第十七話 優しさ

 それは近くまで来ている台風の影響で、雨風のひどい日だった。


 この天気では流石にゆうも家へ来ないだろう。そう思った俺は、ぼんやりと窓から外へ視線を向けたとき――――


 ――――いつからそこにいたのだろうか。俺の視界に、家の前で傘もささずに立っている優の姿が目に入った。


「あのバカ、いったい何やってんだ……!?」


 俺は急いで階段を駆け下りると、慌てて玄関の扉を開ける。すると、そこには降りしきる雨を浴びてずぶ濡れの優が立っていた。


「おまえ、何もこんな日にまで来なくたって……。てか、来てたんなら……」


 俺が呆れている最中に、優の様子がおかしいことに気がついた。もともと彼女は無表情で生気のない目をしていたが、今日の優はいつにも増して表情が暗い。どうやら、雨に打たれているから……というだけではなさそうだ。


「……優、とりあえず中に入れ。今タオルを持ってくるから、ちょっと待ってろ」


 俺は優を家に上げると、浴室へバスタオルを取りに行く。そのとき、不意に家族は嫌いだという優の言葉が脳裏をよぎった。引きこもりのあいつに何かがあったとするなら、それはやはり家族絡みの問題だろうか。


 だとしたら、俺に何かできることはあるのか?

 他人の家の問題に首を突っ込む資格なんて、果たしてあるのだろうか……?




◇◆◇




 それから俺は、優と自室で二人きりになる。

 子猫もいるので、正確には二人と一匹だが。


 優はバスタオルを頭からかぶって、体育座りをしてうつむいている。

 優は家に入ってきた時から、ただそうしているだけで何も言わない。そして俺も、何も言えなかった。


 何事もなかったかのように、世間話でもして気を紛らわせてやるのがいいのか。それとも、何があったかを聞いた方がいいのか。


 ……俺は判断に悩んだ。


 この場で行動を即決するには、俺の対人経験値は余りにも不足していた。


 もし新一(しんいち)なら、もし楓(かえで)なら。あの二人なら、一体どうするのだろうか。


 ……分からない。


 じゃあ俺が優の立場だったら、どうしてほしいだろうか。何か傷つくことがあって。それでここに来たということは、少なからずは俺のことを頼りにしてくれているのだと……思う。

