第十五話 笑顔

 俺たちが迷い猫のチラシを作って配り歩いた初日。

 俺と優は昼過ぎからチラシの配布を開始した。そして夕方になるまで片っ端から通行人へと声をかけたものの、残念ながら目立つ成果は得られなかった。


 まあ、そんな簡単に見つかるとは思っていなかった。だから、それ自体はいい。そして問題は別にあった。


 それは、優の人見知りが予想以上だったことだ。


 俺自身も、優に対してどうこう言えるほど人と話すのが得意なわけではない。しかし、優のそれは筋金入りだった。

 彼女が誰かと話すときは常に俺の背後へ隠れ、ずっとシャツの裾を握っているほどだ。


 たしかに優を助けるとは言ったものの、このままではよろしくない。

 迷い猫の飼い主を探したいと言ったのは、他ならぬ優自身だ。それならばきっと、これは優が自分の力でやり遂げねばならないだろう。


 このままの調子で続けて、それで飼い主を見つけられたとしても。それは、何かが違うと思った。


「……おまえ、人と話すの本当に苦手なのな」


 公園のベンチでぐったりとうなだれている優に、自販機で購入した冷たい缶ジュースを手渡す。


 夏の厳しい暑さの中で長時間歩き続けたせいか。それとも知らない人と話し続けたせいか。……と言っても、実際に話していたのは殆ど俺だったが。まあ、とにかく優は疲弊している様子だった。


「……最初から、そう言ってる」


 こちらをジト目で見上げながら、優は缶ジュースを受け取った。そして、俺も優の隣に座り缶ジュースの蓋を開ける。


「俺に対しては普通に話せるのになぁ」


「……それは、自分でも不思議」


「ひょっとして恋の力か?」


「……バカなの?」


 冗談で言ったとはいえ、そこまで冷めた目でバッサリ切り捨てられると……ちょっと傷つく。


「……たぶん、このあきらと話せるのは――――」


 そう優は言いながら、じっと俺の顔を見た。


あの子子猫を助けてくれたから。それで優しい人だって……分かったから、かな?」


「……意外と単純なんだな、おまえ」


 俺は、優しくなんかないのに。

 今まで俺が何れだけの人間を傷つけてきたのか。それを、優は知らない。


「……この世界では優しさって、とても貴重なものだから」


「……ああ、そうかもな」


 この世界には――――


「この世界には、悪意とか、害意とか……。そういうものが、たくさんあって……」


 俺は少し驚いた。自分が考えていたことを、そのまま優が口にしたからだ。


「そして、わたしは……。それに、耐えられなくて……逃げだした……」


 逃げたいときは逃げてもいいんじゃないかという思考もよぎる。だが、そんな軽率なことを言えば優を傷つけてしまうかもしれない。彼女が俺の過去を知らないように、俺も優の過去を知らないのだ。だから、俺は彼女に掛けられる言葉を見つけられなかった。


