第二十九話 姉弟

 俺は香苗の家を出てスマホの画面を確認すると、優と新一からの着信履歴が大量に残っていた。


 だが、今は誰かと話す気にはなれなかった。

 ひとまずは無事であることと、少し一人になりたい旨をメッセージで二人に送る。


 それから、当て所もなく一人で町を徘徊した。

 何も考えたくなかった。

 誰にも会いたくなかった。


 そうしたところで気分が晴れるわけでもない。

 こんなのは、ただの現実逃避だ。


 数時間ただひたすらに歩き続け、日付が変わろうかという時間に俺は帰宅した。


 そういえば、昼に省吾とハンバーガーを食ってから今まで何も口にしていないことを思い出す。


「……腹、減ったな」


 空腹感はあるが、あまり食欲はない。

 何か適当な飲み物で空腹を満たそうと思った俺は、照明のついていない暗い居間に入る。すると、そこには一人で晩酌をしている姉さんがいた。

 テーブルの上にはビールの空き缶が数本と、つまみが散乱している。


「おかえり、不良。……なんかあった?」


「……別に。ただいま」


 今は放っておいてほしい。

 俺は素っ気なく返事をして台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。


「あー、暁ー。ついでにビール持ってきてー」


「……」


 酔っている姉さんの陽気な声に若干イラッとしながらも、黙って缶ビールと自分が飲む分の牛乳をコップに注いで持っていく。


「まあ座んなさいな」


 姉さんが缶の蓋を開け、向かいの席に着くよう促してくる。


「いいよ。これ飲んだら部屋戻るから」


「いいから座れっつってんのよ。たまにはお姉ちゃんに付き合ってくれてもいいじゃない」


 目が据わっている。

 これまでの経験上、この状態の姉さんに何を言っても無駄なことは分かっていた。なので、俺は仕方なく渋々と姉さんの対面に座った。


「……優は?」


「さあ? 部屋には居ると思うけど。でも起きてるか寝てるかは、ちょっと分からないにゃー」


 にゃーときたもんだ。


 この家へと優が来てから既に数日ほど経過しており、二階にある空き部屋が彼女の部屋として割り当てられた。

 この家は姉弟が二人で住むには大きすぎる。もちろん持ち家ではなく借りているものであるが。以前聞いた話では、ここには姉さんの友達の親戚だか何だかが住んでいたらしい。なんでも元々住んでいた家主が長期の海外出張をすることになり、それに家族もついていったらしいとのことだ。

