第二十七話 平原 香苗Ⅲ
目を覚ます。
香苗が使った薬は、そこまで持続性はないものだったのだろうか。意識ははっきりとしていた。
ベッドから身を起こそうとして、そこで拘束されていることに気がついた。ロープのようなもので体ごとぐるぐる巻きにされ腕は動かせそうになく、そのうえ両足も結ばれていて身動きが取れない。
「マジかよ……」
香苗を、香苗の想いを甘く見ていた。
まさか、ここまでしてくるとは……。
薄暗い部屋の中を見回すが、香苗の姿はどこにも見当たらない。
カーテンは閉められているが、すでに外が暗いことは分かる。
いったい俺は、どれだけの時間寝ていたんだ……?
そして香苗は……どこに行った?
嫌な思考が次々と脳裏をかすめる。
……まさか、優に何かしようとしてるんじゃないか。
「くそっ、どうにか抜け出さないと……!」
俺は力尽くで拘束から抜け出そうと必死にもがくが、やはり自分の力で抜け出すことはできそうもない。
……誰かに助けを求めなくては。
俺自身のこともそうだが、それよりも……何より優を守ってくれと新一に伝えなくては。
両手首は縛られているが、指は動かせる。
俺のスマホは……ポケットには入っていない。香苗がどこかに持っていったのか?
どこかに置かれていないかと、どうにか上体だけを起こして部屋の中を探す。
……あった。ベッドのすぐ近くにあるテーブルの上に、それは無造作に置かれていた。あれなら、手を伸ばせば届く。
俺は必死に身をよじって、芋虫のように這いながら動く。そしてスマホに手を伸ばそうとした、そのとき――――
突然部屋のドアが開き、何者かが俺のスマホを取り上げていった。
視線を上げると、香苗が悪戯っぽい笑みを浮かべているのが見えた。
「はーい、残念でしたー」
「……香苗」
……俺は、ひとまずホッとした。
香苗がここにいるということは、優は無事なのだろう。
「暁ぁ、なに安心した顔してるの? ……ひょっとして、あたしが優ちゃんのこと殺しちゃうんじゃって思ってた?」
「……ああ、その通りだよ」
全てを知られていると分かった今、それを隠す意味もない。
「ふーん。……暁ってば、まだ寝ぼけてるのかなぁ?」
「それは、どういう……意味だ」
「暁は、六時間も寝てたんだよ?」
「っ! おまえ、まさか……!」
全身から血の気が引いていく。
「うん。もう殺しちゃった」
香苗は相も変わらず、ちょっとした悪戯でもするかのようにヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべている。
だが、それは人を殺した人間の顔ではない。
俺だから分かる。……香苗は、嘘をついている。
「……そんな嘘をついて、何がしたい」
「あれ? ……もっと取り乱すかと思ったのになぁ。冷静だね、暁」
香苗がつまらなそうな、どこか冷めた目で俺を見下ろす。
「俺に何をする気だ」
「暁は何してほしいの? あ! ……もしかして、エッチなこととか期待しちゃってる?」
香苗が妖艶に笑い、自分の人差し指を舐め上げる。
……どうやら、まともに取り合う気はないようだ。
「ふざけるなよ、香苗。何をされようが、俺はおまえのものにはならない」
「……知ってるよ、そんなこと」
「なあ、香苗。……俺は、おまえのことだって大切なんだよ。たとえ形は違っても、大切だってことには変わりないんだ! だから、こんなことはもうやめてくれっ!!」
「形? ……何それ。意味わかんない、わかんないよ……」
香苗が声を震わせる。そこに宿っているのは怒りなのか、それとも憎しみなのか。あるいは悲しみなのか。俺には、もう判別がつかなかった。
「あたしは……! 暁にはあたしだけを見ていてほしかった! あたしのことを選んでほしかったの! 他の子のことなんて考えてほしくもなかったっ!! 形!? あたしの求めてる形が一つしかないこと知ってるくせに、そんなことよく言えるよっ!?」
香苗が激昂し、隠し持っていた包丁でベッドを突き刺した。位置としては、ちょうど俺の眼前だ。
「だけど、だけどさぁっ……! いっぱい考えてっ、頭がおかしくなるくらい考えたけどっ……! もう何をしたって、暁があたしのことを見てくれないのもっ……分かっちゃったのよぉっ……」
怒り狂ったかと思いきや、今度は包丁を握ったまま顔を伏せて泣き出してしまった。
……かなりまずい。
話が通じる状態ではない。
どうする。
今の香苗が、次に取る選択は――――。
「あたし怖かったっ……! いつか暁が、あたしのこと忘れちゃうんだろうなって思うとっ……頭がどうにかなりそうだったっ……! ……だから、だからね? いっぱい、いっぱい考えたけどね? ―――あたし、もう死ぬことにしたの」
やはり、そうなるのか。
「……やめろ」
「暁も一緒に連れて行こうかなって考えたけど……やっぱり、あたしには好きな人を殺すことなんて、できないし……それに……」
「ダメだ、やめろ! やめてくれっ!」
「暁の目の前であたしが死ねば、きっと暁は一生あたしのことを忘れないでいてくれるよね……?」
俺の声は、もう香苗には届かないようだった。
香苗がゆらりと立ち上がる。
「バイバイ、暁」
それだけ言うと香苗は涙を流したまま微笑んで、包丁をベッドから抜き出した。
「やめてくれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
俺の叫び声だけが虚しく響き渡る。
畜生! こんな拘束さえなければ、香苗を止められるのに!
誰か、誰でもいい! 香苗を止めてくれっ!
香苗は自分の方へ向けて両手で握った包丁を、自身に目がけて大きく振りかぶる。
そして力を込めて振り下ろされようとした刃先を━━━香苗の背後から突然現れた人影が握って止めた。
その手から滴り落ちた血が香苗の顔を濡らす。
「……やめろ、バカ
俺も香苗も周りが見えておらず足音にも気づかなかったが、おそらく走ってきたのだろう。その男は肩で息をしていた。
「省、吾……? なんで……?」
香苗が信じられないものを見るように目を見開く。
それはおそらく、俺も同じ顔をしているのだろうと思う。
「……間一髪ってとこだったな。惚れてもいいぜ、暁?」
そいつは――省吾は手の傷を気にした風もなく軽口を叩くと、いつもの調子でニッと笑った。
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