第十六話 有馬 暁

 ゆうと出会ってから、一月が経とうとしていた。

 もう夏も終わりかけだ。


 あれからも二人でチラシを配り歩き、町の住民に聞いて回った。しかし子猫の飼い主は結局見つからず、俺の家で飼うことになった。それから優は、定期的に子猫と遊ぶため家に来ている。


 それは穏やかな日々だった。

 かつて犯した自分の罪が霧散して、消えたかと錯覚するような。そんな安寧とした日々だった。


 しかし、自分の犯した罪が消えることは決してない。


 それを忠告するかのように、俺は数年ぶりに昔の夢を見た。

 父親と過ごした日々。そして――――この手で父親を殺した日の夢を。


 おまえが何者なのかを忘れるな。まるで、そう誰かに言われているようだった。そして、その夢は更に俺へと告げる。




 有馬暁ありまあきら――――おまえは、人殺しだと。




◇◆◇




 父親を殺したことについて、多くを語ることはできない。

 あの日々の記憶は曖昧で、断片的にしか思い出すことができないからだ。


 あの頃の俺は毎日父親に殴られ続け、いつか殺されると思ったこと。

 そして、眠っている父親の喉を刃物で何度も何度も繰り返し刺したこと。


 思い出せるのは、それくらいだ。


 それから俺を保護した大人の誰かが「この子は自己防衛のために記憶を閉ざしているのだろう」と言った。


 それなら殴られたことも、刺したことも忘れることができれば良かったのにと思う。


 そうすれば、きっと誰かを傷つけるような歪んだ心を持つこともなかったはずなのに。


 そして、まだ幼かった俺は施設へ送られることとなった。しかし、施設にいた子供たちや大人にも馴染むことはできなかった。

 誰もが俺のことを人殺しだと、蔑んだ目で見ているように思えてならなかったからだ。

 実際には、そんなことなかったのかもしれない。もしかしたら、俺の方が一方的に壁を作っていただけなのかもしれない。


 そして俺は、他者とまともなコミュニケーションが取れないまま長い時間を過ごし続けていた。


 そんなある日。俺は図工の授業で刃物を手にしたとき、何故か心がとても落ち着くのを感じた。

 俺にとっての刃物は父親を殺した凶器である一方で、自分自身を救ってくれた物だからなのかもしれない。それ以来、俺はカッターナイフを携帯する習慣がついていた。それは、けっして誰かを傷つけるためではない。自分自身の心を守るため、それが俺には必要だった。




◇◆◇




 ――――目が覚める。

 夏の熱気のせいか、はたまた悪夢のせいか。俺は、じっとりとした嫌な汗をかいていた。肌にシャツが張り付き、とても気持ち悪い。

 そして夢の中で父親を刺したときの感触が手に残っているような気がして、頭痛と吐き気がした。


 助けてくれる人間など、誰もいなかった。

 殺さなければ、殺されていた。

 しかし。仮にそうだとしても、俺がしたことは殺人に変わりない。

 その罪は消えることも、許されることも絶対にない。


 こんな血に汚れた手で誰かの手を握ることはできないと、そう考えながら生きてきた。

 けれど、そんな俺にも手を伸ばしてくれる人々はいて。


 俺を置いて姉さんだけ連れて家を出た母親は、俺の身元を引き受けることに反対したらしい。その事情は知らないし知ろうとも思わないが、母親にも色々とあったのだろう。そのことで恨みはしなかった。

 しかし、姉さんは自分が自立するや否や俺を迎えに来てくれた。俺がしたことも、恐らくは耳に入っているだろうに。姉は何も聞かずに、今までごめんなさいと泣きながら謝罪して俺のことを抱きしめてくれた。

 それから姉さんと二人で過ごすうち、俺は少しだけ前向きになることができた。だから、行かないつもりだった高校にも入学した。


 しかし、高校生活は上手くは行かなかった。

 今の今まで他者とのコミュニケーションをまともに取らず生きてきたのだから、当たり前だ。

 そこでは、かえでが俺に手を差し伸べてくれた。そして、あのトラブルが起きるまでは……まあまあ上手くやれていた。


 それから楓を傷つけてしまい、やはり俺には誰かと関わる資格がないのだと引きこもっていた……そのとき。

 突然現れた新一しんいちが俺の手を掴み、再びドン底から引き上げてくれた。それから不登校部の香苗かなえ省吾しょうごと出会い――――また俺は笑えるようになったのだ。


 俺は心の歪んだ人でなしで、その手も人を殺した血で汚れている。

 そんな自分は他者に干渉する資格も、ましてや生きる資格すらないのかもしれない。

 また誰かを傷つけるかもしれないし、自分も傷つくかもしれない。

 ……だけど、それでも。

 生きていたいと、誰かと関わっていたいと。そう、願ってしまう自分がいた。

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