第十四話 願い

 矢神やがみがSNSで子猫の情報を拡散してから、一週間ほどが経過した。だが、結局目ぼしい情報は得られなかった。

 これが人の多い都会なら、結果は違ったかもしれない。しかし、この高齢化が進んでいる田舎町では余り有効な手段でなかったようにも思える。


「なあ、矢神さん。いっそ張り紙でも作るか?」


 矢神は床に座り、猫じゃらしで子猫と楽しそうに遊んでいる。……どうやら遊ぶのに熱中してるせいか、聞こえていないようだった。


 おい、無視かよ。……いや待てよ、たしか張り紙って無断で貼ったらダメなんだよなぁ。でも、許可を得るにしてもどこに連絡すればいいのか。いや、そもそも許可が降りるのかどうか……。


 俺は漠然とした考えを巡らせながら、子猫と戯れている矢神をぼーっと眺める。


 そういえば今更だけど、こいつ学校はどうしてるんだろうか?

 こんな真っ昼間からここにいるってことは、まず間違いなく学校には行ってないだろうけど。そもそも前に、自分は引きこもりだと言ってたしなぁ。


 ……そういえば、こいつも同じ疑問を俺に抱いたりはしないのだろうか。


「矢神さん」


 もう一度名前を呼びかけてみたが、やはり聞こえていないのか返事はない。


ゆう


 どうせ聞こえてないなら良いかと、以前に馴れ馴れしくて嫌だと言われた下の名前で呼んでみる。すると予想に反して猫じゃらしを動かしていた手が止まり、矢神はこちらを見た。そして止まった猫じゃらしに子猫が飛びかかり、押さえつけた。


 てっきり嫌がられるか、怒られるかするかと思った。だが意外にも、その表情は涼しいものだった。


「……なに?」


「あ、いや。……てか、怒らないんだな。下の名前で呼んでも」


「怒らせたかったの?」


「そんなわけあるか。ただ、前は馴れ馴れしいと嫌がってたろ」


「……あなたには、恩があるから。それに、下の名前の方が……呼ばれ慣れてるし。だからそれは、もういい」


「そうか。じゃあ、俺のこともお兄ちゃんって呼んでいいぞ」


 今の流れなら行けると思い、矢神に軽い冗談を言ってみせた。


「ぅ……わたしは、兄……というより、家族っていうものが……嫌い、なの。だから、それは……無理。ご、めん……」


 矢神――優は目を伏せると、そう震えた声で言った。


「……なんで、おまえが謝るんだよ。いや、俺の方こそ悪かった。事情を知らずとはいえ」


 それから数分間、場が重苦しい空気に包まれる。何も事情を知らない子猫が、ミーと鳴きながら優の膝に手を置いた。


 俺は、図らずも相手の傷に触れてしまった罪悪感に苛まれる。


 人間は生きていれば、意図せずに誰かを傷つけてしまうことが必ずある。

 もしそうなったら、その人間との関係は二度と修復できない。もうおしまいだと、そう俺は思っていた。


 ……でも、それは違うんだ。

 それを、楓が教えてくれたから。


 もし、そうなったとしても相手を思いやることさえ諦めなければ。たとえ、心の傷が直ぐには癒えなくとも。そして、傷つけた事実が残っても。人と人の繋がりは、けっしてそれで終わりにはならないということを。


 だから暁、自己嫌悪に陥るな。

 勇気を出して、一歩でも前に踏み出せ。

 今度は俺の方から、そうするんだ。


 楓がかつて、そう俺にしてくれたように。


「……優もさ、俺のことを名前で呼んでくれよ。いつまでもあなたって呼ばれるのも、なんかその……あれだし」


 あれって何だと、自分で自分に突っ込みたくなるが、俺にはこれが限界だった。コミュ障歴十七年は伊達ではない。


「……あなたの名前、なんだっけ?」


 優の言葉に、思わずズッコケそうになる。

 ……こ、こいつ。もしかして、今まで俺の名前を覚えていなかったのか?


