第二十六話 平原 香苗Ⅱ

 香苗の家へ向かう道中、俺は何をどのように話そうかと考えていた。

 ……しかし、考えはそう簡単にはまとまらず、何も決まらないまま香苗の家に着いてしまう。


 自室の窓から俺が来るのを見ていたのだろうか、呼び鈴を鳴らすよりも早く香苗が家から飛び出してきて、勢いよく俺に抱きついてきた。


「いきなりだな!」


「だって、暁の方からあたしに声をかけてくれるなんて初めてだったから、嬉しかったんだもん!」


 目をキラキラと輝かせている。

 人懐っこい子犬みたいだ。もしも香苗に尻尾がついていたら、きっと今ごろブンブンと振っていることだろう。


「そういや、そうかもな」


 あの一件以来、香苗と二人になることは意識的に避けてきた。

 俺は、俺のことを好きでいてくれる女の子に対して随分とひどいことをしてきたのだろうと思う。


 そして、これから――――。

 ――――もっと、ひどいことをするのだ。


 そう考えると、頭がクラクラしてきた。


 俺には、香苗よりも大切な女の子ができた。

 俺は香苗を――――選ばなかった。

 肉体関係まで持ったというのにだ。

 ……自分の下衆さに吐き気がしてくる。


 果たして、こんな残酷な現実をわざわざ突きつける必要があるのだろうか。

 優とのことは隠して、香苗とは今まで通り不登校部の仲間として過ごしていった方が、俺も香苗も幸せなんじゃないか?


 ……それは、逃げだ。

 優に対しても香苗に対しても、不誠実すぎる。

 今さら迷うな。もう俺は覚悟を決めたはずだろう。


「……暁?」


 俺の表情から何かを読み取ったのか、香苗が抱きついたまま不安そうな眼差しを向けてくる。


「……とりあえず、家に上がってもいいか?」


「……うん」


 香苗に手を引かれ、家に入る。

 二階にある香苗の部屋に連れられて、それから香苗はお茶を淹れてくると言って出ていった。


 白とピンクを基調にした女の子らしい内装で、何だかいい匂いがした。少し前の俺なら、これが女子の部屋の匂いかと興奮していたかもしれない。


 ベッドやタンスの上には様々な動物のぬいぐるみが置かれている。その中には、あの日ゲームセンターのクレーンゲームで取った電気ネズミの姿もあった。


「……遅いな」


 香苗が部屋を出てからもう十分以上は経過している。

 心配になり、様子を見に行こうかと考えていたところで丁度部屋のドアが開いた。


「おまたせっ。はい、香苗ちゃん特製のブルーハワイだよ!」


「遅かったな。何かあったのか?」


「一回アイスティー淹れようとしたら失敗しちゃって。それで冷蔵庫に入ってたブルーハワイのジュースを持ってきたの。ごめんね」


 毒々しい青色のドリンクが入ったグラスを香苗から受け取る。しかしブルーハワイとは、また珍しいものを……。香苗らしい気もするが。


「そうか。心配したぞ」


「本当? 心配してくれた?」


「ああ」


「……嬉しい。きっと、本当の意味であたしのこと心配してくれるの、もう暁しかいないから」


 その言葉に、胸の奥がズキンと痛んだ。


「……そんなことないだろ。新一や、省吾だって――」


「あの人たちは違うよ。生きることに絶望している、あたしや暁とは違う」


 香苗が俺の言葉を遮る。

 その表情は――薄寒さを覚えるほど冷めたものだった。


「……でも、仲間だろ」


「そうかもしれないけど、でも、違う人種だよ。あたしが信じてるのは、暁だけだもん」


 その言葉が、ひどく重たく、俺の心にのしかかる。


 ――――本当に、香苗の拠り所は、俺だけなのだ。

 俺は、今からそれを――――壊すのか。


 緊張からか恐怖からか、口の中が乾く。

 香苗が持ってきたブルーハワイを一気に飲み干す。


「美味しい?」


「ああ」


 正直、味など分からなかった。


「よかったー! 頑張って色々混ぜた甲斐があったよ!」


 香苗がさらっと恐ろしいことを言ってのける。


「おい待て、何を混ぜたんだよ!?」


「もう、わかってるでしょ? 愛だよ、愛っ、キャー!」


 香苗が一人でテンションを上げる。

 ……そんな様子を見ていると、罪悪感に苛まれる。

 それから香苗はとりとめもなく色々なことを話したが、俺はどうやって話を切り出そうかと、上の空で相槌を打っていた。


 そうして一時間と少しが経過したころ。


「暁、なんかずっとつまらなさそう」


 香苗が不満そうに頬を膨らませる。


「……ん? ああ、いや、そんなことないぞ」


 考えすぎて疲れたのだろうか、俺の頭はボーッとしていた。


「そういえば、暁はあたしに何か用があったんだよね? 何かな? ……も、もしかして、愛の告白とかっ?」


 ……どちらかと言えば罪の告白だ。

 しかし香苗の方からその話を出してくれたのは、正直助かった。


 俺は意を決して、口を開いた。


「……違う。落ち着いて聞いてほしいんだけど――――」


「彼女ができた?」


 俺が言おうとしたことを、そのまま香苗が口にする。

 あまりにも不意打ちすぎて、思考が停止してしまう。


「……何で、分かった」


「分かるよ。暁のことだもん」


 香苗は依然としてニコニコと笑ったままだ。

 それが逆に恐ろしくて、肌が粟立つのを感じた。


「あたしはずっと、暁のことをんだから」


 見ていた……?

 それはおそらく、比喩ではない。

 だとしたら、どこからどこまでを……?


 ダメだ、思考がまとまらない。

 頭がガンガン痛む。


「猫さんの飼い主は見つかったのかなー?」


 香苗は既に優のことは知っている……?

 この展開は完全に予想外だった。

 ……どうすればいい。


「あの雨の日は、キスまでしちゃって……」


 笑顔から一転、香苗が目を見開き、俺を睨んでくる。


「……」


 俺は何も言えないでいた。

 さっきから、どうにも、おかしい。

 強烈な眠気にも似た何かが、意識を奪おうとしてくる。

 ……違う、これは眠気そのものだ。


「……おまえ、何を」


 俺の問いに、香苗は答えない。

 うわ言のように、ただ一人で何度もどうして、どうしてと呟き続けている。


「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうして……」


「……どうして、そんなことするの……。あたしには暁しかいないのに、暁だけなのに……。腕の傷が増えちゃったよ……?」


 香苗が服の袖をまくり、左腕に付いた生々しい切り傷の跡を見せつけてくる。

 意識が閉ざされる間際に、俺は香苗の声を聞いた。


「香苗ちゃん特製の睡眠薬ブレンド、美味しかった?」

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