 そんな泣きそうな顔をしている優の頭に、手を置くことしか俺にはできない。


「……やっぱり、暁は優しい」


「そうか? 俺よりも優しい奴なんていくらでもいるぞ」


「そう……?」


「ああ。……俺もな、どん底に何回も落ちたことがある。その度に、少しずつ生きている意味が分からなくなっていった」


「……」


「……でもな。その度に、優しい誰かが手を差し伸べてくれたんだ」


 姉さんや楓、そして新一たちの顔が脳裏に浮かぶ。


「だから、いつか優にも必ず手を差し伸べてくれる誰かが現れてくれるはずだ」


 俺は柄にもなく大真面目で言ったつもりだったが、そこで優は何故か吹き出してしまった。


「俺、何か変なこと言ったか……?」


 もしかしたらズレたことを言ってしまったのかと、内心少し不安になった。


 そんな俺の気も知らずに、優はくすくすと笑っている。


「ふふ。だって……その手を差し伸べてくれる誰かっていうのは、もうわたしの目の前にいるんだもの」


「……ああ、そういうことか」


 たしかに言われてみれば。俺が優にしていることは、そういうことなのかもしれない。

 ……きっと俺は今まで誰かにしてもらってきたことを、今度は俺の方から別の誰かにしてやりたいんだ。そう、無意識のうちに考えていたのかもしれない。


「言ってる当人は気付いていないのが、面白くって。……笑ってしまって、ごめんなさい」


 優は笑いながらも、少しだけ申し訳なさそうな表情をする。


「いや、いいよ」


 だけど、俺は彼女に笑われても不思議と嫌な気持ちにならなかった。

 こんなに楽しそうな笑顔を見せる優は初めて見た。だから、その驚きの方が断然大きかった。


 ……そっか。本当は、そんな風に笑えるんだな。

 もっと優を笑顔にしてやりたい。何故だか俺は、そう強く思った。


 ――――そうだ。きっと、あの場所なら。

 ――――不登校部なら、こいつももっと笑っていられるはずだ。


 そうすれば優も少しは人見知りをしなくなって、自分で迷い猫の飼い主を探すことができるようになるかもしれない。


 新しい部員が増えることに、新一も省吾しょうごも嫌とは言わないだろう。……だけど香苗かなえはどうだろうか。俺の近くに女の子がいることを少しは嫌がるかもしれないが、なんだかんだと言って面倒見のいい奴だ。多分、優とも上手くやってくれるはず。


 我ながら名案だと思った。


「……なあ、優」


「なに……?」


「俺たちみたいに、学校へ行ってない人間が集まってるグループがあるんだ。おまえも、そこに顔を出してみないか?」


「……なんで?」


 知らない人間と会うことを想像したのか、優の表情が不安そうに曇った。


「大丈夫、きっと楽しいから。俺さ、もっとおまえに笑ってほしいんだ。まあ、それも俺のわがままなんだけどな。……ダメか?」


 俺の言葉を聞いた優は、頭を抱えて顔を伏せた。それから両手で顔を覆うと、こちらを指の隙間から恨めしげに睨んで一言だけ口にした。


「……暁の女たらし」


「何でそうなるっ!?」


「……自覚のないところが、またタチが悪い」


「もしかして、やっぱり嫌か? もちろん無理にとは……」


「……知らない人と会うのは嫌。でも、そんなことをあなたに言われたら……断れない。……バカ」


「俺は何故罵倒されているんだ……」


「バカだから」


「ま、まあいい。……よし、そうと決まったら善は急げだ。早速新一に電話をしようか」


 そう俺は言いながらポケットからスマホを出して電話をかけようとした、そのときだった。

 呆れ顔で俺の隣からスマホ画面を覗き込んでいた優が、突然目を見開く。そして、そのまま硬直してしまった。


「……どうした?」


神谷かみや……新一しんいち……」


 優は呆然とした様子で、スマホの画面に表示されている名前を読み上げる。


「ああ。こいつが、さっき言ったグループのリーダーで……」


「……暁、ごめんなさい。やっぱり、この話はなし」


 その普段とは異なるピシッとした優の口調からは、強い拒絶の意思を感じた。


「お、おい。いきなりどうしたんだよ……?」


「今日は、もう帰る。たくさん歩いて、疲れちゃったから。……またね、暁」


 俺の問いかけに答えず優はベンチから立ち上がると、そのままフラフラとした覚束ない足取りで立ち去っていった。


 それは、あまりにも突然の出来事だった。呆気に取られた俺は、優を引き止めることすらできなかった。


「……くそ、いったいどうしたってんだよ」


 せっかく皆で楽しく遊べると考えていたが、そこで俺は自分の浅はかさに気がつく。

 俺は、もっと優に笑ってほしいんだと思っていた。だけど、それは違った。本当は、もっと単純な話だ。……俺はただ、あいつと楽しく遊びたかっただけなんだ。


「はあ。……新一、まだまだ俺はお前みたいに出来ないな」


 俺は液晶画面に表示された神谷新一の名前を見ながら独りごち、深くため息をついた。

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