「……冗談。ちゃんと覚えてる」


「あ、そ……」


 こいつは無表情だから、冗談が分かりにくすぎる……。


 それから優は、意を決したかのような表情で一つ深呼吸をすると――――


「……あ、あきら」


 ――――たどたどしく、俺の名前を呼んだ。

 誰かの名前を呼ぶことに、慣れていないのだろうか。優は無表情のまま、頰を微かに赤く染める。


「……う、うるさい。仕方ない、でしょ。……人の名前なんて、今まで呼んだこと……一度もなかったんだから」


 矢神は、そう言って口を尖らせた。


「……おい、俺まだ何も言ってないんだけど」


「……まだってことは、何か言おうとしてたんでしょ」


「いや、おまえ意外と可愛いところもあるんだなって」


 優は俺に可愛いと言われたことが相当恥ずかしかったようで、ますます顔を赤くした。


「……あきらって、女たらしでしょ」


「ちょ、なんでだよ!?」


「普通の男は、そんな簡単に可愛いとか言わないと思う」


「うぐっ……」


 そう言われると、返す言葉もない。

 自覚はなかったが、そうなのかもしれない。

 楓とも短い期間で恋仲になったしなぁ。そして香苗とも……まあ、あれはその場の流れでだが。とはいえ、ああいうことになってしまったのは事実だ。


「自覚がないのが、余計にタチが悪い」


 グサッ。

 優の言葉が、鋭いナイフのように俺のハートへと突き刺さる。


「それに、今まで何人もの女を不幸にしてそう」


 ……完膚なきまでの滅多刺しだった。


「……ふふ、冗談」


 俺のショックを受けた顔が面白かったのか、優は珍しく少しだけ微笑んでいた。


「はぁ、その冗談は笑えないんだよ……。いや、別にいいけどさ……」


「……もしかして、思い当たることが?」


「うぐ。……あるには、ある」


「うわぁ……。さいてー女のてきー」


 引いているのか面白がっているのか、よく分からない反応だった。……いや、やっぱりこいつ楽しんでるな。


「前言を撤回する! やっぱり、おまえ可愛くない!」


「ふふ、そう。……暁は意外と可愛いとこ、あると思うけど」


 優は先ほどの仕返しとばかりに、そんなことを言う。


「チッ、言ってろ。……そんなことより、猫の飼い主探しはどうするんだよ。SNSは成果なしで、次の手は何かあるのか?」


「チラシを作って、色んな人に配る。そして、地道に聞き込みする」


 なるほど。張り紙だと許可はいるが、その方法なら問題はなさそうだ。……こいつ、意外にしっかり考えていたんだなと感心する。


「そうか、頑張れよ」


「……え? あぅ、わたしだけで……できるかな……。人と、話すの苦手……だし……」


 その途端、優は俯きながら言いにくそうにモゴモゴと喋りだす。

 当初の話では、俺は猫を預かるだけの筈だ。そして、飼い主を探すのは優の仕事だった筈だ。

 それは優も承知の上だろう。だからこそ、はっきり手伝ってくれと言えずにいるのだろうと思う。

 俺も本音を言えば、優と猫には情が湧いてる。だから今となっては、手伝うこと自体はやぶさかではない。むしろ、俺の方から手伝いを申し出ようかと思ってるほどだ。

 ……だけど、それだと優のためにはならない。そんな気がした。


「優」


「……なに?」


「助けてほしいときは、そう言え。……気持ちは、口にしないと伝わらないんだよ」


 俺の言葉に、優は大きく目を見開いた。

 まるで、そのことを初めて知ったかのように。

 そして優の目に涙が溜まり、瞳が潤んでいくのが見えた。


「わ、悪い。俺、また無神経なこと言ったか……!?」


 俺は慌てて優に謝った。すると彼女は目を瞑り、黙って首を横に振るう。そして、一筋の涙が彼女の頬を伝った。


「違う。暁は、悪くない。……悪いのは、わたし。言わないと、伝わらないなんて……そんなこと、当たり前……なのにね……」


 俺は何も言えずに、優の言葉をただ黙って聞くことしかできずにいた。


「でも、そんな当たり前のことを……わたしは、知らなかった……。なんで、どうして誰も分かってくれないんだって……人を、世界を、呪ってばかりだっ、た……!」


「……ああ」


 こいつも、俺と同じなんだな。俺にも似た経験がある。

 小さい頃に母親から置き去りにされ、父親からも虐待されていた。そして、最後には施設に送られた。どうして誰も俺のことなんて分かってくれないんだと、何もかもを呪っていたこともある。

 だとしても「気持ちが分かる」とは言えなかった。誰かと似たような境遇や経験をしていても、それは自分と異なるものだから。そして苦しみは人の数だけあるように、決して他人が共有することも完全に理解することもできはしない。


 だけど――――


 ――――それでも寄り添うことだけは、できるはずだ。


「……あ、きら?」


 優の震える体を、俺はできる限り優しく抱きしめる。


「……優、もし嫌だったら言ってくれ」


「……ううん、嫌じゃ……ない」


「……そっか」


 しばらくそうしていると落ち着いたのか、やがて優の体から震えは収まっていった。


 やがて、優は恐る恐るといった様子で。しかし、今度ははっきりと自分の想いを口にした。


「あき、ら……わたしを、助けて……」


 その「助けて」が、猫の飼い主探しのことなのか。それとも、もっと別の何かなのかは分からなかった。


「ああ、安心しろ。俺がおまえを必ず助けてやる」


 でも。これからどんなことが起きても、こいつの助けになってやろう。俺は、そう強く思った。


 今まで俺は、誰かに助けられてばかりだった。

 だから、今度は俺が誰かの助けになりたいと。そう、強く願った。

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