 その間は、コネのおかげでかなり安く借りることが出来ているそうだ。


 ちなみに、姉さんには優と付き合っていることをまだ言っていない。そういうことを身内に言うのは、何というか照れ臭いからである。


「……姉さん、だいぶ酔ってるだろ」


「まあねえ。酔わなきゃやってらんないことも、まあ……そりゃねえ。あるわよ」


「……姉さんの方こそ、何かあったのか?」


「いつも通り仕事に疲れてるだけよ。でも、今のあんたの顔見たら、それどうでもよくなったわ」


 姉さんがビールを一気に飲んで、それからチータラをつまみながら言う。


「なんでだよ」


「仕事がどうとかよりねぇ。あんたが悩んでるのに相談もしてくれないことの方が、あたしには堪えんのよぉ」


「姉さん……」


 何だか素敵なことを言ってはいるが、本人はベロベロのヘベレケに酔っている。しかも口からチータラがはみ出てているせいで、色々と台無しである。


「あたしはぁ、あんたのお姉ちゃんよぉ? ちったぁ頼れ!」


「酔ってなけりゃ、頼るんだけどな」


「じゃあ、酔ってない」


「嘘をつけ」


「やーだー! お姉ちゃん、頼られないのやだやだー!」


 姉さんが駄々をこねて、テーブルをバンバンと叩く。


「近所迷惑になるからやめろって。子供か」


「ちっがーう! お姉ちゃんよ!」


 姉さんの大声と机を叩く音が聞こえたのか、優が二階から降りて居間にやってきた。


「暁、帰ってたんだ」


 気まずくて優の顔を見れないが、その声は心なしか怒っているように聴こえた。

 ……この時間までロクに連絡もしないで帰ってこなかったのだから、それも当たり前か。


「……ああ、遅くなって悪い」


「心配した」


 そう優は言いながら、俺の隣の椅子に座る。


「……悪い」


 彼女にも心底申し訳なく思う。

 キャパが小さすぎて、いっぱいいっぱいになると自分のことしか見えなくなる自分が嫌になる。


「何かあったの……?」


「……ちょっとな」


「……そう。わたしには言えないこと?」


 先ほどとは異なる、心配そうな声だった。

 その声を聴いていると何故だろうか。

 素直に全部を話してしまいたくなってしまう自分がいた。

 ……俺は甘えてるのだろうか、年下の女の子に。


「……友達を、失った」


「ちょぉーっ! なんで優ちゃんにはあっさり教えちゃうわけ!? お姉ちゃん超ショックなんですけどぉ!!」


 姉さん、うるさい。


「……そう。わたしには友達がいたことがないから、その辛さを分かるとは言えないけど……大変だったんだね」


「……ああ」


「それって、あれ? 新一くんが作った不登校部ってやつ?」


 不登校部のことは俺から話したことはないが、どうやら姉さんは新一からその存在を聞いていたらしい。


「……」


「ふぅん、なるほどねぇ。喧嘩でもしたの?」


「ただの喧嘩だったら、よかったんだけどな。……俺が何もかも壊したようなもんだ」


 言っていて涙が出そうになり、うつむいて片手で両目を覆った。


 そうだ。

 俺が香苗ではなく、優を選んだからこうなった。

 ……その選択に後悔はしていないが、代償として不登校部は崩壊した。

 やっぱり、全部俺が悪いとしか思えなかった。


「……ふむ。ああ、優ちゃんごめん。これから暁とちょっと込み入った話をするから、外してくれる?」


 姉さんが声のトーンを一つ落とす。

 おふざけ抜きの、真剣な話をしようという意思表示なのだろう。


「……分かりました」


 それを優も感じ取ったのか、大人しく席を立った。


「……暁」


 優はうつむいたままの俺の頭を撫でて、それから居間を出て行った。


「あんたたち、付き合ってる?」


「……何だよ、いきなり。込み入った話って、それか?」


「さあ、どうかしら。ただ何となく、それと今回の件が関係してるような気がしたから」


「……何で分かった?」


 思わず顔を上げると、姉さんは不敵に微笑んでいた。


「あたしを誰だと思ってるの。あんたのお姉ちゃんよ?」


「理由になってないだろ、それ……」


「なってるってば。あんたって誰かに対してやましいことがあると、その人の顔を絶対に見ようとしないのよね」


 ……たしかに。

 自覚はなかったが、その通りかもしれない。


 姉さんと一緒にいる時間なんてそう長くもないのに、よく見ていると感心する。


「あたしもそう。母さんもそうだったわ。……血かもね、これは」


「……嫌な血だな」


「あんた、ずーっと優ちゃんと顔合わそうとしてなかったからさ。だから、あんたが優ちゃんと付き合ってることと今回の件が関係してるんじゃないかって思ったのよ」


 まさにその通りなのだが、素直に認めるのも何だか癪なので反論を試みる。


「それで、なんで付き合ってるって話になるんだよ。飛躍しすぎだろ」


「あんたたちの年頃で人間関係がどうこうなるって言ったら、九割が色恋沙汰でしょ」


 ……この件に関しては図星だが、真面目に生きている全国の中高生に謝れ。


「新一くんの話だと、たしか不登校部には女の子もいたわよね。おおかた、その子と何かあったんでしょ」


 ……うぐ。

 そこまで見抜かれているとなると、もう隠しようがなかった。


「……姉さんの言う通りだよ。その子に俺は好かれてた。それを分かっていたのに優と付き合ったから、その子を……。香苗を、俺は傷つけて……全部メチャクチャになったんだ……」


「ふぅん。……暁は後悔してる?」


「……それはない、けど」


「けど?」


「何もかもを割り切れるほど、俺は……強くはないから……。だから、苦しいし……悲しい。とは、思って……るっ……」


 涙が溢れ出てくる。

 こんなのは、自分勝手だ。

 後悔していないと言ったくせに。何もかも自分で壊したくせに。俺に涙を流す資格なんてないと分かっていても、それを止めることがどうしてもできなかった。


「……それでいいのよ、暁。その感情は、きっと人として正しいと。あたしは、そう思う」


 姉さんが右手を伸ばしてきて、親指で俺の涙を拭った。


「……いい、暁? 一人の人間が同時に手を差し伸べられる相手というのは、そう多くはないの。誰かを選ぶということは、誰かを選ばないということでもあるから。これは恋愛に限らずね」


 俺は優と、そして香苗とも。それから新一や省吾とも、ずっと仲良く生きていける道があると信じていた。

 ……それが間違っていたと、そういうことなのだろうか。


「あたしも、そう。あんたと一緒に暮らすために、女手一つで自分を育ててくれた母さんを捨てた。母さんが、どうしてもあんたと一緒に暮らすのは嫌だって言ったから」


「……それは、俺が人殺しだからか」


「……そうね。あの人は、病的に世間体を気にする人だから」


「……そうか」


「世間は、あたしたちのことなんか気にしちゃいないってのにね。……そんなことで家族がバラバラになるなんて、ほんとバカみたい」


 姉さんは虚しそうに笑うと胸ポケットからタバコの箱を取り出し、一本咥えると火をつけた。


「酔いが醒めちゃったわ」


「……ひとつ。ひとつだけ、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」


「んー?」


「姉さんは、何で……俺を引き取ってくれたんだ?」


 それだけが、ずっと疑問だった。


「……多分、罪滅ぼしのつもりだったんでしょうね。暁が施設に預けられてたことは母さんから聞いて、ずっと前から知っていたわ。でも、まだ中学生だったあたしには何もすることができなかった。……自分だけが母さんに愛されて生きていることに、あたしはずっと負い目を感じていたから」


「……そうか」


「見損なった?」


「そんなわけあるか。姉さんの動機はどうあれ、俺が救われたことは確かだ。……感謝、してる」


「そう言ってもらえると、幾分救われるわ。……ありがと」


 姉さんは微笑むと灰皿でタバコの火を揉み消して、それからひとつ大きなあくびをした。


「ふぁぁ……。さぁて、そろそろ寝ようかしらね。夜更かしとストレスは美容の敵だしね」


「美容を気にするなら、タバコもやめりゃいいのに」


「それは無理。ストレスで死んじゃう」


「あ、そ……」


 こうして夜は更けていった。


 不登校部を失って、これから俺はどうしていくのかは……まだ決められないけれど。


 たとえ泣くことになっても苦しむことになっても、自分が選んだ道を後悔することだけはしない。そう、胸に誓った。

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