 俺が傷ついたとき、そういう相手が目の前にいたとしたら……。


 ……やっぱり、話を聞いてほしいと思う。

 それが優にも当てはまるのかは分からない。

 もしかしたら、何も聞かれたくないのかもしれない。


 でも、このまま二人で黙っていても何も前には進まない……はずだ。


「優。……何か、あったのか?」


「……」


 長い沈黙があった。時間にしては数分だったのかもしれないが、体感では数十分にも感じた。


 ……やはり、聞くべきではなかったか。

 俺が後悔をしかけたところで、優が口を開く。やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。


「……暁、わたしね」


「家族のことが、好きだった……」


 それは以前に嫌いだと言った、優の家族の話だった。


「昔はね、みんな仲が良くて……幸せ、だった……」


「……でも、わ、わた……わた、し……が……」


 優の声が震えていく。

 うつむいたままのため顔は見えないが、おそらく泣いているのだろう。


「……わたしが、壊しちゃった」


「……」


 その話を俺は、ただ黙って聞くことしかできなかった。


「わたしが中学入ってすぐに、いじめられて……。学校に、行けなくなって……」


「……毎日、死ぬことばかり考えて……薬を、飲んで」


「そんなわたしに、真剣に向き合ってるうちに……お母さんも、心を、病んで……」


「そしたら、お父さんと、お母さん……。毎日、ケンカするように、なって……」


「わたしが、こうなったの。どっちが悪いって、そう言い合ってて……」


「それを聞いたお兄ちゃんが、二人に、怒って……」


「……お母さん。家を出て……行っちゃった」


「それからお父さんが、わたしを見て……言ったんだ」


「おまえがこうならなければ、こんなことには……ならなかったって……」


 ――――目眩がした。

 それが親の言うことかと、反吐が出そうだった。

 優が家族のことを嫌いだと言うのも、無理ない話だ。


「そんなの……! そんなの言われなくても分かってるよぉ……! 全部、全部わたしが壊しちゃったんだっ……!!」


「でもっ、だからって……! じゃあ、どうすれば良かったのよっ……!?」


 話を聞いている限りでは、優に非はない。

 いじめられて学校に行けなくなったのだから、むしろ被害者のはずなんだ。


 でも、ここまで自分を責めてしまっている人間に対して「おまえは悪くない」だなんて、そんな陳腐な言葉が届くとも思えない。


「……それで、家を出てきたのか?」


「……ううん。それは、もう一年も前の話」


 ……今日。それ以上の何かが、あったのか。


「……今日ね、お兄ちゃんから……聞かされたの」


「わたしの病気が悪くなるといけないから、今まで隠してたんだって……」


「……お母さんね、家を出て間もなく――――自殺したんだって」


 それを聞かされた優の気持ちを考えると、寒気がした。

 そんなの、だって、あまりにも――――


「わたしがお母さんを……殺した、ようなもの……」


 そんなの当たり前だ。こいつなら、そう思うに決まってるじゃないか。


 ……俺は、その兄とやらに憤りを覚えた。

 そんなこと、わざわざ教える必要なんてないじゃないか。

 心を病んでいる人間に、どうして辛い現実を突きつける必要があるんだ。


 直接的にせよ間接的にせよ、人を殺したという罪の意識は一生消えることはない。


 優の兄は、そんなものをこいつに植えつけたのだ。


「だからね、暁。わたしも、もう……死のうと思った」


 優が立ち上がる。


「おい、優……」


「もう、わたしには生きている価値も、意味も、ないもの」


「……でも、暁には、お世話になったから」


「暁にだけは、お別れを言いたかった」


 そう言うと、優は決意を固めた表情を見せた。……駄目だ、止めなくては。

 でも、どうすればいい。

 こんな風に絶望の底にいる人間を、死ぬことを決めてしまった人間を。一体どうやって止めればいい。


 人殺しの自分に生きている価値なんてない。

 俺だって、いまだにそう考えてしまうことがある。

 そんな自分に、優を止める資格は……あるのか?


 優が部屋を出ようと歩みを進める。

 違う。こんなのは違う。

 資格なんているものか。

 俺はこいつを、優を失いたくないんだ。

 引き止める理由なんて、それだけでいいじゃないか。


 その去ろうとする手を掴むために、俺は手を伸ばそうとしたとき――――


「暁は優しいから、引き止めないでくれるでしょ……?」


 背を向けたまま放たれた、その一言で身動きが取れなくなってしまった。


 ……優しい。

 その言葉を優に言われたのは、これで何度目だろうか。

 しかし、これは今まで言われたどの「優しい」よりも重く苦々しいものだった。


 多分、俺たちは似た者同士だったのだろう。

 だからこそ理解した。してしまった。


 もう優に残された逃げ道は、死ぬことだけなんだ。

 優を引き止めるということは、その逃げ道を塞ぐことだ。

 それでも逃げずに生きろだなんて、そんな残酷なことは言えなかった。


 だから、彼女を止めないで見送ることが優しさなのか……?

 ……違う。違う、違う、違う! 違うっ!! そんなわけがあるかっ!?


 俺は思考が混乱し、体が硬直したままだった。

 何がなんでも。優しさなんてものは投げ捨てて無理矢理にでも。


 俺は、その手を掴まなければならない。ならなかったのに。


「ありがとう、暁。……さようなら」


 優は最後にこちらを振り返ると、優しく微笑んだ。そして、俺の部屋をあとにした。――――俺は、彼女を止める事ができなかった。

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