい省吾といい……ほんとバカなんだから……。手当てしてあげるから、そこで待ってて。救急箱、ある?」


 それから優に応急処置をしてもらい、ちゃんと明日病院に行くようにと念を押された。


「……暁、省吾と知り合いだったのね」


 優が少しだけ意外そうな顔をした。


「ああ、あいつは不登校部の仲間だよ」


「不登校部……お兄ちゃんが作ったっていう……?」


「そうだ。新一が、いつかおまえの居場所にしようとしていた集まりだ」


 優には、まだ不登校部のことを詳しくは話していない。


「……そう。昨日の夜、友達を失ったって言っていたのは省吾のことだったの?」


「……ああ」


「……仲直り、できた?」


「何とかな。……だけど、あともう一人いるんだ」


「……そう」


「……俺は、新一も、省吾も、香苗も……みんながいる不登校部を取り戻したい。そのときは、そこには優にもいてほしい」


「わたしの居場所は、暁の隣だから。……それが暁の望みなら、応援する」


 なんて嬉しい言葉だろうか。

 その一言だけで俺は、これから先どんな苦難だって乗り越えていける気がした。




◇◆◇




 その日の夜、新一から連絡があった。


 新一と優、二人の父親との話し合いに決着がついたらしい。

 父親は優と向き合わずに辛く当たっていた非を認め、これから少しずつだが家族としてやり直していけるようにしたいと言ったらしい。


 それを聞いた優は、初めは複雑そうな顔をしていたが「お兄ちゃんとお父さんが頑張ったんだから、わたしも頑張らないとね」と言って微笑んだ。


 そして、優は明日にでも家に戻ることができる。

 それは喜ばしいことだが、正直なことを言うと寂しくもある。


 こうして寝付けないでいると、部屋のドアがノックされた。

 もう日付も変わろうかという時刻だ。


「はい、どうぞ」


 俺の返事を聞き、ノックの主がドアを開ける。

 どうせ酔っぱらった姉さんが絡みにでもきたのだろうと思っていたが、姿を現したのは枕を胸に抱きかかえた優だった。


「……ど、どうした?」


 予想外の訪問にドギマギしてしまう。


「……眠れなくって。ねぇ暁……一緒に寝ても……いい?」


 もじもじと恥ずかしそうに枕で顔の下半分をしながら、そう優は言った。


 これはやばい。

 可愛すぎて、やばい。


 優の愛くるしさに、俺のただでさえ乏しい語彙力が消滅した。


「あ、ああ……いいぞ」


「……ありがとう」


 優がベッドの中に入ってきて俺の隣で横になると、正面から向かい合う形になる。


 ……顔が近い。互いの吐息を感じる距離だ。


 優が俺の手を握ってくる。

 ただそれだけで脈拍が跳ね上がった。


 見た目だけで言えば昼に出会った小学生たちと変わらないのに、どうしてこうもドキドキするのだろうか。


 いや違う、俺は優の容姿に惹かれたわけじゃないのだ。上手く言い表せないが、存在そのものに惹かれたというか……。


「……暁は、わたしのどこが好きなの?」


 ちょうど俺が考えていたことを、優も口にした。


「全部」


「……もっと具体的に言ってほしい」


「そう言われてもな……。おまえの存在そのものが好きなんだから、仕方ないだろ」


「……ごめん。わたし自分に自信がないから、どうしても不安になっちゃうの……」


「自信?」


「性格だって、その……暗いし」


「大人しいってだけだろ。暗くはない」


「……体も、小さいから」


 ……そこ、気にしていたのか。


「……小さい方が好きだって奴もいるから、別にいいんじゃないか」


 そう言ってから全く慰めになっていないことに気がつき、しまったと思う。


「それ、全然嬉しくない」


「……だよな。悪い」


「……あ、暁が小さい方が好きだって言ってくれたら……嬉しいかもだけど……」


「お、俺が……?」


 それを言ったら俺がロリコンであると宣言するようなものじゃないか。


 それは良くない。

 道徳的に、倫理的に、良くない。


「……ごめんね、変なこと言った。普通の男の子は小さい方が好きなんて、そんなわけないのにね……」


 優は寂しそうに笑うと、寝返りをうって顔を背けた。


 俺は何をやっているんだ。

 好きな子を悲しませて、何が男か。


 道徳ぅ? 倫理ぃ?

 そんなものは知ったことかッッッ!!


 優を悲しませるくらいなら、もう俺はロリコンでもいい。

 むしろ、ロリコン上等である。


「……俺は、小さい方が好きだぞ。優」


 それを口に出した瞬間、俺の中の何かが音を立てて壊れた。


 グッバイ、ノーマル暁。

 ハロー、ロリコン暁。


「……改めて言われると、それはそれで何か嫌かも」


 再度こちらを振り向いた優の顔は、あからさまに引いていた。

 ロリコンという名の十字架を背負おうという、俺の決意を返せ。


「……でも、嬉しい」


 ショックを受けた俺の顔が面白かったのか。優はくすりと笑ってから、囁くようにそう言った。


 それだけで、もう心が満たされてしまう。

 今すぐ抱きしめて、キスをしたくなってしまう。


「優……」


 俺の気持ちが伝わったのか、名前を呼ぶと優は黙って目を閉じた。

 俺は横になった姿勢のまま肩に手を置き、小鳥がついばむような軽めのキスを何度かした。


「……これでおしまい?」


 優が、どこか寂しそうに言う。


「足りないか?」


「……うん」


 今度は優の方から俺の首に手を回してきて、唇を重ねてきた。

 脳が痺れて、時間の感覚を失う。

 どれだけの時間そうしていたかは分からないが、ふと悪戯心が湧いてきた俺は……優の唇の間に自分の舌を割り込ませてみた。突然のことに驚いた優の体がビクッと跳ねる。


「暁……? んっ……」


 優が口を開けた瞬間を見逃さず、その小さな口内に自分の舌を侵入させた。

 優は始めこそ戸惑っていたが、すぐに順応した。それから互いを求め合うように、ただ夢中で舌を絡め合う。


 本当に、脳が溶けてなくなってしまったんじゃないかと錯覚する。

 いや。まだ理性がブレーキをかけているあたり、それは錯覚でしかないのだろう。


 本当に危ないところである。

 優が大人になるまでは手を出さないと宣言していなかったら、間違いなくこのまま服を脱がせていただろう。


 いやいや。これはこれで相当にアウト寄りな気はするが、キスをしているだけなのでギリギリセーフだと自分に言い聞かせる。


 それから俺たちは、ただ唇を重ねて舌を絡め合うだけの行為に飽きることなく没頭し続けた。


 好きだっていう言葉だけでは、お互いの想いを認識するのには足りないから。

 他人である以上は、どんなに好き合っていても気持ちを完全に重ねることはできやしないから。


 だから人はキスをするのかもしれないと、そう思った。

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